FC2ブログ

詩大陸への接岸(2) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

詩大陸への接岸(2)のページです。

詩大陸への接岸(2)

(承前)

―― 文章とリズムの相関を考えることが、歌詞・詩のリズムを考えることにつながったということですね。


阿部

そうです。そのときパソコンを購入したことがすごく大きかった。いろいろな相手にたとえばメールを打つ。この作業を日常でつづけてゆくと、リズム意識が躯に昂進して、昂進のまま蓄積し、いわば余剰が出てくるのです。それでしょうがなくなって詩が生まれてくる。あるいはメール文そのものが詩の断片のようなものへと変化してゆく。というのも、詩文のほうが通常文よりも圧縮的、かつ音楽的で面白く、より少ない字数で相手の心をさらうことができるから。だからサーヴィス精神を向上させてゆくと、自然、メール文に詩が混ざってくるのですね。そのときの僕は、不自由な意識を感じることなく、行分け詩を打っていました。

 ただ、それだけでは達成感が不足する。それで、一年か半年に一回くらい、一念発起して、詩のリズムを書き下ろし詩集のかたちで放出させました。いずれも数日間の作業です。そうして『あすは濃からぬ者に…』『壊滅的な私とは誰か』『悲歌の生垣』などをまとめてゆきました。それらは僕のサイトに未刊詩集としてアップされています。『あすは』だけが制作条件が少し異なるかもしれません。これは学生時代に書いた詩を再利用しつつ確定してしまおうという動機もあったからです。


―― これらの未刊詩集を『昨日知った、あらゆる声で』のように実際に刊行しようと動かなかったのはなぜですか。


阿部

 ひとつはおカネがなかった(笑)。もうひとつは自分のオリジナリティへの不信から、完全な不特定多数へ自分の詩をさらけだすのを拒んだんだとおもいます。

 実は、『あすは』の原稿をまとめる前に、福間健二さんにそのころ書き溜めていた詩をみてもらったことがあるんですね。福間さんはエロチックで面白いけど、瀬尾育生さんにも見てもらう、というふうに動いて、結局、瀬尾、福間、阿部で飲んだことがありました。瀬尾さんは、言葉をもっと削ったほうがいい、「68年詩」に似ている、等々の意見で、その意見には僕自身は違う、といいたい気もすこしあったけど、いずれにせよ、自分の詩が読者を魅了しきるものではないのだなとおもいました。福間さんは詩集を出すのは必ずおカネがかかる、ただ「阿部君のヴァリューなら思潮社でも詩集刊行が可能だろう」と予想してくれましたが、当時の僕はヒモの身で、出来に自信を完全にもっている詩集以外は出す気がしませんでした。

 ただ、その前に、一種、詩集めいたものを僕はすでに刊行していました。『AV原論』がそれです。分かち書きに近いような改行が「本文」でところどころになされ、全体の「本文」も、散文詩的な印象をもたれるだろうなとはおもっていました。これは書名どおり、アダルト・ヴィデオを男の欲望の側から属性分けをして、それら諸点を章分けして、原理的に考察したものです。僕は、画像に現れる女の実体ではなく空隙が欲望の対象になっていて、必然的にその中和的な女の現れがメランコリーを組成し、それが利用者のメランコリーへと反射されてゆくという論旨を展開した。

しかも扱われたAVモデルたちは、80年代後半の黄金期における複数をいわば非人称的に抽象化したものでした。本を書いた時点で90年代後半になっていたので、対象は実在ではなく喪失性そのものだったのです。ところが、いくらそのような論旨・対象であっても、やはり扱われている事柄が生臭い。それを消すため、僕は自分の単行本にあっては例外的に詩的な文章で自分の記述を組織しなければならなかった。空隙だらけで流麗感に富む、ある程度難解であっても他人に愛される文章になったとおもいます。

 あの本は関西学院大学出版会という版元、つまり大学出版でした。しかも立ち上がったばかりだった。営業基盤が脆弱なので、本はあまり売れなかった。だから自分の詩的文章がどの程度、評価を得たのか、わからなかった面がつよい。ただし亡くなった映画評論家の石原郁子さんがその美しさを絶賛してくれた。ドイツ文学・メランコリー研究の武村知子さんも、あの本の「本文-解説」の構造を木霊の関係と見抜いてくださり、本が緻密な論理で書かれたものである点を明かしてくれた。アダルト・ヴィデオにたいする欲望を描いた本だったのに、女性のかたが褒めてくれたのがとても嬉しかったんですけど。

