高橋洋・旧支配者のキャロル ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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高橋洋・旧支配者のキャロル

 
 
均衡が停滞の別名で、それ自体が破局を内包しているという、透徹したアレゴリーを黒沢清『蛇の道』の脚本で提出した、大和屋竺の後継時代の高橋洋。恐怖の緻密な計測者として中田秀夫『女優霊』の脚本からJホラーブームを牽引した時代の高橋洋(それは同時に佐々木浩久『発狂する唇』脚本からはじまる、論理の自壊にかかわる諸作との両輪回転の時代でもあった)。それらを前段にして、いわば監督時代の高橋洋がはじまる。『ソドムの市』『恐怖』――このとき彼は、自分の畸想と地獄想像の増殖に整理をつけない暴挙に出た。結果、彼の映画を端的にあらわす指標がエピソードの充満となる。そうなると、もともとは空白と顕現の経済的配置と「溜め」の情動から現出されるべき恐怖も、たえず隣接する恐怖と「相殺」され、脱色化・脱分節化されてしまう。高橋の監督作にかんじるインフレ・高止まりの「のべたら」の感触は、恐怖映画や畸想映画としてはとうぜん失敗の印象をもたらすだろうが、高橋自身はそれを意に介していないようにもみえる。「充満」とは何か、それだけを自分の想像力を素材にして問い詰めているのではないか。デリダがアルトーの素描にたいして語ったことばをもちだすなら、映画という「基底材を猛り狂わせる」ことこそが高橋の眼目だったのではないかとおもう。ただしそれはいわゆる「調律」の喪失という犠牲をともなっていた。

「充満」を確保したまま「調律」を獲得して、「エモーションの虚構性」という映画内真実を完璧にえぐったのが、「コラボ・モンスターズ!!」興行中、唯一の中篇として撮影された高橋の新作『旧支配者のキャロル』だ。題名はクリスマスソングのクトゥルフ教徒によるパロディに由来しているが、ではこの作品に何のパロディが出現して、それがクトゥルフ的に暗黒化/脱世界規定化/巨大化をもたらしているかと問えば、事態は複雑としかいいようがない。見やすいのは、「スポ根」「大映テレビ」的な、情動だけを押し出している「狂った論理の発生」と、『81/2』『軽蔑』『アメリカの夜』『ことの次第』といった撮影そのものを主題とした映画との、ミスマッチで相互膚接的な「窒息配合」によって、予想される増村保造的な「調律」のみならず、高橋にしては意外なことにというべきか、グリフィス『散り行く花』的な情動をも「調律」してしまったことではないか。映画学校作品(古風なことにフィルムによる――だから「ロールチェンジ」といったスタッフの発語そのものに郷愁=反動の記号もあたえられる)の監督(役名「黒田みゆき」)に抜擢、「演出」と作品完成の試練をあたえられ、やがて死の予感にみちた目の下の隈に倒錯的なうつくしさまで感じさせる女優、松本若菜は、(悲痛転写を欠いた)異形なリリアン・ギッシュなのだ。こうした「調律」が実際は出鱈目というか記号的恣意性の結果だと見とったとき、高橋の映画的知性の優位も屹立してくる。

それじたい中篇区分の作品だから「語り」も速歩的、前提なしの磁場形成的であらざるをえない。そこで貫禄にみちた大女優(役名「早川ナオミ」)として映画学校の学生を指導しながら、そこでの製作作品に主演女優として迎えられる、「てめぇら」を濫発する中原翔子の異様な威厳が必須条件となる。彼女が主演者として監督「黒田さん」を「指導」する抑圧から、いかに監督自身が開放されるか。しかも主演者への監督の崇敬を保ちながらそれがしめされるか。このことで「物語り」は「均衡」をたもたざるをえない。そのとき後悔なき演出の代償として生じてくる撮影フィルムの払底期限が、最初のサスペンスの実質となり、これが飛躍して監督役・松本若菜へ死の引き金を引くという怪物的な「拡張運動」までもたらされる。「脚本づくりは科白を実際に発語することで進めよ」「撮影の根幹は芝居(演出)であって、撮影・照明は付帯的にそれをフォローする位置にあり、撮影のための芝居が想定されることは倒錯的だ」といった中原の数々の「託宣」は一見、それらしい実質的な教育効果を伴ってもいるが、「(撮影現場では誰もが)心にスタンガンをもて」という教示にいたっては、スタッフの親和的な能力綜合を目標とする現場で逸脱的に響くだろう(「逸脱」はやがて、フィルム払底=作品未完成の危機の張本人である松本若菜に、撮影助手の女子が「実際に」スタンガン攻撃を施すくだりで炸裂する――そこでは隠喩から実際行動への「踏み越え」があった)。

