真利子哲也監督書き足し ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

真利子哲也監督書き足しのページです。

真利子哲也監督書き足し

 
 
立教レポート採点なう。その合間に昨夜は「図書新聞」から届いたゲラをチェックした。原稿は先週水曜に、真利子哲也監督の新作『NINIFUNI』を、前作『イエローキッド』をからめて書いたもので、真利子監督の「世界の悪接続=世界悪の接続」という「哲学的な」映画組成を主題にしてある。ゲラを読むあいだに、字数の関係で割愛した諸点をおもいだした。

コミックストリップ作家の妄想とボクシング練習生の鬱屈が暴力的に織り合わされた『イエローキッド』は、イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』を発想の拠点にしたという証拠を提示する。ボクシングジムの練習生が深夜、ジムにひとりいるとき、吊るされたサンドバッグがきしきし軋む音を詩情化するディテールが召喚されているのだった。ところがふたつの映画は対照的な成立をみせる。『ミリオンダラー…』が「ボクシング映画」と「尊厳死主題の重い人生ドラマ」を「悪接続」しているのにたいし、『イエロー…』はぼくが「図書新聞」の原稿にしるしたように、その細部すべてに「悪接続」がみられながら、「ボクシング映画」としては、練習→成果としての連勝→栄光の獲得、という要素を過激に「欠損」させている。つまりグローブをつけた拳による運動は、グローブのない手の暴力へと横ズレを繰り返し、ボクシング映画としては実質ある練習も試合も勝利も描出されない、決定的にズレた場所に着地して、(編集によって時制が「悪接続」された)波岡一喜への惨劇場面に悪結実するのだった。

「図書新聞」に書けなかったのは、真利子監督が仕込むこの「欠損の暴力」だった。この「欠損の暴力」は、「これだけで映画が終わってしまう」という慄然たる感触とともに、新作『NINIFUNI』全体を、今度は組成的に貫いているものだ。逆にいうと、『NINIFUNI』は「悪接続」の(今度は目盛りの大きい)展開に息を呑みながら、映画が欠損を充填しないまま終了してゆく「呼吸」に「遅れて気づく」恐怖映画とも規定できる。「気づきの遅延」。しかしこれは「欠損」とは逆に観客の「情動」を点火するものとはいえないか。

じつはその証拠が『イエローキッド』にはある。認知症の祖母と暮らし、貧しさに喘ぐジムの練習生、遠藤要のアパートの部屋に、恐喝・強奪を繰り返すジムの先輩・玉井英棋が現れ、遠藤の後頭部を強打することで「なけなしのカネ」を奪う。衝撃からようやく立ち直ったとき、もう玉井の姿はアパートを出た路上にない。買い物客が往来する下町の商店街。やがて遠藤はトレーナーのフードを頭にかぶり、顔を半ば隠す。そこでようやく、相次ぐ生の理不尽に憤怒しだしたという気色で、彼の顔が「ゆっくりと」憎悪に染まってくる(このあと彼は主婦からのひったくりを強行する)。このときの遠藤要の顔の凄さは語り草となったが、表情変化の「ゆっくりさ」はふたつの意味にまたがっている。「作品が開巻してもなかなかそうならなかった」という意味と、「表情変化そのものが、あいだに一切の空白を置かず、それ自体、持続的微速のなかに生成する」という意味だ。むろんアクションを主体にした映画では、「迅速」が舞踊性と「見えないこと」に関わる快感なのにたいし、「緩慢」は情動と「見えること」に関わる衝撃を付与する。

ということは、『NINIFUNI』では、「見えないはずのこと」が「見える」交錯が起こった――その事実「まんま」が、作品終了構造にまつわる、ある「気づきの遅延」のなかで浮上してくる衝撃が描かれたことで、作品の事後性が認識論から情動論に転位する稀有な作品と呼ばれるべきだろう。

「図書新聞」の原稿では以上は本筋ではないが、書きたいことだった。こういう「書き足りない感触」が、どうも終面の映画評の字数が八枚から六枚になってのこるようにもなった。ともあれ、拙稿には真利子監督論としての創見をちりばめてあるので、ぜひご一瞥を。今度の土曜、店頭です。
 
 

スポンサーサイト

2012年01月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する