栞文の極北
橘上が緻密だ。金子鉄夫の初詩集『ちちこわし』での栞文のことだ。
金子の詩集全篇から任意の一行を大量にとりだし、それを撹拌機と増幅器にかけ、にょきにょき出てきたものを一定の抒情にむけ捌いて整序化する。金子が改行進行の脱規則性、膠着と連打力の身体的矛盾撞着によって韜晦していた「感情」がそれで明白になる。これは大した「批評」なのだが、結果がすごい。橘上の「明晰」にたいして、金子のもつ肉厚な「脱明晰」もまた再価値化され、総じては橘と金子の双方が「痛み分け」になるような、絶妙な謙譲的位置がえらばれているのだった。栞文の極北だろう。
昔からおもっていたけど、橘上、頭がよくて、なおかつ倫理的だなあ。そこに膂力への評価もいまくわわった。愛情のなせるわざだろうが、ぼくにはこんな活力がもうない。以前近藤弘文くんの一詩篇(一詩篇だけだ)を全行シャッフルして別詩篇へと再構成したときも、からだは、ぜえぜえいっていた。
金子鉄夫の詩集を読む、その総括と別方向への生産的拡散として橘上の栞文をさらに読む。『ちちこわし』の体験はぜひともこの2セットを経なければいけない。
それにしても金子が指が滑ったように書いた現実への陥穽、「J子」の四つのうち二つまでを、橘上は、連発とはいわないまでも絶妙な場所に置く。「J子」ってほぼ「ジュン子」だろうと告発するように。まあ「ジツ子」などという名も以前はあったのだが。
最後に、橘上が引用しなかった金子のフレーズをいくつか連打でぼくなりに引き出し、金子の「意外に(窪田般弥な?)近代詩ぶり」をあきらかにしておこう。
烏賊を脱ぐ
烏賊を脱いで
どんどんおれは発汗し
あたらしい生物になってゆく
ズブズブ深い、この町の闇に
まずは四方に四肢を散らして
分裂しよう、そうしよう
刃物を所持した裸体は消えて
愛せないものだけが泡立って
ケムリのない地区
脊柱だけになって喋っている