むろん講師であるなら中原の教示は、内容はどうであれ、命令系統としては「秩序」を維持している。ところがいったん学校作品の主演女優となった彼女からだされる「命法」は、それが「客体」からの指令であることで突如アレゴリカルなものに変貌する(とうぜんこの造形は『恐怖』の片平なぎさからの継承要素をふくんでいる)。たとえば人が「石」や「樹」に何かを命じられる場合をかんがえてみると自明だろうが、それは「深淵」を経由しているのだ(つまり『旧支配者のキャロル』はやはり高橋的なアレゴリー劇の基調をたもっていることになる)。だから松本は黙示録の人物のように破滅にいたってゆくのだが、では女優を演じた中原の演技自体はどうかというと、これが見事に多層的だった。彼女の語り・眼光・威厳は「物体が語る」脅威とともに、映画知の聡明な判断者(これが被説得者の役割を負わされることもある)、人間的な励起者、「理性ゆえに近道を知る者」など、色合いのちがったものを刻々分泌しながら、しかも映画内画面(『旧支配者のキャロル』として撮られている映像の内実)では、男女のみの密室のなかで支配関係を逆転される性的欲望の崇高な敗北者としてイコン定着されるのだった(彼女は監督・松本若菜から「旧支配者」と最終的に定位される)。この「多様なものを充満させる」中原に魅了されることなしに、『旧支配者のキャロル』の磁場性をかんがえることはできない。

映画の世界は苛酷な競合性につらぬかれているが、「人が人をつぶすなんてありえない。人が勝手につぶれるだけだ」というのが、監督に抜擢される際の松本の身上だった(それは履歴書に書かれた文言だった)。自壊か他壊か――本来この設問は分離できない。「運命」の考察者・高橋洋なら、自壊・他壊の分離不能性のなかにこそ、感知不能な「運命」の怖ろしさが浸潤してくるというだろう。「運命」とは結局、「混ぜる」運動なのだ。そして「運命」は単純に、あたえられた試練(この場合は「映画完成」)とその場の人員の複合に、「すでに模様として」現れている。撮影のためにスタジオの壁を覆ったトタン状の板にもフィルムカメラにも、「運命」が形状として「すでに」現出しているとするのが、大和屋=高橋的アレゴリーだろう。

アレゴリーは、過剰と重複によってこそ起動する。さきほど中原の威厳の要約不能性をみたが、もうひとり重要な要因が作品に配されている――津田寛治だった。授業への遅刻を中原に咎められた松本が着席し、その周囲に並ぶ学生たちによって作品が中心にえがくスタッフ側の人間が一挙に展覧される(これが速歩と密集による磁場形成の一端でもある)。松本、それに撮影の「葵」(本間玲音)とともに映し出されたのが「村井」役の津田だった。俳優活動に挫折し、加齢ののち原点からの映画スタッフを志して映画学校に入ったとおぼしい津田は、『旧支配者のキャロル』の撮影現場ではもともと制作担当予定だった。それが主演・中原翔子の越権的命法によって彼女の共演者の大役をあてがわれる。しかし津田は演技者としている以外に、現場で残業弁当手配などをおこなう制作の仕事もこなしている。監督・松本には同情をこえた愛着を感じているらしい。

