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川田絢音讃 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

川田絢音讃のページです。

川田絢音讃

 
 
次々回の北大「女性詩」講義のため(これまでは新川和江-牟礼慶子-富岡多恵子の流れ)、大好きな川田絢音の詩集を再読、配布プリントにふさわしい詩篇を、転記打ちしていった。これが至福の時間となった。

序数つきで短詩をおさめつづけた処女詩集『空の時間』は、空や鳥や暁にかかわる透明な思弁性を貫いているが(たとえば【59】、《夢の中でのように/凶暴に/ひばりのいない空にひばりを見る》)、いくら減速機がつつましく装填されているとはいえ、「68年」の時代気分におもたく拘束される一面があったとおもう。モダニズムの余映もある。

川田絢音が川田絢音に「なった」のは彼女がイタリアに移り、べつの詩法を獲得してからだ。散文脈だが、修辞と心情を容赦なく削り、「見たもの」と関係性のみをしるしてゆく。時制や場所が飛んでも、「了解」はぎりぎりでつなぎとめられる。このとき一行一行の変転がほとんど映画のカッティングのようになって寡黙にロマン化される。疎外されたヒロインのいる劇。真偽のつかめないラヴ・アフェアの暗示。最少のことばで視像をつむぎながら、書かれていない余白に、読者は「ヒロイン」の欲望の倦怠を感じて、全身を刺青されることになる。

異国中の他者であること。わかりやすい例でいえばそこでデュラスと川田は係累だろうが、反復する声の木霊によってデュラスがナルシスへのエーコーになったのにたいし、川田はことばを消すことによってあらゆる関係の「欄外」でエーコーの無言となる。時間的なデュラスにたいし空間的な川田。ところが時間と空間の合流する特権的な場所というものもあって、それで川が絢音詩には幾度となく、音のしずかな絢爛をともなって召喚される。「川」田「絢」「音」――その名のとおりの詩をつむぎつづけている、といえるかもしれない。

男性で絢音詩を好きだと表明している者を数人知っているが、どこかでタイプの同一を感じる。ロマンスごのみで、女性詩の男性化に怖気づき、同時に女性のあやつる文脈切断の刃が自分の身すら斬ることを夢み、しかも女声の寡黙を水にむかう畔で遠望する者たちだ。川田絢音が「痛ましさ」によって強者となるとき、みずから武器として痛ましさをもてない恥しい対蹠者の群れだ。その者たちは川や湖の対岸から川田絢音を読む。そうして風光にきえてゆく彼女のからだ、そのとおい雫を、不可能な対象として欲望してゆく。欲望を先行させているのは川田だが、対照的に後置されてゆく欲望は、澱、そうでなければ「層」をつくりだし、男たちはそれに囚われてゆく。

転記打ちしたものから一篇のみ、全篇引用――

【日誌】
(『朝のカフェ』〔86〕より)

ホテルの入口に
骨の無いような女がいて
二足の靴をつまんで奥に持っていった
黒いレースが腐ったように垂れた部屋にはいると
仮名文字の染められたゆかたが置かれ
文字は窒息している

いつか
海岸に
丸い白い石がじっと無関心に触れあって
波があたりを刈りこんでいた
犬の頭くらいの石を拾って 鞄に入れ
べつの街で
棄てた

八月十日
琵琶湖で
男とホテルに泊まる



詩的主体が「見たもの」「したこと」が簡潔な日誌文体を模して綴られる。素っ気ないのかといえば「見たものの(不気味な)具体性」「したことの(不気味な)無為」がそれを救抜し、その流れで三聯が来て、「脅威」が定着される。男性読者の通常は、このことによって琵琶湖の対岸から、みえるようなみえないような詩の主体を遠望するのではないか(マチズモをもたなければ詩中の男に自己を代入させることなどできない)。

では女性読者はどうか。詩の主体に「沿う」ようにして詩に入ってゆけるのは彼女たちが水性だからで、結果彼女たちは詩中のディテールに刻々変貌してゆく。「骨の無い女」に、「二足の靴」に、「腐ったような黒レース」に、「部屋」に、「ゆかた」「仮名文字」「窒息」に、さらには「海岸」「石」「べつの街」「廃棄」に――。絢音詩がドゥルーズ的な「生成=なること」を連接している点に留意しなければならない。

通常、「散文の達人」は詩作に不向きだという認識がぼくにはある。吃音や強勢や饒舌や描写的内破など、散文にあらわれる病性のほうが、詩作に転化するための近道となるのではないか。ところが川田絢音のように、自己切断によって達人化する文章書きには、詩と散文の区別など無用で、あるのは改行形か非改行形かという、形式の相違だけとなる。授業では扱わないが、散文形で書かれたものも、川田のばあいしずかにひたひた迫ってくる。もともとぼくは「夢の記述」は読まない、という自己原則を設けているが、だから川田絢音だけは別だ。91年の『空中楼閣 夢のノート』から、短いものを二篇引こう。そこにぼくのかんがえる「散文」の理想が体現されているので。

《【余ってしまう気持】――プールで泳いでいると、泳ぎながら余ってしまう気持が、海草か切り紙のように微妙な色彩を帯びて息づき、躯のまわりに浮きあがってくる。》

《【二枚の布】――「こねて混ぜあわせるように」と指示されてやってみるのだが、よく見るとそれは薄い二枚の布で、とても混じりあわず難しい。》

川田絢音を読むと、「散文が下手なゆえに詩の下手な現在」がしずかに告発されているような気もする。そういえばありようはちがうが、辻征夫だって「散文の達人」だった。

ちなみにいうと、ぼくがもっとも愛読している絢音詩集は『雲南』(03)かな。旅行詠が基本的に苦手なのだから、例外的というべきだろう。中国の景物それ自体に惹かれるほかに、ことばがふかい領域をさまよって、くるしさのひかりがある。この詩集は「現代詩文庫」シリーズ中最も「満載」感のある『川田絢音詩集』には入っていない(収録後の刊行なので)。
 
 

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2012年05月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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