言葉の誤用・誤記
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昨日、女房と家で夕食がてら
何かのTVバラエティを見ていて、
僕が「いも・くり・なんきん」といったら
女房が「えっ!?」となった。
それ、「いも・たこ・なんきん」じゃないの、と。
「巨人・大鵬・玉子焼き」みたいに
婦女子の好きな食べ物の典型を列挙し、
所詮、婦女子の好みなんてそんな子供じみたものよ、と
一種の揶揄すら籠めている成句だ。
僕は婦女子が甘くモコモコしたものを好きだから
(だから便秘も多い-笑)こういう成句があるんだ、
従って構成物も「芋・栗・南京豆」だというと
女房が呆れ顔をする。「あんた、やっぱりバカ」。
曰く、それは「芋・章魚・なんきん」であって、
しかも「なんきん」は「南瓜」を指している、と
僕にとっては意外な知見すら披露する。
つまり「くり」「たこ」の構成物の違いだけでもなかった。
「そんなことも知らないの?」
僕が論理的に怒る(笑)。「なんで章魚が入ってるんだ、
八百屋さんで売ってるもののなかに
魚屋さんのものが入ってるなんて統一性がないじゃないか」。
僕はこれでもスタイリッシュな統一性を
割と気にかけるほうなのだ(笑)。
対して女房がいう。「そこがミソなんじゃないの、
もともと好物にすら統一性のないほど
婦女子は気まぐれ・気楽に生きてるってことでしょ」。
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がーん(笑)。何か納得してしまう。
「桃栗三年」と混同したかもしれない。
大体、僕には言葉の憶えちがえの事例が数多くある。
辞書に当たってないが今回も女房の主張が正しいのだろう。
女房と結婚当初、僕は「スキャンダル」の「醜聞」を
「しゅうもん」と語り、女房が怪訝な顔となった。
とうとう口を出す。
「あんたのいおうとしているの、【しゅうぶん】じゃないの」
意地になって辞書で調べたら読みは女房のいうとおりだった(笑)。
「聴聞=ちょうもん」から類推した読み間違いだった。
もともと単語は耳からじゃなく黙読で憶えたわけだし。
なんか「俺は言葉で仕事している」みたいなエラソな顔をして
やっぱりあんたってバカ、と女房は攻撃の手を緩めない。
僕は、えへへーっとだらしなく笑う。
実はバカと呼ばれると嬉しくなる妙な倒錯もあるのだ(笑)。
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恥を上塗っておこう。
こないだ、立教の人文科学研究室にメールを打とうとして
「じんもん・かがく・けんきゅうしつ」とひらがなを打ち、
変換キーを押したら漢字が正しくでない。
エ、まさか!? とおもい、
「じんぶん・かがく・けんきゅうしつ」と打ち直したら、
今度は正しく変換された。がーん。
「人文」も「じんもん」ではなく「じんぶん」だったのだ(笑)。
むろん「天文=てんもん」から横滑りした読み違えだった。
これは女房には黙っていようと姑息に考えたが(笑)、
今こうして日記で天下に自身の恥をさらけ出してしまっている。
どうも僕は「ぶん」を「もん」と読みたい深層の欲望があるらしい。
果たしてカフカのように
「掟の門」のイメージがちらついているのか、
はたまた「悶」の字が文中に多く入った危ない本を
少年時に耽読しすぎたせいなのか(笑)。
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いま女房がどこかの古本屋で買った向田邦子を読んでいる。
書名、『夜中の薔薇』。
歌曲「野ばら」の訳詞歌詞中、「野なかの薔薇」を
「夜中の薔薇」と聞き違え、憶えちがえたエピソードが
集中の一エッセイに入っているらしい。
あ、『眠る盃』と同じか。
これは土井晩翠「荒城の月」中の「巡る盃」を「眠る盃」と
聞き違え、憶え違えたエピソードだった。
向田さんの筆力は、人間観察力を基軸にして
自己の残酷な対象化に反転させる機微にこそ宿る。
言葉の憶えちがえを笑劇にするときに必須の作法だ。
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それでいうと、僕はよく夕飯の料理をつくっているときに
鼻歌を唄っていて、歌詞を出鱈目のまま通している。
聞きつけた女房がすっ飛んでくる(我が家は狭い)。
「やめて、気持ち悪い、お願いだから」。
僕がアバウトで、女房は肥満してるけど几帳面(笑)
――そんな対立軸もおわかりいただけるとおもう。
僕はそんな女房を意図的に刺激することがある。
「寸止め唱法」と勝手に名づけているのだが、
よく知られた歌詞の語尾を意図的に唄わないのだ。
たとえば童謡「金太郎」ならこうなる。
「まさかりかついだ きんた(ろう)
くまにまたがり おうまのけい(こ)」云々。
この( )部分を発声せず、
歌に宙ぶらりんの居心地の悪さを導くということ。
最初はこれを間近にして、女房がキレた(笑)。