さらに彼はなんと、作品の「物語進行」をまことしやかさで客観化・補填し、内実は物語進行を「突進」に変えてゆく(火に油をそそぐ)魔法施術者――「画面外ナレーター」でもあった(このことで『旧支配者のキャロル』の大映テレビ調がより盤石に補強される)。津田のナレーション内容はときにその決定性によって運命そのものの降臨を機能させる。「その夜、フィルムが尽きた」「それが彼女の最後の言葉だった」。フィルムの「現在」を一挙に「事後の待機」へと塗り替え、二重化させてゆくことば。ともあれ津田には「作品内作品の主演者」「制作スタッフ」「監督へのひそかな懸想者」「画面外ナレーター」といった諸属性が過剰「重複」し、その重複がそのまま作品の磁場化をもたらしていることがわかるだろう。とくに「俳優役=客体」と「ナレーター=超越者」のかさなる異常が中原の役割付与の異常と対をなしている。映画が客体=俳優からの単純命法だとすれば、映画の作り手は「映画内在的に」破局をしいられる、というのが、現在の高橋洋の映画観ではないか。

大映テレビ調との接続は、一場面の質と長嶌寛幸の音楽が「共謀」することで明確化される。さきほど撮影助手の女子に松本若菜がスタンガン攻撃を受けて躯の自由を失うと綴ったが、報せを聞いて駆けつけたスタッフがみたものはそれでも不屈に匍匐前進をつづける松本の姿だった。そこにつけられる音楽は、その松本を記号的に包んでいるのがスポ根の荒唐無稽性だと上位規定する。フィルム払底が確定されたのち、その音楽はどこに再現出するか。一旦は中原に「フィルム残量に拘泥して、粘っていた演出の質を変えるのが果たして監督なのか」といわれていた松本は、フィルム払底ののち中原の楽屋に呼ばれる。自負と恥を捨て(売春によって得た費用で)フィルム代を補填せよ、というために中原のとる行動が「狂っている」。松本を自分の前に犬のように四つん這いにさせ、その後頭部を踏みつけることで土下座させたのだった(この異様な姿勢変化はのち、松本→中原の方向で再現される)。松本に売春がしいられた事情はスタッフの周知となったが、あとから現場に入った津田は遅れて知る。もう松本はスタジオを出て町に向かっている。追う津田。ふたりのあいだで悶着がある。「フィルム代はぼくが出す」「これは自分の問題だから受け取れない」「それならぼくがきみの売春の相手になる」「スタッフに抱かれる気はない」――夜の街灯のもとでのこの手垢のついたやりとりを、先ほどとおなじ音楽が裏打ちする。結果、「抒情」もまたサブカル的な脱価値化をこうむる。崇高なものを陳腐にかえる冷笑がそれ自体無謬なのは、この作品がべつの崇高をちりばめているからだ。

まずは松本のリリアン・ギッシュ化がはじまる。町を歩き、いきなり無前提に売春交渉場に入ってしまったような狂った空間魔術。ところが山田達也のカメラは遅さを分泌しはじめ、松本の顔を「みつめはじめる」。リリアン・ギッシュが契機となったアップ神話の再燃。あきらかになるのが『散りゆく花』同様の目の下の隈だった(このグリフィスへの意識が、松本の死に顔への作品終幕ショットを準備する――むろんその最終ショットは真利子哲也『NINIFUNI』の決定的ショットのように「世界の二元性」を死者の側から捉える衝撃的なものだ)。実際の売春描写が割愛されたのち、次に映像的な召喚を受けるのは、大映テレビの上位概念、増村保造ではないだろうか。撮影再開となって村井=津田の演技の調子が出ない。監督が身を堕とした事実が引っ掛かっているのか。津田の演技を松本がはげしく否定すると、実在者としての津田の顔を、俳優の顔としていきなり撮影する逸脱的な(いわば増村の起源=溝口的な)現場神話があったのち、撮影の調子があがってくる。とある画面。手前にピンの外れた津田、中原がいて、その二人の中央の画面奥行にピンの来ている松本の顔がある。それら三つの顔で画面が完全に「充満」を果たすとき、画面は増村的な指標にかがやいた。ところが顔の充満場面はそのあとの別シチュエーションで、鏡に近づいた松本の後頭部と鏡面の顔、そのふたつの身体パーツの充満となって、グリフィス的なものに転位されてしまう。

