西山洋市・kasanegafuti
映画におけるナラティヴとは、ときにジャンル法則にかかわりながら、物語内容を効率的に観客へ伝えるための蓄積的叡智だろうが、それ自体が刻々進展してゆくという意味では肉体にちかい組成をもつ。そこには一種の骨格があるのだ。この骨格は前シーンからの飛躍、召喚、逆接、部分化、綜合といった種別の異なる関節でむすばれて、「いま接しているもの」の質を前後関係の判断をつうじてリアルにつたえる。だからこのリアルはいつも二重性のなかにある。けれどもシニフィアンとシニフィエが同時的に出来して実際はどちらとも弁別されないうちにただ受容されるように、映画においても物語内容と物語をつたえる骨格的(肉体的)組成は、じつは分離できない。内容を孕みつくしたものが「そのまま」形式として現前化しているということだ。これはじつは恐怖に値することではないだろうか。とりわけ飛躍にみちた語りが「狂気」につらぬかれていることが自明ながら、その法則を観客が手中にできないときには、観客は語りの飛躍によって身体を切り刻まれることになる。このとき映画進行の隙間に瀰満しているのは、はたして虚無なのか悪意なのか。
映画の特有性ということがあるだろう。じつは親和性や馴致や共感や感情移入を剥がされた映画は、たんに連接を繰り返すだけの、機械状の冷たい語りにすぎない。ところがおなじ飛躍があってもたとえば怪談落語はことなるだろう。圓朝の『真景累ヶ淵』であれば語る圓朝の身体そのものが、語りに生じた飛躍を補填し、語られる内容は身体的に観客に迫ってくる。ところが圓朝の語りをそのまま模した映画なら、その本来の機械状と軋みあって、そこに現れてくる物語りの「穴」こそを、地と図の反転のように打ち出し、観客を了解の外側へ叩きこんでしまう。そこにエモーションがあったとしても、それらはみな圓朝的な実在ではなく、幽霊の営みにしかみえない。かぎりない齟齬(その魅惑)。それが西山洋市の27分の短篇新作『kasanegafuti』で指摘されるべき第一の実質だろう。そこでは俳優すべてに声音や抑揚が峻拒されて、映画がまやかしとしてもっている親和的な「物語り」が無化されている。それでも「物語ること」の要件がそのまま維持される奇怪な二重性はつらぬかれる。「関節」が裸出されるためだ。
西山洋市にはこれ以前にも「髷のない時代劇」として『死なば諸共』(06)という短篇があった。西鶴『諸艶大鑑』中の一篇に材をとったものだが、飛躍とエモーションという離反する対位のなかで、近松的な情動心中の、倦怠による変質をも射当てた大傑作だった(広津柳浪『今戸心中』と同等の出現価値をもつとおもった)。形式はこうだ。時代劇的な美術や衣裳の実現はおこなわない。ただしあまりに現代的な実在風景は忌避する。俳優の所作や科白は時代劇的に変化させるが、ただし完全に時代劇そのものにまでは移行させない。つまり「時代劇的なもの」が現在の意匠のなかに発現してくる齟齬・二重性がそのまま作品の形式となる。これは別段、西山独自の発明というわけでもない。たとえば吉田喜重は、現在の現存風景に何らの糊塗も加えずに、『エロス+虐殺』では大正を、『戒厳令』では昭和初年を撮った。現実のパリの夜を素材にして『男性・女性』で異星を撮ったゴダールも、何の変哲もない森林光景を樹木カリスマの支配浸食する恐怖の磁場だと俳優のことばで定義した『カリスマ』の黒沢清も、拡張解釈的にはおなじ系列に属するといえるだろう。
いつもながら西山の作法は多元的だ。まずは圓朝の『真景累ヶ淵』というオリジナルがある。これはもともと怨念をもって死んだ豊志賀の、「妻を代えても七人まで呪い殺す」という夫・新吉に遺したことばを累代にわたって実質化してゆくサーガ状の因果譚だ。西山はこの膨大な物語群からひとりに原案をつくらせ、そのパーツ完成を三人に依頼し、最後に西山自身がそれを綜合するという脚本形成過程をとった。圓朝の怪談から召喚されたのが、A「松倉町の捕物」とB「豊志賀の死」のくだりで、しかもそのふたつを前提的に牽引する要素として「宗悦殺し」のくだりが置かれる。Aで主人公新吉にかかわるのがお園、Bでかかわるのが豊志賀だが、このふたりは実際の姉妹関係であっても圓朝落語では同在しない。ところが物語は欠落と加算をほどこされてシャッフルされ、西山の『kasanegafuti』では姉妹同在による磁力発生が起こる。結果、「物語り」は『真景累ヶ淵』のテイストをたもちながらそのゆがんだ「別の何か」を刻々生産し、齟齬と類推の二重性にまみれてゆくことになる。この二重性が、意匠の現在性と内実の時代劇性の二重性ともパラレルな構造になっている――そう総括できるだろう。
