川上弘美・どこから行っても遠い町 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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川上弘美・どこから行っても遠い町

 
 
何日か前に読んだ川上弘美『どこから行っても遠い町』(08、新潮社)の「さみしい体感」がいまだに蘇ってくる。からだがしずかに感動していたのだ。短篇連作集。前の短篇に登場した人物が、現下の短篇のどこかに現れ、時空が断続を経由しながらそれでも連関してゆく。読み手は或る「厚さ」を、川上の配備する人物の心情・身体の「薄さ」をプレパラートに透視しながら読むことになる。マンガファンなら浅野いにおをおもうかもしれない。『素晴らしい世界』の話法で、『ひかりのまち』の空間性が踏襲される。ただしその川上の空間は「ふるくうるみ」「もっとさみしい」。

もともと『センセイの鞄』と『真鶴』での川上の文体がまったくちがうのはヒロインがちがうからだ。つまり、小説の三要素、①人物、②物語、③文体、のうち、①と③とを関数化してしまう川上は、実際は小説の「与件」を熾烈な審問にかけていることになる。ところが②が、引力とともに斥力も孕むそうした対立可能性を見事に緩和する。川上的な技術はまさにそこに賭けられていて、成功が導かれた結果、小説の最終要素、④味、までもが付帯する。前衛的なありようがそうとは受けとられないこの川上の技術に何度慰められてきたことだろう。声高でなく小説の小説性が「更新」されているから、読む側の信頼が慰められてきたということだ。小説は終わらない、と。

『どこから行っても遠い町』における諸短篇の形式は、主人公の一人称語り。老若男女の縦横無尽性がそのまま「語り」の身体性へと展開される。語彙分布の調整、若い男の子の一人称語りの場合は、年齢相応の、文章の不恰好さまでがそこに実質化されてゆく。つまり諸短篇にはそのようにして別の文体が貫通されているのだが、それでも共通性類推、反照、綜合化が起こるのはなぜかというと、空間の共通が判明すること以外に、「わたし」「僕」という、いわば無名の代名詞で語りだされた短篇が、他の登場人物から「呼び名」を呼ばれてその場の時空が定位されたり、また先の短篇の人物の「呼び名」が呼ばれて連関が判明する、その構造(法則)が一役買っている。

物の名・人の名。プルーストが無名的な「わたし」をほぼ貫きながら、ほんの数カ所で「わたし」が「マルセル」と呼ばれる場面を召喚したのはなぜかというと、「わたし」という一人称にして非人称が、それでも「物の名」の引力圏にいることをしめしたかったからだろう。このとき「ほんの数カ所」が問題となる。「ほんの数カ所」があってこそ小説が小説となる。なぜなら作者の意識によって堅牢鉄板化しがちな小説空間は、そこに通気坑をあけて、作者の埒外、非知、つまり世界にひらかれる必要があるからだ。小説が設計図ではなく「生き物」(→土本典昭)だという保証は、じつはその亀裂部分から生じる。

諸短篇の細部をここで召喚する時間的余裕はないが、少しだけ。母親との離反と相似にゆれる女子高生を主人公に置いた短篇「夕つかたの水」の「味」の素晴らしさなど忘れられない。「うれしい」をあらわすとき《電信柱の電線を、電気がものすごい勢いで走っていくみたいな感じ》になるひとと自分はちがうとして、母親は娘にこう自己規定する。自分の「うれしい」は《水の中に沈んで〔…〕ゆっくり水をふくんでいって、しみとおっていって、でも最後にはね〔…〕ふくみすぎちゃって、かなしくなるような、そんなふうな感じ》。二項対立は「うれしい」の体感を基盤にそのようにして設定される。このとき読者の誰もが自己査定するのではないか。そして沈思をこととする観想者は、浸潤と沈降と対立融合の運動をしるす母親のほうの体感にかならず加担してしまう。そのことがこの短篇集に魅せられることと同位だ、という点に気づく必要がある。

べつの短篇、「長い夜の紅茶」では、「平均」と「平凡」が二項対立する。何もかも期待通り予想通りに仕事と生活とたとえば着衣をそつなくこなす夫の「平均」はじつは数量化したあとの平均値に現れてくるものだが、そこには実質がない。ところが妻「わたし」の「平凡」は何事にも個性を発揮できないという、いわば「能動的な」不可能性を刻印されていて、そこには肉厚で不透明な、身体的実質がある。こう対立図式をつくられると、夢見がちな読者は自己診断を導くのと付帯させて「平凡」のほうに加担してしまうだろう。ところでこの淡い不透明性をもつ身体、というのは、この短篇が描いた母-娘の系譜、読者そのものであるとともに、「やはり」この短篇集全体の肌触りなのだった。自己再帰性は通常、「詩の問題」なのだが、川上弘美はそれを「小説構造の問題」へと高度に接続する。これは作者の「わたし」が不注意に嵌入してきてしまう小説ともちがうし、作者の「わたし」をコンゲームで明滅させスリルを呼ぶ、一見、構造的な小説ともちがう。いうなれば川上だけが「構造の構造」を小説にしている。

