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詩大陸への接岸(1) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

詩大陸への接岸(1)のページです。

詩大陸への接岸(1)

詩大陸への接岸
(なぜふたたび詩は書かれるようになったのか)
――阿部嘉昭インタビュー
(聞き手・三村京子)




―― なぜ最近、詩を書かれるようになったのですか。


阿部

 本当のところはよくわかりません。90年代の終わりごろ、パソコンを購入しメールを打ってゆくうちに、読みやすさを考え改行・行アキ文を駆使していったのがキッカケになって、「改行リズム」が躯を貫きはじめ、それが自然と詩作につながっていった――そんな説明をよくしていますが、実はそれも定かではありません。ただ、「改行」が現在の詩作の原動力になったのは確かだとおもいます。


―― それはどうしてですか。


阿部

 僕は実は大学のころ現代詩における「改行」というものがずっとわからないできたのです。短歌・俳句なら律があって、詩の成立要因は規則として理解できる。それぞれは基本的に一行棒書きです。改行行為はなく律だけが自立している。ところが現代詩の改行は律が外因となっているわけではなく(内在リズムがあるとは読み下せばすぐに理解ができますが)、それらの改行がすごく恣意的にしか当時の僕には映らなかった。接続詞の「が」だけの一字で改行がなされている場合などは、いくら景の転換という理解が及んだとしても、僕の吝嗇が許さなかった(笑)。紙面が勿体ない、と本気で憤ったものでした。分かち書きの空間美というものもあまり信じませんでした。

 だから僕は大学時代、自分で詩を書く場合の改行原則を、偏狭に設定することでしか詩が書けないような気がしていたのです。別の言い方をするならば「定型」をもとめた。

 たとえばソネットをつくって、ソネットの決まりどおりに脚韻を踏むことで、個々の改行を施したりしました。鈴木漠さんのようなアプローチですね。鈴木さん同様、「マチネ・ポエティカ」よりは複雑な脚韻を踏める自信がありました。ひらがな単位でいう、一音ではなく、一音半、もしくは二音の脚韻ですね(いまからいうと、このような脚韻詩はJラップを先駆けるものになっていたような気もします)。当時は、塚本邦雄『水銀伝説』での、短歌における脚韻実験に驚倒していましたから、それくらいのことは自分でも考えられたのです。そうして自分の詩作に、すごく実験的な人工的な条件を課し、それをクリアすることが詩作の動機になっていたといえます。字数揃えの幾何学形詩篇も、同様にしてつくりました。

 ただ自分が人工物をつくっている――パズルをつくっているという後ろめたさからは開放されませんでした。ロートレアモンやらマラルメやら、その他、自分の好きな西洋詩の「精神」をもちこんだという自負があっても、それは一面、当時憶えていた稀用語彙の展覧にしかすぎず、詩作の動機が「魂」から湧き出ている感覚がなかった。とうぜん僕には「人生」が足りなかったし、それを言葉の実在へと転化する意識もなかった。すべては机上の出来事、砂上楼閣の作成に尽きていた。また、当時の僕の文学的知識は具合の悪いことに、それを「架空のオペラ」と自負して恥じない面もつよかった。振り返ってみると、あの当時の驕慢な自分、実に嫌いですね(笑)。


―― すると先生は大学時代を中心にした詩の習作期以後、詩作を断念された、ということになるのでしょうか。


阿部

 まさにそのとおりです。あるとき、自分でつくっていた清書ノートを見直したことがあった。20代の半ばごろかな。見直してみて、書かれたものの殆どすべてが下らないとおもった。「青臭かった」のです。自己顕示欲やら文学的野心やらが溢れかえっていて、この「自意識」は誰にも掬されないだろう、と暗然とした。それで僕は詩篇のごく一部を例外的に転記して残したあと(これも吝嗇の賜物です-笑)、ノートそのものは破棄してしまいました。これらについては惜しい、という気もしなかった。自分の文学的出発が錯誤だった、とその当時の年齢で、醒めた眼で確認したというにすぎません。


―― 文学的出発という点をもう少し詳しく語っていただけませんか。


阿部

 よくいうように、僕は高校のころ勉強ができなかったので、「不良少年」が陥るような文学愛好のパターンを典型的に踏んでいた、ということですね。詩は自分の「不良化」のアイテムでした。僕の世代ならばお定まりの、安直な詩的研鑽を積んでいったのだとおもいます。古典が苦手。だからまずは詩よりも先にロックやマンガがあった。中学時代の僕の詩は記憶にはっきり残っていませんが、ボブ・ディラン崩れや鈴木翁二崩れのような駄作ばかりを書いていた、非常に頭の悪い子供だった気がします。大学に入って、塚本邦雄をはじめとした現代短歌、あるいはフランス詩などにも出会いますが、出自の悪さは終生、僕につきまとうものです。無手勝で詩を書く悪法から逃れる手立てがなかった。

