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喜田進次・進次 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

喜田進次・進次のページです。

喜田進次・進次

 
 
俳句ではやはりその「俳」の字が問題なのだ。「にんべん」に「非ず」の旁を付すその字のおそろしさ。なにか短躯で畸形な詩型のおもむき。むろん周知をいいおおせる月並にはその感覚がないし、奥行のある季語秀吟にもそれはない。真正俳句のみがもつ、世界認識の奇怪さと恐怖(これは俳句に端を発したイマジズムでは決して解けない課題だろう)。2008年8月2日(ぼくの誕生日だ)に55歳で逝去した、一部にとってのみ知名だった俳人・喜田進次の、生涯句集『進次』がこのたび柴田千晶の金雀枝舎から上梓されたが、そこでも「俳」に向けての終わりのない格闘が凄絶にしるされている。動悸した。

句のなかに、ときに喜田の妙ちくりんなエッセイを織り合わせた秦鈴絵(きっと喜田の句中で「恋人」と呼ばれたひとなのだろう)の編集、それと秦の「後記」によって、喜田句の奇矯さが満身創痍を引き換えにしたものだったとわかる。芭蕉の句すら「ごろつきの句」と呼ぶ喜田は、その俳句への直観を自身にも適用しようとして、ときに自壊自滅すら厭わない。畸想句、難解句も数多い。ところが「俳味」ではなく「俳」そのものに拘泥する喜田は、永田耕衣の句のような、禅や幽玄や余情の安定性にもおもむかない。永遠のあたらしさのゆえんだ。「畸」であることのみに閉塞しようとして凄惨を醸すその位置どりということで、詩壇で類推したのが、たとえば加藤健次だった。

秀吟のみをこころざせば、喜田はそれなりの達成をみせただろう。だがそうしなかった。むしろこうした秀吟と奇怪吟の二段構え(あるいはさらに自壊句をくわえた三段構え)、それによる経験したことのない立体感が句集『進次』の魅惑だということができる。まずは秀吟を、引かせてもらおう。

秋天へもどるがごとし郵便夫

手袋に一身入るるごとくなり

ねむきねむき身の奥に蓮ひらく音

鰯雲よりもしづかにあるきけり

昼寝して四国の中のどこかかな

猫去つて畳の上に秋の海

バカガイを食つて日なたに黙りゐる

椋鳥にあけつぱなしの財布かな

秋冷といふべきものが水の中

栗をむくいつしか星の中にをり

茄子といふとほき世の紺漬けてあり

「バカガイ」の句は、俳句が予定する自己卑下的凄味のなかにあって、それ以上ではない。「椋鳥」の句も一見奇矯だが、その(雛の)嘴と財布の形状に相似を見出したとき穏当な類推句に落ち着く。「茄子といふ」の「といふ」には喜田の理知が透ける。「栗をむく」の空間飛躍のみが常軌を逸しているが、句の抒情が逸脱をきれいに回収してしまう。それにしてもどの句も「感情」が佳い。ところが喜田のなかの騒ぎ虫は、これにあきたらない。

そこで「俳」を念頭に通常の俳句性への凌辱が喜田に発生する。作法のひとつは、「当然」を詠んで、そのあまりの当然さに、「自明な既存」が破壊されることではないか。たとえば――

霧の中巨大な烏瓜のまま

桃食べしにんげんの香を漂はす

写真から誰も出てこぬ秋の風

夏至暗く使はねば身の広かりき

花栗の幹そつくりに冷えてみる

冷奴どこにも円と球置けず

大雨がやんで椋鳥まで直線

先に掲出した句群では「中」の措辞が印象的だったとおもう。で、いま掲げた句群は「中」の措辞がないのに、ある「内域」(=「埒」)が詠まれ、そこで自己にかかわる不動性や無差異が詠まれている。ある意味で「当たり前」と呼ばれそうな句意が、どこかで「奇蹟が起きない奇蹟」(ジャン・ジュネ)に反転しそうなあやうさ。次には畸想そのものが綺麗な句群が以下のようにある。

壺の底につめたきものがあそびをり

夕顔が手にあるやうにひらきし掌

洗ひ髪川に引つばられるかもしれぬ

あらうことか未明の花火ひらいたまま

これらでは着想が勝利している。ところが喜田の最後の真骨頂は、自身を梃子にして「人間」という大きな概念に亀裂を入れる、そのしずかな凶暴性にみてとるべきかもしれない。以下は簡単な一句解説を付そう。

たましひのやうには桃を過ぎられず
(では、どのようにして桃の花林を句の主体は「過ぎる」のか――「からだ」あるいは「肉」のようにしてだろう――桃の色香は、人が魂であることを拒絶する)

青麦の方がきれいで人を捨つ
(比較構文によるが、その比較自体がのっぴきならない。人間遮断という恐ろしい事態が詠まれているのに、句のうつくしさはどうだろう。よって三橋鷹女の「嫌ひなものは嫌ひなり」の上位にある)

水仙や立てば人間蒼かりき
(因果性の逸脱。水仙に干渉を受けたのではなく、もともと人間は蒼白だというリラダンのような認知があるのではないか。断言にみえて過去形の微妙な斡旋がにがい)

雌を出て雄にもどれば蝉しぐれ
(上五「雌を出て」の読みが問題となるが、「性交の終了」とみた。性交の終了後、「男にもどる」のなら、性交中は相手の女性性にまみれて、規定できない性の惑乱に自らいたことにもなる。その後の虚脱感に「蝉しぐれ」が響き、死の予感が配置される)

桜貝と思へなくなり裏がへす
(何か作者の生の不吉な持続感のなさが印象されて慄然とする。しかも掌中にあるものが「桜貝」なのか「それ以外」なのかがついに判然としない、朦朧の怖ろしさもある)

鯊ばかり釣れにんげんに戻らうか
(太公望は人間ではない〔仙人である〕、という前置的な認識があって、「鯊ばかり」の絶望が救抜されている絶妙なはこび。こうした構造的二重性によって句の悲哀がきわまる)

掲出では、可能態の大きさをいうため、失敗とみなされる喜田の句をかかげなかった。そういえば筆者はさきごろ「入浴詩」の最終講義を立教大学でおこなったが、俳句では例外的な見事な「入浴句」が喜田にある。

空蝉をとりにゆくなり朝湯して

この寒き暮色天体ひとり風呂

句集『進次』は函入りで、そのなかに分冊として詩集『死の床より』も入っていると最後に付言しておこう。
 
 

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2012年03月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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