既存映画の記憶にゆれる画面推移は、おそらく西山洋市(とりわけ『稲妻 INAZUMA』――これまた撮影現場〔殺陣アクション〕にかかわる奇怪な情念映画)を経由して真の独自性に達する。これまで書かなかったが、撮影現場場面では奇怪な編集がなされていた。つまり俳優・スタッフの労働をしるす場面(いわばメイキングのカメラがとりうるポジション)と、カメラが撮っている「中身」とが反則的に織り合わせられていたのだった。マスキングされたファインダーからの「眺め」ではなく、あきらかに質感のちがう「現像された作品映像」がそこに侵入してきている(西山作品では作品の撮影中の「現在時間」に、「放映されているTVドラマの画面接写」が混ざった)。現像や放映は撮影現場にたいし時制的には明瞭な「後置」だから、そこでは「のちの時間」が「現在」に嵌入、いわばフラッシュ・フォワードのように、整除的な時間構造を苛み破砕している図式が浮上している。それはもともと無秩序を飲みこんで自律的に進行してゆく映画の「機械状」、それがとりうる最も白熱した逸脱となりうるものだ。

「最後のシーン(何ショットかの構成を予定されている)」を松本が撮ろうとする作品のクライマックスは以下のように始まった――まずは欲望の敗北者を演じよと今度は逆転的に松本が中原に「命法」を発する(そこで四つん這いの中原の、今度は背中を松本が踏む)。撮影開始。鬼気迫る演技。このとき前述のように、メイキング的なポジションにあるカメラからの映像と、撮られているものの「現像後の」内実が編集で織り合わされ、そうして無秩序を飲みこむ映画の「機械状」が露呈したあと、さらに切り返しとして織り合わされてくる撮影現場の映像に、観客が息を呑むこととなる。撮影、監督、スタッフらがキャスター付「イントレ」(高みからの撮影につかうもの――むろんこれまたグリフィスの『イントレランス』が命名起源)に乗り合わせ、俳優の演技の動勢にあわせ、地上のスタッフから圧力によってせわしなく動きまわっているようすが、そのまま「動きの恐怖」として現出してくるのだ。動き自体はロボット的な自律性をともなっているようにしかみえない。怪物のように多元性を積載されたものが対象化すらのがれて「ただ」動く――なにか「ハウルの城」をもおもわせる。これがつまり編集上で約束された「機械状」の時制惑乱が「領域伸長」して、実際の画を「機械状」の空間惑乱へと干渉的に変化させた恐怖の極点だった。このあと妙に中原・津田の顔に寄った芝居が現像フィルムの次元から流れに挿入されたときには、黒田=松本と葵(カメラ)=本間のコンビはカサヴェテスの現場を髣髴させるべく、撮影対象の動勢に牽引されて、いわば踊るようなカメラ撮影を俳優の間近で繰り広げている。

最大の山場の撮影が終了した。カットがかけられたあと、中原翔子が不満をいう。「いまのは俳優のアドリブに頼りすぎている」。松本が返す。「ちがう、そのアドリブは私たちが引き出したのだ」。この勝利宣言ののち、転調が生じる。松本の声、「どうして照明を消したの?」。ひとの失明徴候が客観化に付されるメロドラマ(=グリフィス)的な決まり科白だが、典拠がありすぎて何が典拠かわからない。失念しているがこれも実際のグリフィスからの引用かもしれない。「村井さん、人間って、つぶされるの?」。そう声を発して松本の意識が失われる。救急車が呼ばれる。この松本の自問には中原が応える。「勝手につぶれていったのよ、みゆき」。残されたカットはあとわずか。ここで君臨者として中原は代行監督による撮影続行を命じ、結局、監督に葵=本間が指名される。「終わらない撮影なんてない」がその威厳にみちた中原の最後の科白だが、実際そのことばは、撮影に希望的に出来する「終了見込み」ではなく、「ひとつの場からの撮影延引がそのまま世界を構造化させている」とでもいったような、ヴェンダース『ことの次第』のベルクソン的主張と交響していないか。参照系を苛烈に、出鱈目に経巡った『旧支配者のキャロル』は、最後になって意外なものと同調してみせた――そんな驚きをあたえた。いずれにせよ、エモーションが最後にたどりついた、この見事に殺伐とした「味」は、映画史の記念にかがやくものだった。

本作は「コラボ・モンスターズ!!」として西山洋市監督『kasanegufuti』、古澤健監督『love machine』とともに、5月12日よりオーディトリアム渋谷にて併映開始されます。
 
 

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2012年04月26日 日記 トラックバック(2) コメント(0)












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