クリント・イーストウッド、J・エドガー ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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クリント・イーストウッド、J・エドガー

 
 
昨日は振休の女房と、新宿ピカデリーのクリント・イーストウッド『J・エドガー』へ。客席が知的初老カップルで結構埋まっていて、嬉しくなった。ぼくの隣の席の老人などは、イーストウッドの仕掛ける「知的な擽り」にじつに敏感な笑いで反応していた。これは、実際そのようにして迎えられるべき映画なのだとおもう。ぼくもよく笑った。女房もご満悦だった。

『J・エドガー』は近作のイーストウッド作品との対応でいうと、セット+在りものを混在させた美術で泣かせる映像では『チェンジリング』、「政治」に単純化を適応させておおらかに「映画」をたちあげる構えでは、ネルソン・マンデラのラグビー好きをフィーチャーした(しすぎた)『インビクタス』を髣髴させた。これらの意味でやっぱり全篇にアメリカンなイーストウッド印が歴然とある。

風説の何かと多いFBI初代長官、J・エドガー・フーバーの伝記映画。もちろんイーストウッドの歴史把握は複層的だ。まず、フロンティア開発を土台にした西部劇とは別に、アメリカがいつアメリカになったのか、という問題がある。第一次大戦によるヨーロッパの疲弊を尻目に、一挙にアメリカが世界覇権を握ったとき、じつは尾鰭がついていた。革命ロシア、その周辺のヨーロッパ諸国の革命分子がアメリカでテロ活動をつづけていた。

作品では1919年、パーマー司法長官宅への爆弾テロ事件が最初のトピックになる。若き日のJ・エドガー=レオナルド・デカブリオが初めて画面に登場するのは、その現場に駆けつける姿をつうじてだった。それらテロ分子の国外追放を実現し、「アメリカがアメリカになった」。あるいは大恐慌をつうじて世界経済をアメリカ中心に一挙に不安定化させたとき「アメリカがアメリカになった」。イーストウッドはその感触を、J・エドガーをつうじ換喩的に見事に描いている。つまりアメリカという所与、その再考がテーマだった。そのアメリカ的なものの雑駁さが笑えるのだ。メタ・アメリカ映画といっていいだろう。

むろんFBIは「市民生活」の安全保護を目的に、科学捜査、対テロ活動、盗聴を中心にした諜報活動をおこなう「気味悪い機関」だ。同時にイーストウッド=右寄りのタカ派、という通念もみながもつ。実際、若き日のJ・エドガーは市民「管理」の必要から、国民総背番号制導入の持論を語り、諜報も辞さない。またテロリストへの憎悪は終生一貫していて、ときに謀略までおこなおうとする姿さえ描かれる。

このJ・エドガーとイーストウッドの位置は、精神価は、まったく同じなのだろうか。そこを見分けることなしに、この映画の鑑賞があるともおもえない。結論を先にいってしまうと、イーストウッドはネオリベ=グローバルスタンダード世界経済下の「異物排除」「対テロ活動肥大」「超管理主義」とは対立し、「アメリカがアメリカになる途上」の、男性性による秩序維持と正義実現の「スピード」には懐古的な賛意をしめすスタンスだと受けとった。

大恐慌、禁酒法成立によってアメリカはギャングスターの天国になる。ヨーロッパ由来のテロ分子を駆逐したあとのFBIの標的はそれらギャングスターになる(ここにはイーストウッドの単純化がある――ニューディール政策下、大卒の左翼分子による演劇活動や「下放」などは割愛される――よって、二次大戦後の赤狩りとFBIの関係も描写されない――マッカーシーをバカと罵る科白があるだけだ)。経済恐慌はあったものの国内では犯罪者以外の異分子はいない、という状態での「精神上のアメリカナイズ」についてイーストウッドは、さすがにアメリカン・クラシック・ムービー好きらしくジェームス・キャグニーを召喚してくる。彼の二つの主演作、『民衆の敵』と『Gメン』。一時、ギャングスターの破天荒と秩序破りに熱狂した前者の観客が、FBIの悪の駆逐を活劇化した後者の観客へと「移行」する。このときにアメリカの「大衆」が成立した、とイーストウッドが主唱するかにみえる。

ジョン・デリンジャーやマシンガン・ケリーなど30年代アウトローの、司法省やFBIによる射殺や逮捕。これらをJ・エドガーと対比的に描いたことで、イーストウッドのフィルモグラフィの「性質」も確定する。デリンジャーなど、悪を完遂して生の刹那を炎えたたせた人物群の青春を礼賛したのは、アメリカン・ニュー・シネマだった。イーストウッドはちがう。アウトローを描いてもそれは「正義の貫徹」とその際の「悔恨」と対になるかたちでしか描かなかった。だから作品内のキャグニーとデリンジャーの召喚は、それまでのイーストウッドの作家歴検証へと反転するのだ。