 ともあれ、詩大陸に接岸してようとしては逡巡、果ては別の海域に航海に出てしまうということを繰り返しながら、メールを打つうちに詩を書きたくなる衝動がつよまっていったというのが、二年ほど前の僕の姿だったといえるのではないでしょうか。


―― 「二年ほど前」といえば、先生がmixiを開始された時期。そこからまた、先生の詩への考え方が変化する、ということですか。


阿部

 実際、mixiをやりだす前にいろいろ段階的な変化がありました。まずは勤めていた立教大学で少人数の演習授業を任されるようになった。要請としてはクリエイティヴ・ライティングの講座を、ということだったとおもうのですけれども、最初、ライター講座をやってみて、即座にそれが詩の創作講座に変化していった。そちらのほうが面白かったからです。少ない字数で受講者の資質がわかる。技術論ではなく魂の論議ができる。しかも集まったものを一堂に納め、コラボレーションとしてもまとめやすい。言葉そのものの面白さを相互観賞するとエロチックな授業にもなる。それで僕は福間健二さんや、映画監督の瀬々敬久なども巻き込み、詩の各行アタマを「あいうえお・・」と頭韻のかたちで流してゆく「あいうえお唄」の共同創作を、武村さんの文章の一節からまず考えた。これが僕の「改行コンプレックス」を決定的に除去するものとなったとおもいます。

 それから早稲田二文の大教室授業で、「Jポップをアーティスト別にインディもふくめて考える」「60年代~70年代のロック・ジャイアンツを考察する」という講義もやりはじめた。このとき日本語・英語の歌詞を真剣に考えたのも大きかった。あなたなどとも知り合いになり、その歌詞づくりに手を染めだした。これもコラボレーションというものに、一種のユートピックな魅力を感じていたことが背景にあったとおもう。

 それであなたにつよくいわれ、mixiをやりだした。自分の好きなジャンルの文章をmixiでは書けるという嬉しさもありましたが、「書き込み」がユートピックなコラボレーションとして機能している点が僕にはとりわけ魅力と映ったかもしれません。ただ、最初のうちは詩篇そのものをアップすることはあまりなかった。ただ小池昌代さんと同時に立教で特任教授に昇進し、研究室を折半するようになって、詩的な環境が当時、徐々に整備されつつあった。それまでの僕は一介の映画評論家としての活動に限定されていて、出会う詩人も、詩人にして映画評を書くひとだけ――つまり稲川さんや福間さんに、ほぼ付き合いが限られていたのです。

それよりも学生とコラボレーションをすることに魅力を感じていたかもしれない。詩的達成という点では、立教の学生だった明道聡子さんとおこなった連詩、『木霊する場所で』が最も大きかったかもしれませんね。

 mixiで詩を書くようになったのは、久谷雉くんという若手詩人とマイミクになったのがきっかけのひとつだったかもしれない。その前、僕は杉本真維子の朝日新聞に発表された詩篇について絶賛記事を書いていて、それで久谷くんが僕にマイミクを申請してきたのだとおもう。むろん久谷くんは映画評論家としての僕も認知していた。その久谷くんが司会をした女性詩人の朗読会にあなたと出席し、一挙に僕は数多くの詩人とまず知り合いになる。当該の杉本真維子さん、その年、「詩手帖」で詩書月評をやっていた森川雅美さん…

 自分の詩をよく読んでくれる人が周囲にできた、ということで、僕はmixiで休筆宣言をしていた時期に、例外的に詩篇を発表していった。


―― それらがのち、『昨日知った、あらゆる声で』に収録される詩篇ですね。


阿部

 はい。森川さんほか、限定されたマイミクが僕の詩篇アップを応援してくれました。これが精神的には大きかったのかもしれませんね。


―― このころの詩篇は、以前の自作と較べ、どのような変化があったと自覚されていますか。


阿部

その前、前言した明道さんとの連詩の作成で自分のなかの何かが弾けた、という気がありました。すごく自由に詩が書けだしたという自覚。まず、「聯」の意識によって、書こうとした詩世界を分割し、分割を配剤することで複雑な効果がもたらされるという方法確認をしたのです。それは詩に自分の日常を盛り込むという約束から生じた付帯効果でした。それで詩が多様な単位の細部によってコラージュされるのだけど、一方、一行一行の流れには、流麗感や可読性がほしい。それがすごく自在にできるようになったのです。福間健二さんが『詩は生きている』で扱った詩人、とりわけ西中行久さんの影響も大きく、そこからは瀬尾さんが以前に指摘された「切断」ということがすでに学ばれていた。

