上原三由樹・口腔盗聴器 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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上原三由樹・口腔盗聴器

 
 
はたして歯は骨か、あるいは舌は内臓か――いずれにせよ、「口腔内」は、人の「内域」「内臓領域」を幻想するとき最も手軽に可視化される部位として通常はある。みだりにみせてはならないのは、それらが動物性において「みだら」だからだ。ただしその展覧が唯一許容される「現場」もある。歯科医と患者の織りなす治療現場がそれだ。そこに映画的想像力が不埒に突入した。三月、渋谷ユーロスペースにて「桃まつりpresentsすき」全九本中の一本として上映される、『口腔盗聴器』。恐怖と情欲がこれほど刺戟された映画は近頃なかった。

悪辣なほど冷静で効率の高い説話性によって、「変態性の進展」が刻々描かれてゆく。人の「口腔内」が幻想の作用域だから、作品に描かれる画と音の共謀、領域侵犯は、観客の口腔部分からいわば内破的に拡がって、一種、感覚が拡大されたうえで暴力的に転位される。主人公の歯科医とともに変態性の動悸にまみれ、すべてに「同調」しながら、「同時に」、観客の身体は自己穿孔性を伴った「翻弄」をも受けるのだ。これほど道義的にヤバい作品を撮ったのが、まだ若いといわれるだろう女性新人監督・上原三由樹だというのが、さらなる驚愕だった。おもいかえせば、この驚愕の質は、性別をかえれば、第一回映画美学校の卒制作品で古澤健の『怯える』が登場したときと似ている。

冒頭、作品はフィックスショットで、歯科治療器具を捉える。エキスプローラ―、エキスカベーター、ピンセット――すべては鋭角的で金属光を放ち、冷ややかで非人間的だ。手術器具に病的フェチをしめしたクローネンバーグ『戦慄の絆』への参照があるかもしれない。歯型モデルの林立は、一種、「欠落した頭蓋骨」の重畳、という恐怖感覚を駆り立てる。歯科治療行為も描かれる。中年の坂を迎えた歯科医は禿頭で一見精悍だが、眼差しの気弱な流動を即座に転写されている。歯科医院の空間内は、殺菌的・管理的で無駄や余剰のない機能性にみちているべきだが、そのなかの唯一の「無駄」「余剰性」こそがこの歯科医だという見込みが立つ。演じているのは、中台あきおという演劇畑の俳優だ(好演)。

監督・脚本の上原三由樹は、歯科助手の「説明」科白も加えて、即座に作品の「初期設定」を完了してしまう。この説話性の高効率にすでに「冷徹」の兆候がみられる。設定はこうだ――雑居ビルの一角に「松葉歯科」という歯科医院が収まっている(その入口の透明扉に貼られた看板名のテープが字画のうちのいくつかを「欠落」させ、「松葉」の字のうちではすでに「公」部分しかのこっていない――このとき作品舞台が虚構化されていることの目配せのほか、何らかの「欠落」を作品が指示していると感じさせる――最終判断はそれが「倫理の欠落」だったと合点するだろう)。

歯科医は父親からの二代目(父-息子間の外貌的「相似」が語られる)。ビルのオーナーは近頃他界し、こちらも二代目としてその娘が雑居ビルのオーナー住居にもどってきた。歯科医はその中年の女が少女だったころ一方的に性的欲望を抱いたことがある(そのことを新オーナーの女は知っている)。新オーナーのその女(以下、「母親」と呼ぶ)には高校生の娘がいて、それがその母親の少女時代と瓜二つだった。若ぶっている現状の母親にわずかな腐臭をかもす頽落が描写されるのにたいし、内気でぶっきらぼうで無口なその娘には一種動物性の魅惑がある。歯科医が往年の母親との外貌的相似に驚愕、動悸し、さらには欲情にまみれてゆく様子は、手にとるように観客につたえられる。「娘さんの歯の治療はいつでも大丈夫ですよ」とおためごかしを装いつつ母親に語る歯科医の声が欲望にふるえている。

