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酒井隆史・通天閣 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

酒井隆史・通天閣のページです。

酒井隆史・通天閣

 
 
酒井隆史『通天閣』(青土社、11年12月刊)をついに読了した。ぎしきしに文字のつまった700頁超の巨冊。辞書のように重い本なのであまり持ち歩けず、読了までに二週間ちかくを費やした。『現代思想』の07年12月号からの計二年間の連載集成。もともと大量原稿の掲載だったが、そこにさらに執念の加筆まで施されている。

酒井隆史といえば、「暴力」「自由」の哲学的把握にフーコー、ベンヤミンなどを中心的に介在させる気鋭の思考者だという認知があった。ところが記述が領域侵犯的な酒井だけに、参照領域ももともと西洋思考にとどまらない。谷川雁、竹中労など日本の特異な思考者も召喚される自由な論脈がいつも素晴らしかった。実際、本書、『通天閣』でも玉川しんめいや朝倉喬司の著作が参照系として顔を出してくる。通常のアカデミシャンとは気圧がちがうのだ。

この圧倒的な細部の充満する大冊を乱暴に要約してしまうと、スポットの当たる人物は以下。詩人・小野十三郎、棋士・阪田三吉、織田作之助と川島雄三、借家人同盟の首魁・逸見直造、60年代以後の「通天閣→飛田」の映画作家たち。小野については工場林立地となった湿地帯からついに通天閣を遠望する彷徨がその評伝的記述のなかで捉えられる。阪田についてはその被差別的出自が微妙な陰影をもって推測されながら、伊藤大輔によるその伝記映画『王将』が、消失時という禁を破り、さらには地理感覚・方向感覚の錯綜をもしるしづけて、通天閣が作中に象徴的にランドマーク化された意義が、『王将』原作者・北條秀司の遺文博捜によっても緻密に跡づけられる。織田/川島にいたっては、織田作品の空間進展性と脱権威性を崇敬する川島が『還って来た男』『わが町』と織田作品を原作に仰ぎながら織田的映画を撮ることに蹉跌した経緯を具体検証的に追い、その雪辱戦として『貸間あり』を、井伏鱒二の原作から換骨奪胎し「織田作之助化」したその背景まで、人間的に考察してゆく。どれもしびれるほどの展開・切れ味だ。

むろん酒井の主眼は作品評論ではない。むしろ細かい目盛で進展してゆく地勢変化、そこにどんな細民・侠客・娼婦・社会主義的分子・地方政治屋・地方財界人・新聞業界者(ここにとうぜん宮武外骨がくわわる)などが跳梁したかを虫瞰的な絵巻にしようとしている。つまり――人が街をつくる。街が人をつくる(人を寄せる)。この二動勢をまるごと捉えて、結果的には地勢変化そのものを主人公とする書物をつくること。これが酒井の眼目にちがいない。

そうして「大阪ディープサウス」と一括されてしまう、(第五回内国勧業博覧会で立ちあがった)新世界、ジャンジャン町、マッチ工場のあった集落、そこから発展的に延びていったドヤ街の釜ヶ崎、遊郭として勃興した飛田まで、「地勢差異」が生き物のうごきのように生じてくる。これらを見下ろす上町台地まで配されることで、べったりとした低地性に立体性も出てくる。しかも古地図をふくむ書物・映画の参照のみならず、その付近を実際に歩く酒井のフラヌールぶりによって、叙述すべてに個別身体性の「芯」が通路のように貫かれているのが驚きだ。

とうぜんベンヤミン『パサージュ論』との比較検討も促されるが、ベンヤミンのそれは書物の「引用」でつくった夢幻的な「街路」という色彩が濃い。読者は通路を通りぬけようとして迷う身体をそこからあたえられる。一方、酒井のこの著作は、もっと絨毯爆撃的というか、記述作用域に「一帯性」「方面性」の性質が「具体的に」付与される。結果、有象無象の「人物たち」の跳梁こそが記述に招かれるといっていい。

実際、書中で最も分量の多い第四章「無政府的新世界」は、社会運動家、侠客、借家人、官吏、あやしげな実業家が、アナ/ボルともども入り混じり、名前とは裏腹にすでに古びてしまっていた大正後半期の新世界周辺に別の活性があたえられる。天王寺公会堂や恵美須(戎)館(=映画館)といった「建物」のもつ魔力までもがえぐられたとき、ショウウィンドウと娼窟に魅せられたベンヤミンにはない着眼もみえてくる。

とはいえ「欲望」にたいしての繊細さはベンヤミンとおなじ。浅草を舞台に、これまで「日本版パサージュ論」と呼ばれていた堀切直人『浅草』全四巻(これも驚くほどの大部)とも同様だ。ただし堀切が文学書を中心にした渉猟をおこなったのにたいし、酒井は「無政府的新世界」では眼もくらむほど大量の、往時の在阪新聞からの参照をおこなっている。「気の遠くなる作業」が「圧倒的な速度」でおこなわれたという予想から、なにか「ひかりの感触」も生じてくる。

伊藤大輔『王将』を扱い、川島雄三の三作を扱う酒井は、文献探査と、実際の分析的鑑賞が見事な均衡を演じる、理想的な映画評論家だ(邦画ファンにもその意味でこの本は必携)。密度が豊潤のみならず、事実を列挙したうえで驚愕を導く批評の「物語性」が素晴らしい。その酒井が大阪ディープサウスの脱個性的な凋落への挽歌を奏でるようにしるしたのが、「通天閣」のみえる映画を三度めに集めた最終章「飛田残月」だ。フィーチャーされるのは大島渚『太陽の墓場』と田中登『マル秘色情めす市場』。どちらも画面から「地勢」が具体的に取り出され(それにしても酒井の風景判別力が見事だ)、そのことで作品のもつ主題に綿密な肉づけがなされてゆく。

ぼくはかつて『太陽の墓場』は大島渚論で通過的に論じたことがあり、『マル秘色情めす市場』は性愛主体にいちおう綿密に論じた経験もあるのだが(『68年の女を探して』中の一章)、酒井のようには「風景の具体的位置」をまったく見抜いていない。たぶん記述に誤りもあっただろうという気になって、ひたすら動顛した。それほど酒井の論脈は具体検証的だった。そういえば酒井は『マル秘』の夢野四郎がシナリオ段階では墜落死を予定されていたのに実際は縊死となった変更はなぜだろうと書いていた。ぼくはその縊死は、萩原朔美が出演していることの機縁で朔太郎の「天上縊死」が喚起されたのではないかと直観でしるしただけだ。

ともあれ、先に読んだ井上理津子『さいごの色街 飛田』の隔靴掻痒感もある資料収集との「格闘」(それゆえにそれはあの驚くべき捨て身の「人間取材」へと発展したのだが)を、あっさり飛越してしまった酒井の異様な「膂力」は幻惑的の一語につきる。
 
 

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2012年02月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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