 ただ、自負心だけがどうしようもなくつよかった。それで細々とながら、20代半ばまでは詩を書いてはいたのです。決定的な事柄があった。80年代前半、「現代詩手帖」の賞に自作を応募に出したのです。そのときは平田俊子さんが受賞なさいました。僕の詩は、最終選考の座談会の俎上にはのぼった。大岡信さんは「このひとは後ろ向きに詩を書いている」と指摘なさった。吉増剛造さんは、この後ろ向きのかたちは嫌いではない、と助け舟を出してくださいましたけども。それと、大岡さんは、「このひとの詩は短歌的喩を実験的に詩作にもちこんでいる」と喝破なさいました。つまらない異種交配を端的に見抜かれて、選評を読んだ僕はすごく赤面したものです。僕はすぐに識者に見抜かれてしまう、野心的な振舞をしたにすぎない。これが、僕が詩から離れる大きな動因になりました。


―― そのとき先生が応募されたのは、やはり脚韻詩だったのですか。


阿部

 いえ、散文詩でした。「改行原則」を理解できなかった僕は、当時は散文詩の作成だけに活路をもとめていたのです。この散文詩への退却はすでに敗北の兆候だったとおもいます。

 当時の僕はアルバイトで散文というか、コラムを書き飛ばしていて、躯のリズムに散文性が組織されつつあった。そのリズムにたいし、詩を持ち込もうとしていたのだとおもいます。

 変な言い方ですが、死に損なった、という暗い気持だった。別に自殺願望はなかったですが、ものすごく不健康な生活を繰り返していましたし、躯も弱かったので、自分が早死にするという傲慢な確信をもっていたのです。ジミ・ヘンドリックスやロートレアモンの没年はいつも頭にあった。あるいはランボーの詩的夭折も。詩はその意味で「少年」が書くものだという偏った考えをしていたのです。このとき、もしかすると三島由紀夫の短篇「詩を書く少年」の影響が尾を引いていたのかもしれません。詩は少年期に書いて、その詩的少年がやがて死ぬ。あとは砂を噛むような「散文精神」で己れを組織しなければならない(とくに男の場合は)。

ポール・ヴァレリーのいう「詩=舞踏/散文=散歩」の区分については深く考えなかったままでした。「散歩」のように詩行が進んでゆく詩の素晴らしさに眼を開かれたおもいがしたのは、身近な存在だった福間健二さんの詩を読んでからです。考えてみれば愚かなほどに開眼が遅い。同じ「兆候」は僕が詩を書かなくなってからも親しんでいた西脇順三郎や稲川方人の詩にもありましたから。ただ「散歩」を端的にテーマとする福間詩に出会って、「詩行も散歩している」という驚嘆を覚えた。「雪解け」のひとつだったかもしれません。

 僕は散文詩を書くと、自家中毒に陥ってしまう自覚があった。平出隆さんの『胡桃の戦意のために』などに憧れすぎていたのでしょう。逆に改行詩は「少年」、もしくは「女性」のものだ、という偏見もありました。僕の代わりに平田俊子さんが受賞なさったことは、だから実に象徴的なことでした。80年代は確かに「女性詩」の時代で、「少年期」が完全終了した自分は詩大陸から撤退しなければならない、とおもいこんでいました。

 ただ、僕は当時隆盛だった女性詩が肌に合わなかった。それで俳句・短歌に「女性の声」を探したのです。俳句では、三橋鷹女、中村苑子、 短歌では葛原妙子、安永蕗子などですね。それと僕は西友というスーパーで映画製作の部門にいたのですが、あるとき製作された映画が、亡くなった熊井啓さんの『式部物語』だった。これは秋元松代さんの傑作戯曲『かさぶた式部考』を原作にしている。それで柳田國男が式部伝説を追った『女性と民間伝承』の記述にあたるうちに、和泉式部の和歌や「存在の並立・伝播性」自体がすごくいいとおもうようになりました。導きとなったのは、寺田透の著作でした。『和泉式部』。躯から「あくがれいづる蛍」、それしか「詩」がないのではないか。塚本邦雄の著作によって、式子内親王など新古今時代の女性歌にも親しんでいましたが、僕にはもともとロックジャンルでも何でも女性は表現者として劣る、という偏見がある。与謝野晶子はいちばんいいものでも絢爛すぎて臆していました。