 自分ながら得心したのは、詩の細部をコラージュにしつつ全体を「流す」という感覚のなかで、その細部の詩想は以前に体験した短詩系文学の「塊」ではなく「詩想のほぐし」のようなかたちで再出現をみる、ということでした。書いてみて気づく――たとえば自分にとって岡井隆さんの影響がこれほど大きかったのかと。短詩系発想を「最小核」にして、詩篇のなかに配備することで、詩行が自在な運びへともちこめる。喩といってもいいのだけど、詩のディテールの連絡も自由に組織できる、と気づき、西脇順三郎の詩法に近づけたような気がしました。むろん西脇には音韻という、さらなる検討事項もあるのですが。

 僕の代表的な北野武論のひとつに、『日本映画は存在する』に収録されている「鬱王の長旅」という文章があります。この「鬱王」が何かの詩的出典をもっていることを、この原稿を執筆した当時の僕はまったく失念していました。実は影響元は僕が尊敬してやまない現代俳句の赤尾兜子の代表句だったのです。《大雷雨鬱王と合ふあさの夢》。どうです、すごい句でしょう。「鬱王」は赤尾兜子の造語として、現代俳句界では広く認知されているとおもいますが、僕はまったく失念していて、自注を忘れました。このように記憶力の悪い僕ですが、短詩型文学の「核」は、ロラン・バルトのいうプンクトゥムのように全身にちくちくと溶けこんでいるのです。

 実はあなたの歌の歌詞の制作でも同じ原理が働いている。この場合の影響元は和洋の歌詞も多い。映画なんかもあるけど。ただしこちらのほうは「歌詞」なので、可聴性の判断という別次元も動いている。だから一見すると気づかれにくいのだけど、自分としては詩作と作詞に弁別をもうけているつもりがないのです。

 このような前段階があって、07年の冬から春にかけ、『昨日知った、あらゆる声で』収録詩篇を間歇的にmixiへアップしてゆきました。喩を解いてゆくとかなり複雑な次第となるとはおもうのですが、相変わらず、躯のリズムを動力にしての速書きです。


―― 森川さんは批評用語までふくめた硬い漢語が駆使されているのに、詩の文脈が柔らかくて新鮮、ということをおっしゃってましたね。


阿部

森川さんはいい意味での詩壇的感性をもっているかただから、いまの詩壇詩にないものにするどく反応したのだとおもいます。僕の漢字は、いかめしさを演出するためではなく、漢字の字意を露出しながら、世界を空間的に圧縮する道具としてつかわれています。漢字を多用する気分のときと、漢字を忌避する気分のときが、割合単純に、交互に来る、という自覚ももっています。そしてそれが、自分が同じような詩を量産しないための歯止めともなっている。だから漢字使用がすごい、と褒められると、少し面映い感覚もありました。

 それよりも詩行を書く速度によって、詩行同士がスパークしながら、詩行そのものはその連絡が単純な加算性に負っていない、その点で連句が参照されている、というのが指摘として大切ではないかとおもいます。付け句のような詩行加算、向かい句のような詩行加算、見立て替え、飛躍・・・これらはたぶん、膠着的に書いていると出てこない詩的着眼で、それが漢語の負荷の高い使用と相俟ったとき、語的飛躍・行的飛躍だけが印象されて、僕の詩が60年代詩や70年代詩と似ているという、印象が書き込み欄に飛び交ったのだとおもいます。

ただたとえば「68年詩」なら言葉は変革の熱い道具として過信されていて、だから詩的沸騰を自明に正、と捉える趣があったとおもう。それで、「飛躍」も語的信頼の硬い枠組に守られていた。僕は、ちがう。飛躍をしているつもりがないのです。僕がやっていることは「運び」。それで、僕は最終行をどう書くか、どう書かれ(てしまう)か、ということに詩作時の神経をひたすら集中させていた。

それと森川さんが見抜けなかったのは、前言したように、詩行細部の核に「短詩系発想」の粟立ちがあるということです。それが詩行全体をもちあげて駆動させていた。そして各フレーズは時空を挟んで連動し、その連動の内部分割がなおかつ、詩の流れ行く肉体をつくりあげていたということです。『もののけ姫』のデイダラボッチのような詩的身体。その最もプリミティヴなかたちが明道さんとの連詩『木霊する場所で』にあったので、そこへの注意を喚起すればよかったのかもしれません。