映画の進展はやがて、J・エドガーの「自伝」執筆のための口述筆記の現場と、その実際の「回想」場面――この交互性に落ち着いてくる。まずは終生、J・エドガーの秘書役を務めあげた一種の(バランスの良い)女傑、ナオミ・ワッツ扮するミス・ガンディの印象的な登場場面となる。司法省の建物の廊下を20年代フラッパーよろしく闊歩する女性秘書たちのひとりに、秘書の新人としてワッツ=ガンディがいた。

その彼女との三回目のデートだったかで、デカブリオ=J・エドガーは国会図書館へ案内する。閲覧検索カードシステムを提案・導入させたのは自分だと語るデカブリオ。そこで彼女からランダムにテーマ指示された書籍を、短い時間で探しだす「アクション」が付帯するのだが(礼賛されているのは、ある「アメリカ的スピード」だ)、この国会図書館を舞台としたデートシーンに重大な見どころは二つある。ひとつは「天井をご覧」とデカブリオがワッツに示唆、彼らの「見た目」で図書館天井の画面が挿入される。この映像は実際の図書館のものであるか否かは別にして何らかの「現物」だろう。それからのち、20年代の国会図書館を再現したセット撮影へと画面が接続される。このとき「美術」による一種の催涙作用が惹起される。

しかも検索カードは日本の江戸時代の薬箱(黒澤明『赤ひげ』など)的な木製の細かい「棚」に入れられている。このとき「木材」という後のテーマに伏線が張られる(実際、室内シーンの多いこの映画で、画面細部の艶っぽい質感をつくっているのは、室内を一定の美術様式でみたす木材家具や木材壁の数々なのはいうまでもない――その一方で画面合成CGも組み入れた大規模なモブシーンが対比的に目立つ――とりわけルーズベルトとニクソンの大統領就任パレードがそれだろう)。

(作品の美術はクラシックカーにしてもそうだが、「アメリカがアメリカになった」時代の物質表象が、すでに過去の様式のアーカイヴとして重層化し、かつそれが「素早く動く」ことで解放される〔アウラの喪失!〕姿を延々捉えている。そのなかに、アウトロー逮捕の瞬間など、往年の映画へのオマージュももちこまれる。こうした発想の起点を「国会図書館」とした点に、脅威をかんじた)。

話をもどすと、もう一個は、「元来は無秩序な多数のもの」→「分類・整理」→「検索」→「特定」、という、J・エドガーの営為すべてを要約する精神傾向がここで露わになる、という点が重要だった。「分類」がミシェル・フーコーのいう「近代知」の最大の賜物なのはいうまでもない。ヨーロッパはそれをリンネの植物学でまず大成したが、アメリカはJ・エドガーの図書検索カード→フィンガープリント・ファイル、というFBI的な「管理」のなかで大成した、というイーストウッドの冷徹な認識がここに走っている。

FBIが取り扱った(当初は州警察から排除された)事件としてスポットが当てられるのは、リンドバーグ子息誘拐事件だ。州警察の非科学的捜査では犯人逮捕にまったく行きつかない。途中からは一般分野から身代金と子息引き渡しの交渉代理人が出てくるなど事件推移が混乱を極めてゆく。

ところが雇用した科学者の分析をつうじ誘拐につかわれた梯子の木材と、その鋸による切り口、さらには身代金の紙幣につけたマークから、J・エドガーたちは犯人を特定した。つまりここで、「木材」→「分類化」→「検索」→「特定」という「管理捜査」が初めて定着をみたのだった(犯人とされ逮捕されたドイツ系移民ブルーノ・ハウプトマンはヒトラーが勢力を伸ばしている36年に電気椅子で死刑に処されているが、これが冤罪だったという言説は現在もあり、イーストウッドも映画のなかでその可能性をチラリと示唆している)。

順番は前後するが、J・エドガーはあるとき面接で自分の右腕に、アーミー・ハマー扮する「クライド」を引き入れる。不躾で傲岸な履歴身上書をものともせず、クライドをなぜ雇ったのか――映画進行に出来した「シミ」は、やがてその判明をみる。イーストウッドはホモソーシャル世界でのマチズモを描く映画作家という分類はできるだろうが、実際は、それを超えたホモセクシュアルな紐帯が、J・エドガーとクライドを彩っていて、それは二人の「活躍」のはざまに、いよいよはっきりと痕跡をのこしてゆく(喧嘩の果てにもつれあった、ふたりの接吻シーンまである)。

