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メトニミー ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

メトニミーのページです。

メトニミー

 
 
深更に起きて、もとめられていた北大ウェブサイト中の「自己の研究説明」などを書いていた。「映画+サブカル研究」に「詩歌論」が接続されているのが、まあ、ぼくの特徴といえる。むろんこのふたつは通常では結びあわない。そこで、研究キーワード(五語)のなかに、「メトニミー=換喩」を入れてみた。ロラン・バルトへの意識がある。

メトニミーとは、部分や一特徴などをもって全体を指示する喩法。「葵の御紋」で徳川家を、「学帽」で大学生をあらわす、などと辞書的に用例が定められているが、実際はこの用例提示では不全だとおもう。何ごとを描くにも完全に対象に合致することばがないという絶望が即座にメトニミーを召喚する日常経験が抜けているし(表現は必然的にねじれる)、表現のあらわれは詩文でも映画でも、眼下眼中にしている現働部分への注視から離れず、この「部分」が刻々伸長して最後に「全体」が確定するから、実際はすべての鑑賞が「メトニミー」機能をつうじて実現されている、という着眼も落ちている。映画のカッティングによって一人物の手と顔に画が分断されたとすれば、手は顔(中心)のメトニミーとなるし、詩篇のタイトル、あるいはそのなかの一行は、詩文全体のメトニミーとなる。

構造のうえでそれは当たり前ではないか、とおもわれるだろうが、シミリー=直喩が相異なるふたつを「AのようなB」という明示で架橋し、結果的にはAとBを融解させる機能をもつとするなら、明示の明白性があっても起こる事態は変容的、といえる。いっぼうメタファー=暗喩は、おもに併置のなかに膠着をつくって、表面の修辞に、「真にいいたいことの奥行」をつくる。ここでは提示→解答の直線性が胚胎しても、実際は表現平面を晦渋に立体化し、その分子的組成を脱単純化する変容が付帯する。シミリー、メタファーのこうした変容性にたいし、メトニミーはたんに加算「構造」の集積を現前させる、いわば殺伐とした無変容にすぎない。しかし「意味」よりも「構造」を、「読解」よりも「語や画柄への物質的注視」を導くという点で、メトニミーへの意識こそが、作者を離れて「作品」を手中にする(生きなおす)手段となる。メトニミーの精神性は、「けっして対象を要約しない」ことになるし、さかしらによって作品を裁断しないということにもなるだろう。作品が存在しているとは、端的にいえばそれが不断に展開しているメトニミーに気づくことなのではないか。この意識が冷静な構造把握の一歩手前にあるものだ。そしてこの意識によって、たとえば映画鑑賞と詩の読解のありようが同一になる。

メトニミーをキーワードのひとつにしたのは、そんなわけだった。メトニミーは部分をけっして全体に従属させない。むしろ、部分の総和が全体を超えたり、全体をつくりあげないという、最終的には「変容」に向けた予感をつくる。細部に惑溺して全体を取り逃がしてしまうような不全、意気阻喪が実際は前提されているといってもいい。たとえばそれで「恐怖」も、シミリー、メタファー、メトニミー、(さらにはアレゴリー=寓喩)、そのすべての表現方法に親和的だということができる。

キーワードでは「メトニミー」「メランコリー」と、吉岡実の詩篇のように「メ」の頭韻を踏んでみた。メランコリーはぼくの理解によれば、たとえば「愛」「愛の不在」、あるいは「あのひとは死んでいる」「死んでいない」のような「規定の対蹠性」によって、心的活動が膠着してしまうことだ。ところがそれは認知の一点に「層」をつくり、いったんその層は個体にたいし創造をおこなう。だがやがて個体はその層から蚕食をはじめてしまう。この蚕食と創造の関係も、メトニミー的ととらえることができるかもしれない。
 


研究室に書架、机のみならずパソコンが未納なので、研究費の使用など、サイトに入っての学校上の作業が一切できない。そのかわりに自宅アドレスに学校からの要請が次々飛び込んできて神経症に陥りそうな、「不全な」毎日だ。とはいえ明日には旧宅から書架や本その他の荷物が自宅搬入される。週末は書架の整理に追われるだろう。それでたぶん来週からいろいろな不全が改善されだすとおもう。あとすこしの辛抱だ。ともあれ昨日の初授業は、つつがなく終わった
 
 

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2012年04月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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