これら二重性は了解可能な穏当さのなかには置かれない。いつでも亀裂を準備する。たとえば冒頭、沼のショットのあとは、原作の新吉から「真〔しん〕」となった主人公の古風な居宅のそばを、泣く赤子をあやしながら遠ざかってゆく若い女と、豊志賀から名を変えた「豊〔とよ〕」がすれちがい、その交代劇のうちにヒロインが定位される機能をもつのだが、泣き声をしめす音声にたいし、その音源である赤子が人形で代用されていることが露呈されていて、観客はリアリズムをどの審級に定めるべきかで途方に暮れるだろう。開巻直後からしてこうなのだ。あるいは画面に何の実質も描かれていないのに、妹・お園(映画中では「園」と呼ばれる)に懸想したとして夫・真を豊がなじる場面が二度でてくる。「バカ、バカ」というべきところ、オリジナルの「阿呆、阿呆」という叫びが踏襲されるのだが、これが無抑揚にちかいことによって、発語の人工性・違和感はどこにも回収されることなくただ宙を漂ってしまう。
圓朝怪談の前述AとBの段が相互嵌入、しかもそれらが「宗悦殺し」に上位牽引された結果の、脱論理の形成が映画『kasanegafuti』の「骨格」の性格となる。整理してみよう。真は豊に結婚を迫っているが、豊の父はそれを承諾していない。というか豊は父にその話を切り出そうとしない。なぜなら二人の結婚が父の死を呼ぶと豊が確信しているからだ。ところが父に会いにいって豊が不在中に、妹の園が真を来訪、父はすでに死んでいると告げる。いっぽう真もまた父が死んでいるはずだった。ところが育て親の叔父夫婦に結婚予定の相手として豊を紹介したのち、ひそかに叔父夫婦から真は意外な事実を告げられる。真の父は死んでいるのではなくじつは殺人罪で服役していて、その殺害対象が豊・園姉妹の父親で、だから真と豊は結婚できない、というのだった。ところがその衝撃(しかしそれは映画内の真の表情では何ら実質的には描出されていない)ののち、豊は「実父」を真の家に連れてきて三人暮らしをしようと提案する。ここで「実父」と紹介された男こそが、実際は豊ではなく真の実父だった(俳優の科白で説明される前に叔父夫婦がしめした真の父の写真によってその事実が判明しているのだが、その瞬間の「かけちがえ」による脱臼感は測りしれない)。
いま要約した「物語り」は、前シーンで確立された設定をすべて覆す、「逆接」の連続によってもたらされている。ところが意味的にそうであっても、映像的には速歩調ともいえる「召喚」が連続している。そこで観客の体感に生じた「穴」と、矛盾を何気なく補填してゆくような「語り」とが調整不能となる。唯一、調整に馴染むのは、物語りの法則が狂気によるという判断だろうが、映像は狂気という伏在領域の大仰な提示などおこなわない。この印象には俳優の発話の無抑揚と、余韻のない断言も貢献しているだろう。豊を演じた西山映画のミューズ・宮田亜紀(ほかの西山映画の主演作に前言した『死なば諸共』のほか、『桶屋』〔00〕、『INAZUMA 稲妻』〔05〕もあり、これから公開される内藤瑛亮監督『先生を流産させる会』でもヒロインの女教師を演じている)は、たぶん眼光をはじめとした顔の造作の「表面性」だけでエモーションをもたらす特質がある。つまり彼女は何事かが決意された事後として作品に登場しながら、そのありようが常に空虚な幅でしかないという得難い二重性なのだった。この二重性の自己展開能力によって、そのままでは空中破砕されるべき映画の「物語り」が、いわばゼロ度の厚みをもって圧延されてゆく。観客はこの意外性を見守るしかない。