その意味でいうと、葛原や鷹女など一時期の女性の詩がいいのは歴史的例外ではないか、ともおもっていた。不勉強も甚だしかった。そのうち、「ラ・メール」が創刊される。それで新川和江を読む。ただ、それでも例外以外に女性の詩への興味が永続しない。そういう逼塞を説いてくれたのが、僕の場合、水原紫苑の短歌でした。そのあとが小池昌代さんかな。あと、椎名林檎のデビューが大きかった。というと、もう90年代も後半の話になってしまいますが。


―― 「女性好き」だったことが詩作復活の一因となったということですか(笑)。


阿部

 これは僕の魂の秘密に関わることなので、深くはいいたくない(笑)。ただ、一言だけいっておきましょう――詩を書くことは僕の場合、たしかに魂の女性化、あるいは中性化に関わっています。だから、「女になってみせる」ことで、詩作が妙に進む場合があります。僕のサイトに、『壊滅的な私とは誰か』という未刊詩集がアップされているのですが、これは立教の女子学生に自分を仮託して、その子の書きそうな詩を一気に書いてしまったものです。稲川方人の『アミとわたし』、あるいは吉岡実の『サフラン摘み』が体現している素晴らしい女性性・少女性に対抗する意識がありました(笑)。この未刊詩集中のいくつかの詩篇は、あなた――三村京子がいまライヴで演奏つき朗読をしています。こうして架空の女性性がバトンリレーされた。「してやったり」とおもいます(笑)。


―― 散文精神と詩作に関わる「その後」をお訊きしたいのですが。


阿部

 雑誌コラムや業界紙コラム、あるいはレビューを僕は80年代、書き飛ばしていました。さっきからの話でおわかりかもしれませんが、僕は大学時代、映像漬け・音楽漬けとなるとともに、文学漬けとなりました。鏡花だって日夏だって江戸物だって耽読していたから語彙幅は異様です。そういう自分を韜晦して散文を書いていた。僕、自分でいうのも何ですが、コラムがすごくうまかったんですよ。情報度が高く、圧縮がうまく、しかも文章が軽く、流麗だった。いちばん気にいっていたのが、最も実験的な書き方が許されたAVレビューだったかもしれない。リズムがよくて、それだけで読者を笑いに導いた。このとき自分の文章の特質は、語彙でも凝縮力でも情報度でもなく、リズムではないかとおもいはじめた。

これがのち、単行本単位の散文を書くようになってさらにはっきりしてくる。もともと一文の発想は、自分のリズム感覚に切り込まれるように現れてくる。打っているリズムが自分の躯を強烈に覚醒させ、それをさらに錐揉むように抉ってゆくことで、文が次々に連打されてゆく。入れ子構造に入ってゆく感覚があります。疲弊でこのリズムが失われかけたときには、文頭に戻って書いたところまでを読みなおし、すでにあるリズムを「貰って」、また書き継ぐといった厄介な書法です。「散文精神」などとは程遠い(笑)。ただし多くの読者もまた、こうした潜在している僕の文章のリズムを「貰い」、酩酊にいたる、といってくれますね。

 「リズムを貰う」というのは、すごく大きなことなのではないでしょうか。僕はそのことのために、詩集を繰り返して読む。最も多く読んだのは、稲川方人さんの80年代までの詩集や西脇などですね。彼らの詩集を読むと一日程度は心地よいリズムが躯に永続する。それを味わいたくてその詩集を読むということは、詩集体験がほぼCD体験とも等しい、ということになるのだとおもいます。

散文詩は、そのことでいうと、読了してしまうと達成感が出てしまい、その後を読み直すことがあまりない。その緊密な空間を、縛りを解き読み解いていった喜びを、記憶力の悪い僕はすぐ忘れてしまうのです。となった場合、詩集空間はどこかで「未了性」を残しているほうが、再読の魅惑にあふれているといえるのかもしれません。事実、完璧な詩集を僕はあまり再読しませんね。吉岡実なら『静物』も『僧侶』も打っ棄ったままになっている。逆に中期後期の詩はよく読み返す。ただ、吉岡実は後期になると、リズムが「貰えなく」なってきます。

