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書記速度 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

書記速度のページです。

書記速度

 
 
自分の書きものを「作文」と執筆家人生の当初、自嘲したのは幸田文だったが、むろんその自嘲は父・大露伴を想定してのものであって、語彙や文体の不足を逆手に、幸田文は晩年に近づくにつれて『台所の音』『木』『崩れ』などといった独自境をうちたててもいった。瞠目すべきは、みるみる融通無碍を獲得していって、小説とエッセイの境界を過激に無化していった点だろう。

「作文」とは何か。換言すればそれは、小説の小説性、詩なら詩の詩性をイメージして、その埒内に自らの作成をただ「置こう」とする限定性の謂だろう。蓮實重彦が前田英樹のソシュール論を批判して「イメージのソシュールが描かれているだけで」「ソシュールのイメージが描かれているわけではない」と批判したこと(けれどもこの批判には重大な疑義がある)がふと頭をよぎるが、「イメージの小説」「イメージの詩」ではなく、「小説そのものが小説を思考する」「詩そのものが詩を思考する」ときの「媒質」の位置に、「作者」はいわば無名的な実体として身をしずめなければならない、ということだ。

このときにいわば現代的な自己再帰性の問題が出来する。前回日記で話題にした川上弘美の例でいえば、「作文」というナイーヴな要約で括られてしまうような一節は彼女の小説細部にまったく存在しない。小説の小説性を新規化するために、再帰的に作者が小説空間に参入してゆく。このためにたとえば主人公の属性と文体の相即、といった「人工的な」苦行ももくろまれる。すべてを安閑に・俯瞰的に語りうる、作者の自己位置はそうして剥奪される。「作者」が無謬性を想定されないのと同様、小説ジャンルの既存性も疑われている、ということだ。これはたとえば詩にも映画にも音楽にも類推しうる創作精神だろう。

「書くこと」の自己再帰性は、「書くこと」が「書くこと」に折り込まれていった果ての、表面の「傷」の露呈によって読者からは算定される。川上弘美が信頼できるのは、そうした自己再帰的推敲がいわば「彫琢の鬼」といった重さをもたず、素軽さの印象を終始あたえる点だろう。推敲彫琢の綿密は重さをしぜん分泌してしまうが、川上弘美の「書くこと」は小説的再帰性を内在化させて「そのまま」書くこととしてただ表れているのみという気がする。作家的個性のなかからそうした「習慣」の要素を見抜くこと。つまりは作者の個性的な手元を見抜くこと。そのとき執筆速度がどの程度のものかを、読者は自分にひきつけて想像する。ここからいわば実在性への憧れのようなものが湧き起こってくる。

この作者への想像が、詩の鑑賞の場合にはどう変成するかが、実はここで書きたかったことだ。「書き急いだ詩」では発想力の持続性とヴァリエーションと驚愕が算定されてゆくだろうが、じつはそれはロマン主義時代の「天才」神話のような突飛さの印象をもってしか迎えられない。「飛躍的発想の無限持続」など、すこしも信じてやいないのだ。だから推敲的自己再帰性の「傷」をもたない詩篇など、まともに鑑賞できなくなってしまう。

一方、遅滞感にみちた彫琢詩もまた、その手元の自己再帰性の鈍重をつたえてしまう。ここでは「それほどまでにして詩を書くべきものか」という怖気が生じる。どだい自分の書くものをみずから価値化したいためにそういう所業にいたるのだろうが、そこに透けている功名心こそが忌避の対象となる。いいかえれば功名心の露呈は、想定される書記の「あまりの」速さと「あまりの」遅さ、その双方に分岐的に感覚されるということだ。それはどちらも「適度」を逸しているということなのではないか。

ぼくは詩では意味を読み、音韻を読み、驚愕を読み、文法逸脱を読み、ジャンル更新性を読み、作者身体を読む。同時に書かれているものが書かれているときにもっていた「速度の質」を読む。この速度が人間的な中庸をたもっているときに、初めて胸襟をひらくのだ。たとえば江代充さんは一般には彫琢を繰り返す詩作者だとおもわれているだろう。ところが江代さんはたとえば散歩体験ののち詩発想がやってきたときは、推敲もせず一気書きしてしまうと述懐していた。そこでも推敲が書くことに内在化されているのだ。石原吉郎にいたっては、まずは自分の詩篇を脳裡に想像して、それを確定させ、やおらそれを紙に転記するだけだったという。記憶できる量しか詩を書かないという自己限定も素晴らしい。これらの逸話は、現代的にあるべき詩作速度が、どんな姿をしているかを伝えているとおもうが、いかがだろうか。
 
 

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2012年05月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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