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吉本隆明メモ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

吉本隆明メモのページです。

吉本隆明メモ

  
 
Facebookに連打ちした文章を以下にペーストしておきます



吉本にかんしては、ぼくは他人を非難するときの舌鋒のするどさに辟易して
ずっと花田派をとおしてきて、
じつは近年になってまとめ読みをしたような体たらくでした。

以前、「詩と思想」の原稿にも書いたんだけど、
実は吉本著作を縦断的に読んでゆくと矛盾がいっぱいある。
ところがその矛盾こそが彼の思考の生動性なのですね。
このことに気づくまで時間がかかりすぎた。

『言語美』が吉本著作の中枢なのは当然として
ぼくがびっくりしたのは、『最後の親鸞』と『母型論』の二著でした。
このふたつの著作の重要性ならフランス現代思想と比肩できるし、​
とりわけ『母型論』は用語はちがうけれども、
ドゥルーズと似た着眼点も多い。
これらを思い返してもわかるように終始、「自己表出」に拘泥した​から、
吉本さんは詩作の上ではなく思考のうえで詩作者だったといえる。​

今後も「吉本を使う」必要は多々あるとおもいますが
では「吉本を使う」とは何か。
いまは答をまだぼく自身出せていないけれども、
ヒントは藤井貞和さんや瀬尾育生さんの思考にあるような気がします。
このふたりからの「角度」によってなら吉本を逆照射できる。

「修辞的現在」はぼくも当時、それで詩のフィールドを見取る道具としたけど、
それ以外の余禄のほうが吉本には多いとおもいます
 
(※以上、廿楽順治さんのミクシィ日記への書き込み)



むろん再生産理論の読みなどに理解度の差はあったが、アレゴリカー花田と情熱的分類家吉本の思考にさほど差がないのではというのが近年生じた認識だった。花田の非連続、吉本の破裂にいたる連続は、ともに持続の相にあるという大局がまず把握できるが、大きいのは相殺装置をふたりともにもっていた点ではないだろうか。花田は早かった。たとえばエラン・ヴィタルとフラン・ヴィタルがそれで、吉本は同様の装置を親鸞の往相/還相から掴んだのではないだろうか。相殺によってできる眺めを花田は「死」といい、吉本は「無」と呼んだ。いま吉本は孤立への信頼では​なく類推への親和によって読まれなければならない。花田​とベンヤミンの類推がすでに成立しているなら、吉本をドゥルーズの傍らに置いてみることが必要かもしれない。それにしても「う」を昔のぼくは浅田彰のようにわらった。いまはちがう。発語衝動とは(古代)人にあったと同時に、世界そのものにすでにある、と考えるようになっている



あ、最後に書いたことは期せずしてベンヤミンの「純粋言語論」とおなじ論旨だった。そうか、吉本とベンヤミンも類推可能関係だ、ということだな。「純粋言語論」については首都大学東京から出ている『詩論へ』の最新号で、瀬尾育生さんが見事な明晰さ(つまりはわかりやすい、ということだ)で語っている
 


吉本『母型論』の書き出しは「口」だった。母親の乳を吸う子の口がやがて錯綜し、喉の痙攣を契機にした口腔の運動が舌や唇に拡がって、ついに「喃語」を生み出すようになる。「母語」はここからしか付帯しない。発生論的で緻密なその考察が、吉本「自己表出」論の身体性への転位として綴られていた記憶がある。圧倒されたが、じつはその論は、吉本の活動をも包含するものだった。つまり吉本はいつしか「語るひと」と自らを捉えなおし、その使命を全うしたということだ(そうして講演音源が陸続することになる)。そのながれでいうと、「音読できる詩」をかんがえたときに現在の若手の営みが「無」と映ったのではないか。これを別言すれば神話性と自然を欠いた詩ということに確かになる。正論だった。いっぽう花田の「声」はよくわからない。その生前を知っていた編集者の言によれば、笑い声は「ホホホッ」という女性的なものだったというが…
 


吉本さんの詩への貢献は、じつは『言語美』の短歌的喩の提唱だったというのが私見だ。「分立」の組成がそのまま詩の身体となると略言できるそれは、誤解されがちだが、実際は「暗喩」の否定だった。つまり暗喩の成立できなくなった「修辞的現在」を別方向に領導できる道具が、吉本著作のなかでは順序が逆だが短歌的喩だったはずだ。そのことを吉本さん自身が意識しなかったのではないか
 
 
  

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2012年03月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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