いまでは学習し、知らん顔で通しているが。
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言い間違いが「無意識」を露呈させるとは
フロイトの所説だが、
僕はそうした心理逼塞を打っ棄ろうとして
脱力的な言い間違いに自身を傾斜させるらしい。
ま、デリダもdifferenceをdifferanceと綴り変えたことで
彼のいう「差延」に、多元的思考を集中させたわけでもあるし。
って、自分と引き比べての例示がカッコよすぎるか(笑)。
言葉の連なりが変容可能性を秘めている、という様相は
それ自体が磁場形成的でもある。
思潮社『荒川洋治全詩集』(01)では
巻末にこんな編集部からの注記があった。
《本全詩集は[・・]誤字、誤植は訂正したが、
著者慣用の表記は尊重することにした》。
これは荒川や稲川方人ら、先鋭的70年代詩人の詩風、
その問題圏に突き刺さっている事柄。
たとえば稲川の処女詩集『償われた者の伝記のために』中で
忘れがたい詩句にこんなのがある。
《あらゆる拿捕は遅れよ。》
命法「遅れよ」は、かなり文法的に危うい。
この危うさを取り込んでの修辞なのだった。
第三詩集のタイトル、『われらを生かしめる者はどこか』も
「どこか」が「だれか」のズレではないかという
そんな不安を幽かに生じさせる。
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そういうことでいうと、
「危うさ」が謎と絡まって、
しかも「意味」に向けての破綻をずっと見せない
稀有な精神力の詩人がいる――
「新しい詩人」のひとりとして
『片鱗篇』という処女詩集を上梓した石田瑞穂だ。
一読して稲川方人の詩法を「現在」に拡張する意欲を感じるが
集中「舞=鶴」などは冒頭が無媒介に「、」から始まり
誤植に直面したような動悸を生じさせる。
この動悸すらが、詩を読み進めてゆくときの
「律動」転写に加担しているとおもう。
霊性と高電圧の双方があって、
イメージの結像不能性が多くのように「淡さ」へと流れない。
この詩篇にしても、例えば別詩篇「秣と韻律」にしてもそうだが、
危うさが護持されて
詩篇中の地名が実在なのか非在なのか判断も揺れてしまう。
その揺れのなかで地名「舞鶴」がタイトル「舞=鶴」に分岐し、
鶴の舞いが詩行の裏側を幽かに覆ってゆく。
「秣と韻律」ならば、数行の空白を置いて示された最終行、
「御生」(「みあれ」とルビされる)が、
地名なのかどうなのかの判断軸が立たない。
ただ、「み」に神聖、「あれ」に存在への祈祷の残骸を見つつ、
それが未知の地名表示に近い謎を帯びている点を
読者は美しい強度として受け取ってしまう。
なぜか「御生」の記載から光があふれだす感覚もある。
思潮社「新しい詩人」シリーズを一からげにして
若い世代の詩風の共有を指摘する言説が
部分的に再生産されている。
抽象的、弱い、自然の発露がない――などと。
ただ、その個々には微視的に検討すべき差異がある。
そして石田瑞穂は「新しい詩人」の水準を数段抜けている。
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ということで、言葉が誤用されている磁場に
詩的な生産性も付帯する、というまとめになるのだが、
最近の僕をひどく哀しませた事件があった。
日記に書こうか書くまいかずっと迷っていた事件。
実は太田出版『d/SIGN』の新号(特集「小さな画面」)が
ようやく出たのだが、
そこに掲載されている僕の原稿が
30枚の分量にして誤植が40~50箇所と異様に多いのだった。
大好きな雑誌。ほかの原稿と通読しようともおもったのだが、
とても哀しくて読めやしない。
もともとファックスされてきたゲラに
異様に誤植が多かった。
たとえば丸囲み数字や空白がすべて飛んでいた
(これはたぶんWINDOWS→MACの過程で生じた)。
僕は直しの指示を入れゲラをファックスしなおしたのだが、
そのファックスをなぜか編集部がさらにスルーした。
ただ、ゲラ自体を素読みすれば
文意の通じない箇所が連続し、
また一見してヘンテコな文字の混入
(これも元原稿には皆無)もわかったはず。
ということは編集部の誰ひとり、原稿すら読まなかったのだ。
掲載誌のそんな状態を確認し、
僕はとりあえず編集部にメールを打った。
抗議の文面ではなく、哀しい、と打ったのだった。
正誤表の次号掲載要求もしてない
(大体、それは煩雑すぎて掲載が無理だろう――
やるなら正規原稿の再掲載しかない)。
僕はそちらの編集システムに何か問題があるのでは?
そうも書いた。
大至急調べて再メールします、と平身低頭の返信が来る。
来て、それだけ。すでに2週間近くが経過している。
この不誠実にも僕は哀しくなった。
これが最近の僕を襲った「最も・哀しい・事件」。
「阿部嘉昭ファンサイト」に正規原稿を転載しようか。
――お笑い文脈で書きはじめたのに
何か最後が悲痛になっちゃったな(笑)。
おしまい