この映画の主題は、「同時的にあるもの」のなかに「対立」が混ざって、それがすべて気味悪い徴候となる、ということだろう。事実、母親は転居の挨拶のとき、その亡き父親にたいし歯科医が愁傷を述べているのに、間違えて「配置」されたようにその表情が笑顔をかたどっている(演じている横山真弓は「笑顔」の「誤用」という点でじつに強烈な印象をのこす女優だった)。のちのちにまで連なる間歇的な娘との自宅シーンで、夫と離婚したこの母親が、往年の歯科医の慕情を手玉にとって彼を籠絡しようとしていて、なんと娘にも承諾を得ていることがわかる。

娘の奥歯の治療がはじまる。歯科治療機器のつよい照明によって、口腔内はおろか顔の下半分が白く跳んだ(「欠落」した)娘の顔のありように誰もが恐怖をおぼえるにちがいない(顔の下半分の欠落という点では、じつは清水崇の『呪怨』ビデオ版第一弾の恐怖のクライマックスシーンと微妙に連関がある)。顔の下半分の不在が強調されて、西尾瑠夏演じる娘の眼と頬の皮膚の質感が解剖学的に強調される。動物的に潤み、「淫蕩」をも兆した黒目がちな少女の瞳。年齢的な新陳代謝の活発をも不用意に、「徴候的に」告げてしまうように、彼女の頬が脂でひかり、そのニキビ痕も生々しい(撮影は田辺清人、照明は山口峰寛)。「同時に」その口腔内がつよい照明で跳んでいるから、そこは侵犯不能に「脱領域化」し、神秘化もする。その侵犯不能性にこそ「侵犯」が闖入してゆくのだった。

娘の第一回治療後、診察が終了した一人の時間に、歯科医はおもむろに段ボールの小さな郵送物をひらく。マイクロ盗聴器がそこに入っていた。彼は娘に入れる奥歯のつめものにそれを装填、それにピンセットで刺戟をあたえ、つないだチューナーに「音」がちゃんと増幅されることを手際よく確かめている。黒バックで机上の照明にうかびあがった歯科医の顔はすでに性的な欲情で、笑みすら抑制できない。あろうことか彼はマイクロ盗聴器を装填した娘用の奥歯を自らの口腔に入れ、それを舌上にまろばせ遊ばせて、悦に入る。生理的な気持ち悪さがこの場面で沸点に達しているのがわかるだろう。この気持ち悪さは、「欲望の行使に歯止めがきかず、善悪の彼岸に達してしまう暴力的な映画に接しているのではないか」という観客の「予想」をもふくむはずだ。

娘の第二回治療で、マイクロ盗聴器を仕掛けた奥歯は無事、娘の口腔内に装填されてしまう。ここから「盗聴主題」の映画(たとえば最近の日本映画の分野では山本政志の『聴かれた女』が大傑作だった)への縦横無尽の「侵犯」がはじまる。

かんがえてもみよう――盗聴器は、通常は居住空間の隠れた定点に仕掛けられるから、盗聴行為がそれじたい問題だとしても、そこでは静止的秩序性がいちおう遵守されている。ところが奥歯にマイクロ盗聴器が仕掛けられた場合は、盗聴可能な範囲が異様に「拡張」されるのだ。ことばの発声、対する者からの会話内容、吐息(性的なものもふくむ)、咀嚼音、嚥下音、生活音(歩行音等のみならず、たとえばトイレでの排泄音なども範疇入りしてくる)――これらが、身体がどこにあっても「電波のおよぶ範囲」ですべて「じかに」把捉されてしまうのだ。

盗聴できる位置によって成立する陰謀ではなく、どう移動しても――それが居宅はおろか近隣にあっても、「身体まるごと」把捉されてしまう、いわば場所ではなく「存在」に仕掛けられた「全的な除外例なき盗聴」、対象の頭蓋骨に直結したかのような「容赦のない盗聴」。これをドラマ上実現してしまったとき、もう映画じたいが「してはならないこと」を超えている。

こうした「逸脱」はこの映画ではさらに限りない。なんと歯科医は盗聴音を拾うイヤホンを、治療中も耳に装着している(彼はマスクを着用するから、その装着が不自然に映らない)。それで前言列挙したうち、最も「不道徳な盗聴内容(音)」(娘の自慰中の吐息、さらにはトイレ使用音)が治療中の彼の画柄にボアオフでかぶさってくるという「逸脱」まで生じるのだった(録音は中川究矢/整音は光地拓郎)。

