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加藤郁乎追悼 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

加藤郁乎追悼のページです。

加藤郁乎追悼

 
 
加藤郁乎が亡くなった。83歳。聖三角形をなした澁澤龍彦も土方巽も同年代だったから、みな生きていればそんな年頃だったのだな、ともおもう。その加藤郁乎はぼくの大学時代の偶像だった。澁澤よりもそうだ。土方ならば死後、郁乎よりも偶像になった。

郁乎が絢爛たる才能に輝いていた天才肌だったのは否めない。『球体感覚』『えくとぷらすま』たった二冊で、高柳重信ら前衛俳句の面々と丁々発止の均衡を演じていて、通行手形がすくなすぎるともおもったが、どこまで知見がひそむかわからせない不良型の「知的ハッタリ」が爽やかだった。『膣内楽』などは日本語で成立しうる唯一のシュルレアリスム小説だったのではないか(ほかに平岡正明の『皇帝円舞曲』もあるが)。修辞と思考と引用のスピードに酔いしれながら、知的な笑いがとまらなかった。

当時、郁乎はTV局につとめていて、蟄居をこととした晩年とちがい、日々の行動力があった。新宿の飲み屋での、映画人までも対象とした大喧嘩の武勇伝など数知れず。それに一穂、足穂、西脇などとの神話的交流が伏流していたのだから、たしかに文化英雄だった。それが朋友・土方、澁澤の80年代後半の相次ぐ死が転機になって、たぶん戦時期石川淳のように以後「江戸に亡命」してしまう。

彼の書く本は「偏屈」になる。罵倒対象を明示していたころはよかったが、論じるに値しないものが数々の欠落をつくる。半可通が理路を得ることができない。つまり名文なのだが、「野暮」「いわずもがな」を取り去った高濃度(それでも見事な音韻感覚だった)は、いわば知るひとのみへの目配せを刻々投げて、読者の多くには排除的に映ったとおもう(たとえばフッと永田耕衣の俳味的・禅味的俳句観が、まがいものと否定されていたりする)。『坐職の読むや』『俳の山なみ』、貫流している郁乎の美意識に納得しながら、窮屈も感じた。

加藤郁乎の詩的想像の型は瞬間的結晶化だったのではないか。松山俊太郎の『球体感覚御開帳』の解釈も有名だが、たとえば『球体感覚』の一句、《桃青む木の隊商の木をゆけり》は桃青(芭蕉)の句的行脚総体を、「木=季」の二重写しのなかに凝縮し、「木」の二重使用によって脱像化した偉業と、「凝縮的に」約言できてしまう。地口、ダブルミーニングの数々まで動員されてもいるが、『球体感覚』は一種の「反復」が、「時間」そのもののもつ大きさと切り結んでいたのではなかったか。郁乎の詩は結晶性を詩行がつくってしまうゆえに、西脇のようには流れなかったが、『球体感覚』では一句内が、句間がながれていた。

反復の例――《考ふる手に侘助の手がふれる》《天文や大食〔タージ〕の天の鷹を馴らし》。あるいは句間反復ならば《六月の馬上にのこる鞭の音》《栗の花馬上にのこる決闘や》。「この」「かの」の斡旋も、郁乎の独自境だったかもしれない。《海市この頬杖くゞるおもかげや》《象牙かの高まる滝の反性や》。

『えくとぷらすま』収録の作品を俳句と呼ぶべきかわからない。モダニズムの一行詩に通じるものがあるからだが、郁乎節はやたらかっこいい。ならば、作品ジャンルや範疇も度外視していいだろう。ここからは二作(句)。《遺書にして艶文、王位継承その他なし》《三位一体とは女に向けた遊牧感であらう》。掲出の一つ目は加藤郁乎の「生」そのものへと拡がるうごきがある。

『後方見聞録』『旗の台管見』といった雑文集の類にはいる交友録、書評集は愉しんだが、『江戸の風流人』正・続あたりを皮切りに、郁乎はぐんぐん「江戸の奥処」にわけいってゆく。相手が平賀源内なら読めるが、徐々に書誌もたしかでない風流人へと視界が移ると、読解が遅滞してゆく。しかも作句も排除的に江戸回帰していったとき、例の「目配せ」あるいは「目利き」の問題が現れて、加藤郁乎にふれることが急に重くなった。むろんそれは読むこちらの教養不足がもたらしたものにすぎない。しかしこのあたりの郁乎には、精査してゆくと、「わかった」うえで慄然とする異様句がやはりある。忘れられないのは『微句抄』の巻頭句、《かげろふを二階にはこび女とす》。

江戸回帰した郁乎の句、その勘どころがわからないというのは、くりかえすが読む者の怠慢にすぎないだろう。郁乎はたぶん焦れていた、文弱軽薄のなんと横行することよと。それで砂子屋書房の『加藤郁乎句集』や『俳の山なみ』には自註自解が組み込まれている。かつてなら松山俊太郎が代理したことを自分でやらなくてはならなくなった郁乎。それが凄愴かといえば、じつは彼の自註自解がおもしろいから、また厄介なのだった。
 
 

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2012年05月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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