豊=宮田亜紀には、夫・真が妹・園に懸想したという疑念が手伝ったのか、顔の左半分に大きく赤紫の痣が生じる。作品の流れはいましるしたように陥穽=意味の穴が横溢しているのだが、そこにこそ補填されるのがこの痣といっていい(それは圓朝のオリジナルの用語に敬意を払われて一度は「腫れ物」と表現される)。じつはこの豊の痣とおなじ痣が真の実父にもあって、それがその男を実父と信じる豊の根拠となっているようにもみえる(むろん作品はそうしたことを一切説明しない)。『真景累ヶ淵』は累代にわたる呪死の実現が主人公の世代が変わっても貫通してゆくサーガだ。「累積」は時間軸上の「反復」となるが(「累」ということばの本質的な怖ろしさ)、累代の流れを圧縮した映画『kasanegafuti』では、「反復」は空間上に転位され、痣の(豊と、真の実父間の)「照応」となる(デュラス論をものしたクリステヴァなら、時間上の反復は、空間的には「重複」へ翻訳されると綴る)。この照応が累代反復と同様の強度をもたらし、結果、箍の外れた物語りはこの局面の恐怖によって有機的な連続性を生ずる錯視がもたらされる。厚みのないものへ厚みを錯覚すること。ということは、もう「穴」という、厚みを想定してはならないものに、すでに厚みがあったのではないか。「痣」の正体とはそれだ。
しかも痣の人物への出現は、この作品の意味的な穴だらけの物語りと「照応」するようにも恣意的だった。豊の痣が消えると、おなじ痣をもった真の実父が画面上に召喚され、真の実父が死ぬと、いったん痣の消えていた豊にまた痣が再臨するのだった。これを「照応」や「召喚」といえるだろうか。実質は意味化を逃れるための消滅/出現のシーソーゲームにすぎないのではないか。この遊戯性を直視すると、悪因縁以外に根拠をもたない豊-真の実父の対に、一切の相互類推が混在していない感触が得られる。観客は「虚無を観ている」直観にいたるだろう。同時にこの痣は女のもつ「おぞましきもの=アブジェクション」(クリステヴァ)が時間的には反復として、空間的には重複もしくは反映として再帰する恐怖の徴候ともなっている。
西山演出のすさまじさは穴だらけの画布のうえに、このように二重性を二重化させる点にある。このことは豊-園の姉妹の対でも起こる。表面が表面であることによって苛烈なエモーションを生じるという意外性は、じつは豊のみならず妹・園にも起こっていた事態だった。余韻のない断言は彼女のものでもあったのだ。演じた名久井菜那もまた至宝のような女優だとおもう。この増村保造映画的な特徴は、園=名久井の場合、加藤泰的な化合もあたえられている。彼女の前髪はほとんどいつも横にながれて彼女の右目を隠しているのだが、この典拠は加藤泰『緋牡丹博徒・お竜参上』冒頭の、藤純子の限定的な片目の強調に端を発しているのではないか。しかも前髪による片目の消去は、すべてのはざまでゆれつづける主人公・真をときに襲う設定でもあった。ならば作品は痣か前髪によって「顔の片側」が変質か欠落した者同士の、引力と斥力を点滅させた接近/離反の劇に終始したということにもなる。
こう書くと、名手・芦澤明子のカメラは異常性を強調したとおもわれるかもしれないが、実際、異常なのは撮影ではなく、飛躍を繰り返す編集のほうだ。芦澤は「俳優表面」がそれでもエモーションを生じるように、一種の空間的空白のなかに的確な距離感で俳優身体が入る距離を終始選びとっている。俳優を「見つめる」だけではない。参照系も導入されている。ふとおもったのが成瀬巳喜男だった。真と園の同道を後退移動で継続的に描写してゆくくだりの『浮雲』との共通性、玄関の引き戸が引かれそこから豊の姿が現れる際の『晩菊』的な縦構図の光。こうした撮影の整合性はしかし、作品全体にわたるヤバいものの横溢を何ら馴致しない。作品の多元性は終始たもたれていた。
映画『kasanegafuti』の結末にいたる流れはここに書かない。ただし脱論理ではじまった作品だから、回収なき回収という、最も正しい措置が期待され、西山は見事にそれに応えたとだけは言っておこう。このばあい物語りだけをみてもたぶん「回収」が感じられないかもしれない。これをもたらすのは、沼へのショット、赤ん坊、「阿呆、阿呆」と同等の豊の発語上のキーワード「うるさい」など、多様な細部の再登場だ。物語りと映像が二重性を終始保ったからこそ、作品ラストもそのように「回収」にたいする奇怪な転位を実現できたのだった。
本作は「コラボ・モンスターズ!!」興行の一貫として、5月12日よりオーディリアム渋谷にて、高橋洋監督『旧支配者のキャロル』、古澤健監督『love machine』と併映されます。