ボアオフ処理というのは、原理的には映像のうえに設定上了解される音声をのせて映像の一義性を破砕する映画特有の営為だ。「そうしていい理由」は、観客の「知りたい」欲望を見越した点に拠っている。だからこのボアオフ処理で照らされるのは、光景ではなく観客の内在的欲望、ということになる。もともと視覚と聴覚はその分離性によって秩序を形成するのだが、これらが不分離状態に置かれたとき、聴覚性が視覚性を凌駕凌辱するという惑乱も起こる。その惑乱の位置を、別患者を治療中、イヤホンからの盗聴音に「発情」してしまう歯科医が代理的・換喩的に引き受ける。

盗聴内容のうちでは「娘の自慰の吐息」がボアオフで画面を覆うシーンが、いわば「同時性」猖獗の最大値だった。煽情性の高い衣服(スカートが短い)をまとい浮かれて外出する母親(ところが室内シーンを中心に、ホットパンツ姿ののびやかな脚を捉えられる娘とは、どだい「脚の表情」がちがう)。玄関まで送る娘は不機嫌と無興味を振舞にかたどっている。カットの流れはこうだ(編集は遠藤大介)――案の定、母親は歯科医を籠絡するための歯の治療に出かけた。一方、娘は自室にもどっていて、寝台のうえで自慰を暗示するような場所に自らの手を置く。母親の治療。歯科医はイヤホンを装着している。治療用の椅子に伸びている短いスカートからの母親の脚。ボアオフで響きはじめる娘の、喘ぎをほんのわずかふくんだ吐息。

このとき(月日を挟んでの)「相似」を謳われた母と娘に、複雑な同調と分離が起こる。この運動が母親の身体そのものを「舞台」としていることが残酷だが、いったん現れた映像と音声は、観客の感覚のなかでは決して「分離」できず、その効果が不可逆的な「陰謀」「施術」に似通ってしまう。よく考えればこのシーンでは、「照応」を施された母と娘は実際には似ていない。ところが映像と音声が似てしまう悪辣な「不如意」のようなものがあって、それで「同時性」が不道徳に翻弄された疲弊が生ずるのだ。

同時に観客は、それまでの娘と歯科医の距離感や、娘の母親への科白から薄々「想像」している――彼女の「吐息」は、母親の治療中に自己の幻影を歯科医にたいして上乗せしようとする「作為」なのではないのかと。

その後母親への施術の代わりというようにふたたび現れた娘の治療シーンは、全体がハイキ―のしろさのなかにあって、現実味を欠くような(つまりは歯科医の妄想が実地召喚されたような)演出が施されている。そこでは歯科治療そのものが無防備に口腔を歯科医にたいしてひらき、手術とちがって被治療者の意識を保ちながら歯科医にたいして存在を全面的に預ける、「愛の儀式」であるかのような高揚を迎える。治療中、至近となった歯科医の顔と、娘の顔との距離。娘の歯科医への眼差しが熱い。とうとう歯科医はマスクなしの唇で、娘の額に接吻する――。

これが妄想であれば、歯科医はその欲望を罰せられる、というのが通常の映画であるはずだ。「逸脱」がいつか逸脱を禁じられるのが現実原則というものだ。ところが、「母親と娘」「歯科医とその父親」というふうにドラマ上設けられた「相似軸」は、作中にさらに病原菌のように「蔓延」して、真の相似軸をも掘り当ててしまう。それが歯科医と娘の相似だった。これを娘が所感して、今度は「相手の欲望の承認を自らの身体に施すこと」を作品がテーマにしだす。これがじつは「変態」ではなく「純愛」テーマだという点に注意が要るだろう。

結末は書かない。ただし相似軸の異様な蔓延は、作品の映像を音声が「侵犯」して、映像と音声とが同時的に「分裂/相似」を掘り当ててしまう「付随性」の魔力を決定づけた点に、すでにその端緒があった。結論的には、課題である「すき」の概念が見事に拡張された、異様な27分だった。すべて、映像への音声の侵犯が、観客の身体内(口腔内)で「想像的に」起こったというに尽きるだろう。おなじシリーズ中の、熊谷まどか監督『最後のタンゴ』(こちらは笑いがとまらない)とともに必見だ。
 
 

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2012年02月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(2)

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2012年02月27日 編集

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2012年03月01日 編集












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