語り手がうごき、時空が飛ぶこの諸短篇の連作性のなかで、言及が最多になることで結局、事後反応のようにひとりの男の人生が中心化される。魚屋の「平蔵」だ。ただしその人生は他人物によって語られるし、しかも悲惨極まりないはずが本人の行動が奇妙に「おかしい」ので、実際に読者にあたえる感覚は「混在的」になる。これが川上『どこから行っても遠い町』の「味」だった。いろいろな色や声がひとに保証される。それはしかし全部混ぜられると「かなしい色や声」になる。いろいろな「近さ」がひとに現前する。しかしそれは物理的-空間認知的な還元を介するとすべてが「遠さ」なのだ。

それにしても連作全体の人物混在性のなかで、混在の最終的な色合いに、燻し銀の渋さと淡彩の悲哀を同時にあたえるのは、いろいろな初老女、老婆が描かれているからだろう。とりわけ板前(こちらが語り手)と十五歳上の仲居(のちおかみ)の、くっついて離れて、やがて老齢、という腐れ縁を描いた「四度めの浪花節」でのおかみ「央子さん」の行動原理のさみしさが忘れがたい。川上弘美は自註にあたる位置で『前略おふくろ様』の罠をしかける。つまりこれは「あの」萩原健一と「あの」八千草薫が交合を繰り返す転位なのだと。だが実質は成瀬巳喜男的なのだった。しかも成瀬巳喜男のディテールの具体性と「どこも一致しない」ような成瀬巳喜男なのだった。そういうのが「味」だ。

ほかにも見事な「老婆」が、連作中、成瀬映画のように出てくる。嫁(こちらが語り手)にやたら凛と接する姑が深夜の時間、嫁に自分のふしだらをあっけらかんともらす前述「長い夜の紅茶」の姑「弥生さん」、たこやきも出す気取らない飲み屋にやとわれている「あけみ」の共約不能な美意識をその写真への空間感覚から暗示してみせた「貝殻のある飾り窓」でのその「あけみ」…そうして最後の短篇で文体が変わる。初めての「ですます調」。読者はそれまでの時空進展を手中に収めていて、最後に語られてくる内容に慄然とする。いや、内容ではない、「誰が」「どの位置から語っているのか」、その「ありえなさ」を予感して慄然とするのだ。とうぜん「思ったとおり」にその語り手が誰だかが判明する。このとき「一致」そのものが「死のようにさみしい」と理解する。このときの体感がずっとのこりつづけたのではなかったか。

映画を観るかわりに、小説を読む。そうした代替体験が正当だったとおもわせてくれる作家は、いまのぼくにはあまり多くない。小説の小説性があまりにも自動化もしくは商品勘定化されてしまったからだ。川上弘美は「小説の臨界」を瞬時、亀裂としてみせることで、小説の小説性、つまりは映画との代替可能性をたもつ。だからぼくにとっての希望なのだった。

最近、もうひとつおもしろい小説を読んだ。没後出版されたマンディアルグの若書き『猫のムトンさま』(98年、ペヨトル工房)。猫を溺愛する老嬢の一生を、マンディアルグ特有のバロックな螺鈿文体で描いた、読みながら時間がずるずる後退もしてゆくような素晴らしい中篇なのだが、こちらでは別の「希望」があった。原文忠実性によって自由を奪われ、水増しとなったはずの小説翻訳(これが海外小説の売行き不振を招いた一因だ)に、彫琢とダンディズムと「文体化」が復活していたのだった。訳者は黒木實、『城の中のイギリス人』の澁澤龍彦訳を継承する、反時代的な「正統異端」だ。
 
 

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2012年05月13日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

 
ひとつだけ付け加えると、「呼び名」が音声化される小説内の「ほんの数カ所」は、有限性の付与に関係しているとおもう。地上的桎梏のなかに人物が具体的に息づいているということ。逆にかんがえてみると、呼び名のない世界は、対象(対象のもつ開示力)の無限性を現前させていて、それはベンヤミンの言語観では造物主の手中にのみあって、人間はその対象からの力を縮減して呼び名をあたえる、ということだ。その呼び名の混在によってこそ世界の混在ができ、川上弘美はそこにさみしさをにじませる。
プルーストは話者が「マルセル」と呼ばれる「ほんの数カ所」から有限性の色彩をたぶん完成させた。かんがえてみると、全能性の自負なしに全能的な小説を生涯をかけて書いたプルーストは、自分の有限性こそを小説の実質としていた、謙虚な作家だった。このことを、書かれたものの巨大さとは別次元に置いて、かんがえてみなければならないだろう
 

2012年05月13日 阿部嘉昭 URL 編集












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