 もう一個、『昨日知った、あらゆる声で』収録詩篇を特徴づけるのは、幾何学形への志向だとおもいます。大した幾何学形ではありませんが、聯の行数を揃え、行アキで聯を連鎖してゆくという方法をすべてとりました。これは横組で頁概念なし、ただ下へスクロールされてゆくだけのmixi画面の特性を考えてのことでした。「記憶単位」をそのようにしてつくることで、愛唱性をもたらそうともしたのです。ただ僕は、愛唱性を大事だとはおもうけれども、それを詩の第一義として単純に考えることはありません。僕は、石田瑞穂の詩だって、藤原安紀子の詩だって、大好きなのです。

 あと、『昨日知った、あらゆる声で』収録詩篇では自分の感情的な定位が以前の詩とはまったく別物となりました。中年になって、老いの自覚が出てきたこと、「幼年回想」などを普遍的行為としてもいいこと――これらの年齢的「保証」は、詩を書くいとなみをすごく楽なもの、同時に甘美なものにしたのです。若年に書いていた詩のように、限定一者として詩を書く気負いなどとうに消え、多数者のうちの一人として自分の「当たり前」を詩に変容できるようにもなった。これが詩に余計な荷を負わさない歯止めとなっていたとおもいます。

 詩大陸への帰還は、勝者がすることなのか、敗者がすることなのか。若い詩的才能が自己にたいする勝者として詩を書き始めるというのが、詩のすべての大前提です。とするなら――僕のような年齢の者が曲折あって詩作を再開するというのは、「弱さ」から来た営為以外の、何ものでもない。ところがその「弱さ」こそが共有されなければならない。それはmixiの媒体特質にも見合ったことでした。だから僕の今度の詩集は、完全にネット詩集、ブログ詩集として遇されてよい――そのように自覚しているんですよ。


―― 先生はやがて、そのようにしてmixiに発表された詩篇を編まれて、それを小池昌代さんにお見せになる。


阿部

面白いよ、これー、詩集としてぜひ出しなよー、といわれました。ただし、長すぎる詩篇もある、収録詩篇数も多い、と指摘を受け、一日で僕は直してしまった。小池さんの指示どおりに直したのです。ズバッと切った。「全体を七割にしたほうがいい」「要らない」「ほぼこの長さでいい」というように小池さんが感覚でいった言葉をすべてメモしていて、そのとおりに切ったのです。小池さんは読者の間口の広いひとだから、そのひとの感覚にすべて従ったら自分の読者が増えるという気持もありました。ただそれよりもむろん、小池さんの視界が澄んでいる点を信頼していた。そうしたら吃驚しました。小池さんのいう比率どおり詩篇に無駄があった。だから一日で簡単に切れてしまったのです。なんと勘のいいひとだろう、とおもいました。

 むろん、このように後ろ髪を引かれることもなく自分の詩篇を切れたのは、さきほどいった自分の詩篇に滲み出ている「弱さ」に関連しています。自立性がもともと弱いということでもある。だから余分な手足がスパスパ切れる。切ってみると、たとえば詩が歪形になるかもしれない。なったって、それが弱さの美しさにつながってゆく。ともあれ小池さんの助言に従ったことで、詩集は五割がた、魅力が上昇したという気が僕にはあり、大変に感謝しているのです。


―― さきほど「連詩」の話が出ましたが、先生は森川雅美さんと「共謀」なさって、小池昌代さん、杉本真維子さん、久谷雉さん、黒瀬珂瀾さんから、末席に明道さんやわたしまでふくめた総勢12人のネット連詩を構想なさる。それは詩の共同性を考えてのことですね。同時に、それと平行するようにして、同じ運びの規則による一人連詩『大玉』の連載を、さらには一篇十行でひとつの動詞の実体に迫るという規則をもつ16章(一章の詩が同音の五動詞で構成されている)80篇の連作『動詩』を、それぞれ完成なさる。


阿部

 連詩の法則は明道聡子さんとやった『木霊する場所で』と同じですね。現実を盛り込む、前詩の語句やフレーズを部分的に反復して受け、前詩の発想をズラす、行アキをふくまず数えて、トータル30行を厳守する、というもの。ただ、『大玉』『動詩』の詳しい話は別の機会に、ということにしましょう。

 mixi上での詩作者との付き合いでとくにいっておきたいのが、廿楽順治さん、田中宏輔さんのことです。廿楽さんは、12人連詩のメンバー松本秀文くんが同人所属誌『ウルトラ』を送ってきてくれて初めて知りました。本当に不勉強だった。その後、連詩の会合のとき、この廿楽順治というのはすごい才能だ、と僕がふと褒めた。そしたら同席していた久谷くんが「改行屋廿楽商店」のハンドルネームでmixiをやってますよ、という。調べてみると、もう僕のmixiにその名前の「あしあと」が付いている。即座にマイミク申請しました。

