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本というものは… ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

本というものは…のページです。

本というものは…

 
 
金曜日にようやく書架、食器棚、本、皿をはじめとしたもろもろが入って(引越し繁忙期の高値を避けた結果だ)、しかし金曜日は初教授会と歓迎会だったので翌土曜・日曜と本の詰め込み、ビデオカセットの並べなどをおこなった。両日とも朝から夜まで一心不乱の作業で、さすがに今朝は疲労困憊気味、重たい段ボールを運んで腰も若干疼く。

平積みにしてあって泣き別れだった同一著者の本をちゃんと隣接させるのは嬉しい。かんがえてみるとメトニミーの大きな内実というのが「隣接」で、よってそれじたいがエクリチュールにちかいのが本の収蔵だった。一著者と別著者の間も隣接相似関係。のちのち本を探すときにリファレンス能力を高める必要があるから、この隣接に基づいた分布をあだやおろそかに扱うこともできない。スペース上、前後二段に収めなければならないときの基本は、同一著者を前後にして、重要(引用するかもしれない)とおもう本を手前に置く。むろん棚板は四六判を置ける段とA5判を置ける段とに大別せざるをえず、そうなったときは探しやすいように上下に同一著者の本を置く。

「隣接性」を測るのは難しい。たとえばプランショのそばにバタイユを置くかどうかで二転三転した。バタイユは複数の書架のなかに確定するまでうごきつづけた。けっきょくフーコーのスペースが拡がって、バタイユはプランショと泣き別れになった。ことほどさように、書架への本詰めはパズルの様相を呈していて(これはビデオカセットも同様で、しかも大学授業の参照になるものはこれまた奥に置けない)、それで結局まる二日を費やしてしまった。肉体労働だったのは無論だが、高度にストレスフルな頭脳労働の側面もあったわけだ。

やがて気づく。同じ書架なのに、どうして前の住居にはあれほど本が「入って」いたのだろう。女房がいう。書棚の隙間(最大限に活用されていた)や手前や上部(上部にかんしては女房の本棚への占拠もあった)への平積みが実際は大量だったのだと。それで同じスペースのはずが今度は入らない。結局、80年代のミニシアター黄金期の充実していた劇場パンフレットを中心にしたパンフコレクション(ほかに試写のプレスリリースもある)の書架詰めを諦めてしまった(「パンフレット」と書かれた段ボールは未開封のまま)。パンフレットについてはたしかに捨てようかどうか迷った。ただしシナリオ採録と監督をはじめとした関係者インタビューがのちのちリファレンス対象になるかとおもったし、当時のパンフはのちに良い値で売れるのではないかと女房もいい、のこしたのだった。あれはアイウエオ順に並べるのも二人がかり以上の苦労になるし、ずっと段ボール未開封のままになってしまうかもしれない(もうスペースがないのだ)。どうしよう。

それとCDを詰めた段ボールも開けられなかった。これも以前は本の隙間や手前にバラバラと適当に配置していたのだが、その隙間や手前がなくなったので、いま取りだすと床のうえに散乱して収拾がつかなくなる。これはしかるべきCDラックをニトリ(じつは札幌発祥の企業だそうで、バスにのるとかなりちかいところに札幌一といわれる大型店舗がある)にいずれ買いにゆこう。ともあれ本詰めなどは現段階でやれるところまでやった。未開封の段ボールは10個強、というところまでなんとか辿りつけた。それでも家にどうしても本が入らず、研究室に都合六箱の段ボールを送る羽目になった(研究室は目算よりも多く本が収蔵できると気づいた)。研究室に向かったのは映画以外の著作もある著者の映画本、サブカル本、写真集、社会学関係でサブカルやネットメディアに言及している本などだ。

水曜午前には片側が裸の壁だった研究室にももうひとつの書架が入る。よってまた詰め込みだ。
 
 

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2012年04月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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