 「リズム」というのは、推敲原理と離反するものですね。フロベール的な「最良の文字運び」が世に存在するとする。ところがその意識はたぶん書く者を失語に導いてしまう。リズムは文の最良性を個体性に縮減するものです。肉体の場所はそこから鳴動する。フロベール的理想からいうと矮小化ということになるのかもしれませんが、そのような完璧な「文」もいま流行らない、のではないか。

 僕は小説を習作にせよ書かなくなって久しいから、自分の書くものには散文原理がなくなっている。単行本単位の評論をリズムで書ききるなど暴挙というに等しい(笑)。ただ、出自の悪い自分の身の丈には、それが見合っていると考えています。こういう自分にとっての理想が平岡正明さんですね。

 そういえば、小池昌代さんは詩も小説もお書きになる人ですが、詩作と小説執筆では逆の原理が働くとおっしゃっていた。最近出た『僕はこんな日常や感情でできています』でも書かれているエピソードですが。小池さんは、詩は「一つの息」で書ききるのだという。小池さんのいい詩はリズムが清潔で、すごく静謐です。失敗していると感じられる詩は、おそらく一つの息では仕上げられずに、説明的な散文脈が舞い込んでしまったものではないか。それでもそのタイプの詩では、「散文+詩=詩」という不思議な加算がおこなわれています。そこがあのひとの特質だとおもう。この感覚があるから、詩集の全体構成がすごく見事です。

逆に小池さんの場合、小説は、推敲しだすと、一箇所を直せば別の一箇所が必然的に動く――というような、すごく神経症的な自己改定に迫られるらしい。僕などは面倒くさがり屋なので、そんなふうに小説などはもう書けなくなっていますね、年齢的にも。

 詩に推敲は一体どのくらい必要なのか。昔、稲川方人さんと、京王線の終点近くの西河克己さんのお宅にお邪魔して、その帰り、ずっと京王線に並んで座って新宿に向かっていったとき、稲川さんの詩作について僕が「インタビュー」をしたことがありました。郡淳一郎くんなどは、「よくそんな大それたことを」と吃驚していましたが(笑)。

稲川さんはご承知のように、詩誌初出の詩篇を厳密に再構成して、各詩篇の仮題を奪い、全体を連詩的に並べ替え、一冊の詩集を完成させる、という経路をとっているひとです。個別性の剥奪が普遍化につながる回路は、地名などの剥奪とともに、詩篇名の剥奪とも相即している。稲川さんの詩は、その独特の硬質な語彙に馴染みさえすればすごく抒情的に響きはじめる。「喪失」がテーマだし。「怒り」も明らかですが、その「怒り」の質も好きで、しかも言葉には動悸させるような冥府性やら脱臼やらも仕込まれる。

 で、その稲川詩は、僕などはそのリズムが好きで、速読してしまうのです。だから再読もする。それで自分の流儀で稲川さんに、詩も速成するのでしょう、と訊いたら、稲川さんは怪訝な顔をした。つまり稲川さんには、血の滲むような推敲が当たり前だったのですね。詩篇発表時に推敲を繰り返し、再構成時には並べ順の検討もふくめ、そこでも推敲を繰り返す。で、リズムは「本質」として練磨の果てに顕現してくる。「エピファニー」の用語にふさわしい、一種神秘的な詩作方法が遵守されているのだとおもいました。むろん流儀にはいろいろあっていい。そういうことでいえば、練磨の果てにせよ、リズムがくっきり現れたものが、再読の誘惑をもつ、という単純事実だけを指摘すれば済むのかもしれません。


―― 先生は詩をすごく早く書く、とよく話題になりますね。


阿部

はい(笑)。というか、僕は雑誌コラムでも評論でもメール文でもブログ文でも、書くのがすごく早いですよ。ガッガッガッガッという身体リズムがある。キーボードを打つというより引っ掻くような音が自分の躯のなかにあらかじめ鳴っている。その打刻や摩擦の音に、言葉が次々とからげられだし、それが見る見る連接して、文章ができあがってしまうのです。下品な書き方、といえるかもしれません(笑)。

 随分と仕事で文章を書いているから、書き出す前に、自分の書こうとするものの過半はみえています。ただ、指の踏み外しというか、フッと書いてしまったことのほうが、その文中では抵抗圧になったり命になったりしている意識もある。リズムを鳴らしながら、フレキシビリティへもってゆく、というのが、自分の中ではコツになっているかもしれません。まあ、一種、集中を要求される作業ではあります。