 廿楽さんは僕より二つ下だからほぼ同世代といっていい。マイナーポエットに親しむ感性が素晴らしい。廿楽さんは当時、自作の詩と一緒に、自分が昔感銘を受けた詩篇を転記打ちして、そこに若干の解説を加えるという連載をmixiでしていて、僕は中心的な詩壇ばかりに眼が行っていた自分の不明を恥じることになった。たとえば貞久秀紀さんとか広部英一さんとかを廿楽さんはフィーチュアした。女性詩人でも川田絢音さんや日和聡子さんなど、僕が読まずにきた書き手に言及していた。廿楽さん自身は松下育男さんをリスペクトして貞久さんに限りない畏怖を覚えるという独特のポジションで、松下・貞久のもつ怖いような人世哲学のうえに、独特のやくざな改行を駆使する、一見「小さな」――そのくせ「深く怖い」詩を書く。僕は廿楽さんの紹介する詩篇に耳目を開かれ、同時に廿楽さん自身の詩にも圧倒されて、励まされるようなかたちで『大玉』を書き進めていきました。こういう出会いによって、mixiがその最良の部分では詩に開放されているという感慨を得ることになります。この廿楽さん一人との出会いによって、さらに飛躍的に詩作者との付き合いが広がってもゆきました。

 もうひとりの田中宏輔さんは僕の三つ下ですけど、『みんなきみのことが好きだった。』『Forest。』の二詩集で僕がずっとその学識と自在な精神と、詩の構築力に畏怖していたひとです。あしあとをつけてくれてマイミクになりました。彼の書く日記がまた独特で、面白く、廿楽さん同様によく書き込みをしていた。瞬時の記述に、哲学的スパークがあって、何かを書かされてしまうのです。そして彼とは「空間」についての考えをやりとりすることになり、いつの間にか僕の『大玉』に廿楽さん同様、「登場」してしまう。それで『大玉』完成の暁には、宏輔さんが全36篇を、一篇ごとに解説する連載を敢行し、それを完成させてしまった。

 ともあれ、mixi上での現在の詩作者たちとの付き合いを語りだすとキリがなくなるのだけど、mixiが詩のホットポイントになっているのは確かです。ネット詩無視という詩壇の悪弊は、自己の権益を守るためのものにすぎないのは自明でしょうけど、それはもうこうした勢いにより、足許から崩れ始めているのです。


―― 先生は貞久秀紀さんの詩篇「夢」(『空気集め』所収)を俎上にして、廿楽さんたちと改行原則の議論を展開なさいましたね。あれもすごく印象に残っています。


阿部

そう、それで最初の話題に戻ることができます(笑)。そのとき交わした議論の結論だけをいうと、改行原則とは、「呼吸=身体性の顕現」「景の転換」「反復」「多様性」「空間性の確定」「サーヴィス」などから複合的につくられるものだということです。とりわけ改行によって、リズムがはっきりと現れ、そのリズムが読者の躯に打ち込まれる。だからそれは最大の同調材料というか同調箇所なのです。そこに「語調」が登場する。

それに僕はたぶん連句原則を考えている。自由律無季俳句のような詩行が、連句の付け合いのように並んでゆくようなもの。僕の詩の改行でいうと、その傾向は『昨日知った、あらゆる声で』と『大玉』にとくにつよいですね。

最近、現代詩の「改行」を無意識の産物と糾弾する風潮が起こっていますが、とんでもない誤りです。「改行」にずっと懐疑を覚えていて、ようやく改行の呼吸を体感したこの僕がいうのだから、間違いありません(笑)。口語自由詩は改行こそがポイントなのです。次が「助詞」。それらが実はリズムと脱臼にみちた世界観をつくりあげる。ともあれ自分で納得のゆく改行が可能になって、僕も詩集を公にすることができるようになった――そう換言してもいいです。

僕も廿楽さんと同様、「改行の達人」になりたいとはおもう。あのひとの改行には殺気がある。それとあのひとの詩は各行が多様性によって組織されていて、それが行末語尾の口語助詞の展覧にも現れてくる。ただ、「聯」を廿楽さんは使わない。いっぽう僕の詩の本質はきっと「弱さ」だとおもいます。廿楽さんと同じオヤジ詩、人世派だろうけども。で、僕の改行のおおむねには「唄う」意識がよりつよいかもしれない。まあ、僕の大切な出自のひとつが音楽だから、そうなるのでしょうね。

スポンサーサイト



2008年01月08日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する