ホモソーシャルの描出に長けてはいてもホモセクシャルのそれには不得手とおもわれるイーストウッドは、ここで飛躍的な還元主義をもちいた。J・エドガーの「内面的女々しさ」をたえず励起する母親役にジュディ・デンチを配して、J・エドガーのマザーコンプレックスを描いたのだった。息子を励起しているはずなのに、実際は「同時に」スポイルしてすべてを自らの圏域下に置く母デンチ。この「テリブルマザーぶり」の由来もまた、アメリカ映画の参照、たとえばヒッチコックの『サイコ』、あるいはさきほどのジェームス・キャグニーの召喚に敬意を表するなら、キャグニー主演、『白熱』のあの母親をおもうべきかもしれない。イーストウッドのモチーフのひとつ、被虐的変態性は、デンチの臨終の夜、鏡のまえで母の衣服を纏って泣くJ・エドガーの姿に、変形的に転移する。いずれにせよ、アメリカン・マチズモの奥に「女々しさ」「女性フォビア」があるというイーストウッドの主張は、それはそれとして印象につよくのこる。

さて、なぜ「J・エドガーがクライドを選んだのか」という問題は、背広姿などの趣味の相似などを超えて、変更のきかない極私的なものという判断が立つ(J・エドガーはその地位にも関わらず生涯独身だった――クライドもおなじ――あるいはもうひとりの「聡明な男性」ミス・ガンディーも)。それは「見染め」にまつわる「運命的なもの」なのだ。このときJ・エドガーの精神的営為、「分類」→「検索」→「素早い特定」が、「愛」の分野でも変更不可能に発露されたという判断が働く。

都合50年程度の役柄の年齢差を、見事な特殊老けメイクで披露するレオナルド・デカブリオは、ジェームス・キャグニー的に溌剌とした演技スピードを終始披露しているが、キャグニーにはなかった晩年の「弱まり」という新境地も、その特殊老けメイクで体現し、見事なものだ。対するクライド役のアーミー・ハマーは老けメイク自体にはやや不自然さがのこるものの、老人同士として競馬場などでデカブリオと対峙するときに、得もいわれぬ「弱さのアンサンブル」を奏でる(スピーディな手持ち移動ショットもなくなる)。この感触は幾分、『ミリオンダラー・ベイビー』ラスト近くのイーストウッドとモーガン・フリーマンとの「風合い」に似ている。

「分類」→「検索」→「素早い特定」、という主題系は、最後になって記憶の分野に飛躍する。J・エドガーが口述筆記させていた自伝原稿を読んで、クライドがJ・エドガーの「事実歪曲」「自己中心性」「伝説化(自己神話化)」を批判し、「きみはもう齢をとって、何が真実かもわからなくなってしまっているのだろう」とJ・エドガーに老残の事実まで突きつける。ところがそうした自分の都合の良い「記憶作用」もまた、「時間の分類」→「時間の検索」→「時間の特定」の所産なのだった。ここにきて、作品は「ある恐ろしい人間的宿痾」すら相手にしていたのだと戦慄が走ってゆく。

ノーベル平和賞受賞を目前にしたキング牧師に、諜報活動によって汚名を着せようとしたJ・エドガーの妄執。「盗聴」によって歴代大統領のスキャンダルをつかみ政治世界を延命したJ・エドガーの「姑息」。あるいは司法長官だったロバート・ケネディとの暗闘。それらは一気に時制がニクソン大統領就任へ飛んで、歴史的事実の了解のなかに潜ってしまう(キング牧師の暗殺も、ロバート・ケネディの暗殺も実際に描かれない――あるいはジョン・F・ケネディの暗殺も、伝聞事実として描かれるだけで、代わりにジョンとマリリン・モンローとおぼしき盗聴テープの音声だけが作品内に物質的に響く)。そうしてJ・エドガーの死がやってくる(特殊な肉襦袢をデカブリオは纏っているのだろうか――最後に、「見事に老残した」裸の上半身を画面にさらけだす)。そしてニクソンの大統領就任だけに作品の「力点」が置かれる。

このラストちかくの推移によって暗示されるのは、FBI的諜報が組織肥大したFBIから、ニクソン、つまり「大統領の陰謀」のほうに軸足を移したというイーストウッドの歴史観だ(このニクソンがその後の「ネオリベ的管理社会」の起点だという主張がなされているのではないか)。作品はミス・ガンディの「事後処理」の鮮やかさとともに、やがてウォーターゲート事件で失脚するニクソンをも暗示して鮮やかに終わる。
 
 

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2012年02月21日 日記 トラックバック(2) コメント(0)












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