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詩論 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

詩論のページです。

詩論

 
 
詩論が詩作になぜ必要なのかはよくわからない。そのふたつを分離的・脱交渉的に捉えて、自分の詩作だけを楽天的に押し出すことだってできる。ただ、それでも自分がことばによって自分の想像/創造をどう変えているのか、その刻々の意識が蓄積してゆくだろう。それは自分自身に開示をもとめている。

「短さ(すくなさ)」と「静けさ(遅さ=脱連打性)」を指標とし、難語を排除して、のこったおのおののことばを審問にかける。それでもそこに、ことばどうしの関係をつくるため「構文」を現出させる。しかもその「構文」の自明性をも疑義にかけることで、見た目以上の奥行をつくって、いわば加減乗除のうちの「乗除」のほうにシフトする。そんな最近の自分の詩法があったとする(以前とちがうのは、詩文は結局は文章だ、という諦念がそこに忍びこんでいることだ)。

このときその詩法を成立させているのは、すくなさによってすべて裸になっている「それ自体」しかないはずなのに、それでもやはりそれら表面にもぐっているものがある、という認知が、詩作のなかには生じているだろう。

たとえば二物衝撃などに代表される俳句的な語間距離。しかしそれをそのまま散文形のなかに充填すると、多元性がかちすぎて、なめらかな推進力が出ない。それで「すくなさ」によって詩文表面を摩耗させながら、音韻を調整、さらには日本語の特質として、助詞に日常使用以上の機能を負わせるのだが、ここでもまた古典参照が起きているのではないか。

しかしこれらは実際は、自己技術の検証であって、詩論ではない(むろん詩論は解釈格子でもない)。この手の詩論は、「自分がいま書いている詩」を我田引水するだけで、実際は規定的ではなく関係的なものにすぎない(日本の多くの詩論もたしかにそこでとどまっている)。

詩論、というのは、実際は詩的直観によって世界構造を鷲掴みにし、付帯的に世界とことばの関係を新規化することと接続している必要がある。ということは詩論を書いているのは、たとえば自意識に膠着して精神の時代性を一カ所に重複させる朔太郎ではなく、やはり拡散のなかに無方向の生成を繰り返したドゥルーズのようなひとたちなのだ。

狼が群れでいることで単独以上のなにが生起しているのか。身体が器官の分節性に保証されているとして、それが脱落したとき、身体は意味にとってどう脅威となるのか。国境を溶融する侵犯が略奪ではなく協和となるとき、その原型として、放牧にあった分散と移動が、それ自体の集団性をあらかじめどう打ち消していたのか。「何々になる」という変容がすべてだとして、その「何々」に代入されるものとしてなぜ「少女」が最大限に正しいのか。なぜ動物になることは、世界や意味のリトルネロを聴くことなのか。これらドゥルーズが『千のブラトー』で展開した問いは、実際はすぐれて詩論へと適用できるものだ。すくなくともそこに自意識からのブレーキがかかっていない。

ここ数年のなかで日本の詩論として成立しているのは藤井貞和さんだけのような気がする。たとえば『日本語と時間』。多様性をもっていた過去形助動詞が平板化され、それが小説文体に適用されたとき、それでも詩に打ち破られてくる「動態」とは何なのか。それをしめすため反転的に、和歌の藤井的な現代訳(解釈)があるという再帰的構造。その構造そのものが、書かれていること以上に、詩論なのではないか。

あるいは貞久秀紀『明示と暗示』。再帰性構文のなかに時間上の微差をつくる詩論を詩文上に実践する試みの、何重にもわたる再帰性。これがあるから、たとえば貞久のいとなみは、デュシャンの「アンフラマンス」にも、「正反対は差異ではなく膠着で、実際の創造的な差異は微差でしかない」というドゥルーズにも、単純回収されてゆかない。

それでふと気づく。中間的結論というわけではないが、ことばの運動からことばの運動に折れ込んでもどる再帰性こそが、詩の保証なのではないか(再帰性それ自体はリトルネロにすこし似る--ただしリトルネロが音韻の実際の発声なのにたいし、再帰性は純然と意味運動の領域に旋回し、やがては永劫回帰の閃光につつまれる)。直観的にいえることは、この再帰性こそがメトニミー的な「単位性」「隣接性」を破壊的に撹拌する、不穏な脱領域性をもっているということだ。そこで、ロラン・バルトから飛び出してドゥルーズ経由で自分を内破させる意義が、詩作にも付着してくることになる。
 
 

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2012年04月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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