パウンド ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

パウンドのページです。

パウンド

 
 
なんとなく予感があって、ついエズラ・パウンドをひもといてしまう。ぼくの愛用しているのは函入りだが、パウンドの生涯の大作『詩篇〔キャントーズ〕』のあしらいが比較的コンパクトで、とうぜん新倉俊一さんの訳も素晴らしい76年の角川書店版『エズラ・パウンド詩集』。頁を繰っていたら、『大祓〔ルストラ〕』としてまとめられている初期詩篇集のなかに、「入浴詩」と境を接する短詩、「浴槽」があった。以下、新倉訳を転記――。

【浴槽】

湯がなくなったり さめたりするときの
あの白い陶製の浴槽みたいに
私たちの騎士道的情熱もだんだんさめていく
おお ほめちぎったが それほど素敵でもない貴婦人よ



入浴者=貴婦人〔裸身?〕と浴槽の二重視覚のなかに、愛着の退潮が「機能的に」謳われた詩篇、というべきだろうか。とうぜん「物重視」「形容詞廃絶」「それ自体の自由律」という「イマジズム」の三鉄則で書かれている。

イマジズムの源泉は漢詩、それに俳句だった。つまりここでは「俳句性」と「入浴体験」との邂逅が現出しているといいたい気になる。ちょっと大袈裟な匂いが嗅ぎとられたかもしれないが、来週やる「入浴詩」講義で「入浴」俳句を探そうとしたのだが、この欄の以前にも書いたように、じつは山頭火の自由律と、俳句としては発表されていない(詩篇内の一節にすぎない)吉岡実の俳句しか目立った成果が得られなかった(近隣に位置する句として、赤尾兜子と中村苑子の「濡髪」句をこの欄に掲げたこともある)。一方で短歌では岡井隆、安永蕗子から学生のもの、あるいは自作まで、一応は入浴主題のものを列挙できた。

この不均衡は何か。やはり「湯殿で裸身になること」「汚れを落とすこと」「性を自覚すること」「孤独」が生の原理的な哀しみだとして、その主題的抒情性が、省略によってたしかになる俳句の厳格な構造性と抵触するためだろう。パウンドの「浴槽」も二重視覚性が俳句的で、そこに構造性が保たれているが、俳句よりも「長い」ことで、実際は「入浴に類するもの」に肉薄できたというべきなのだ。実際の詩篇の主役は「物」――比喩の例示のほうに位置する《白い陶製の浴槽》のほうで、それが詩篇のかわいた俳句性をもたらしている。このパウンド詩篇の発見によって、「入浴」テーマが書式(形式)・表現媒質を分離すると最終確認できたようだ。

ついでにパウンドの厖大な『詩篇』を拾い読みしてしまう。オデュッセウスに自らを擬した放浪詩とは知っているものの(そのなかに「ピサ詩篇」の哀調部分がある)、各行で飛躍する聯想運動のほうにやはり心奪われてしまう。新倉訳の調子とも相俟って、西脇の長詩を読んでいるような錯覚。それでもその「細部」は西脇同様、イマジズムの法則による運びにみちている。以前、傍線を付した部分から二、三を、最後に転記しておこう(字下げは省略)。

《星々を女は数えない/女には星はさまよう穴にすぎない》

《ばらばらにしか天国は存在しない/思いがけない上等のソーセージとか/薄荷の匂い、あるいは/夜あそびの猫のラドロとか》

《素足のひと「私は月よ/ひとびとは私の家をこわしてしまった」》
 
 

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2012年02月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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