これを、事前認知をほぼゼロにして、それ自体の「運び」だけで自己組織を完成させるのが、僕にとっての詩作です。

 とうぜん、「想起」という問題がそこに舞いこんできます。論理ではなく想起で詩行を運んでゆくことを、僕自身は「弱い」ことだと考えています。『僕はこんな日常や感情でできています』での保坂和志の書評記事にも書いたことですが、「想起」の痕跡が認められる瞬間に、その詩篇や文章が個人性の枠組で書かれた証拠が露出する。ただ、そうした「弱さ」も詩には必要なのではないか。

「私」を「想起」によって詩に登場させてもいい、とおもうようになりました。ただ書かれる「私」は、自分にとって既知ではなく、未知の「私」です。それだからこそ、自分の詩を、他者性の何かが介在したものとしてスリリングに再読ができる。そうして詩はその作者と契約を結ぶのだし、詩特有の「それ自体」と「それ以外」を同時にふくむ修辞は、かならず有形無形に「思考」自体の更新へと飛躍的な変化を遂げる。だから詩作は実利的に有効なのです。

「私」が自分にとって自明でないのはなぜか。それは「私」が複数だからです。それで、ひとつの「私」の影に別の「私」が隠されている事態が生じている。詩は、とりわけそうして隠れている「私」を書くのだとおもう。


―― 詩は「私」を書くにふさわしい文学形式だということですね。


阿部

 そういえるとおもいます。ただし、そのことだけをいうと語弊の生じる惧れがあります。詩のもっと大きい権能は、「文」を切断的に変える契機をふくんでいることです。

たとえば、こういってみましょう――「想起」でひきずりだされてくるものは、そのおおむねが「文」の単位です。ただ、この場合の「文」は詩にとっての敵対要素。だからそれは自然、足りなかったり、ひしゃげたものになろうとする。そうした畸形的な「不足文」を単位として詩に喚起し、それらを切り貼り・コラージュのように自己組織してゆくのが僕の詩作の特徴かもしれません。

そのいびつな文をつなげてゆく接着剤のようなものが「助詞」です。この助詞の用例こそが発明されなければならない。助詞に負荷をかけて、助詞を変成させるのです。それで詩的な混乱状態が導きだされる。

 その意味で、僕は詩篇を読み、そのなかの「詩語」に惹かれる度合が少ないのかもしれません。それに「荒地」から出発した現代詩の場合、詩語が極度に偏向している。それよりも言葉の壊れた状態に目覚め、とりわけ、助詞の逸脱に動悸する、というほうが僕には多かった。僕の現在の連詩仲間に若手女性詩人の注目株、杉本真維子さんがいますが、彼女の新しい詩集『袖口の動物』でいちばん驚嘆したのも助詞の新規な用例でした。

 いっぽうで僕は「リズム的思考」というのを信じているのです。実際に、精神療法にも活用されていると聞きます。音楽療法というのもあるでしょう。音楽療法ということで憶いだしましたが、あなたは自分の音楽活動が立ち行かないようなら、「音楽療法士」の資格を取りたい、と一時期語っていましたね。


―― はい。


阿部

そのあなたの曲の作詞を僕は30曲以上していて、あなたはそれをアルバムに収録したりライヴでも披露していますが、大体の曲づくりの手順は以下のようになります。充分ご存知のあなたにいうのはヘンですが、読者のためにいいます(笑)。

あなたがコードストロークなどギターの伴奏をつけ、歌メロを「ラララ」音の連鎖で唄い、それをCDに録音してくる。僕はまず、音数を○○○…で転記し、あとはその「ラララ」を繰り返し聴く。すると5分くらいして、まさにその「ラララ」に、これしかない、という歌詞が実際に聴こえだすのです。それでやおら〇〇〇…を埋め始める。ここまでが勝負。あとはABCメロが組み込まれた複雑な構造であっても一番がスルスルとできてしまい、すると二番もその対照性か物語展開を考えることでできてしまう。最後に自分の嵌めた歌詞を「ラララ」音源を聴きながら眼で追って、唄いにくいところのチェックなど微調整をおこなうだけです。

 このときの自分の作詞原理とは一体何なのか。やはりまずは「リズム」によって言葉が虚空から吸着されてくる、ということです。同時に、メロディやコードの表情というものも考慮されている。それに従順にしたがうか、対位法的組織をおこなうかはそれぞれですが、適切な言葉、というものが必ず出てくる。律動性・旋律性が言葉を確定させてしまうのですね。僕はこの作業も異常に速い。つくりかけのまま放置、ということも一切ありません。
(この項つづく)

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