女の子映画
風邪で休養しているあいだ、来週からはじまるリレー講義の準備で、ある時期の邦画を細々とチェックしていた。佐藤淳二さんの第一部、応雄さんの第三部の中間にあたる、第二部計5回がぼくの担当。佐藤さんはヒッチコック、応さんはキン・フーその他がテーマなのだが、中間のぼくは、全体を正反合のながれとするべく、作家ではなく「ジャンル」を論じるつもりでいる。それが「女の子映画」なのだった。
日本映画ではヤクザ実録物以降、明確に現れた「ジャンル」はJホラーだけといえるかもしれない。ポストヤクザ映画も、「人の生死を賭け金にした感動感涙映画」もジャンルとしては覚束ない。なかでJホラーだけが突出したのは、心霊写真や投稿心霊ビデオのどんな類型が怖いのか、いわば映像社会学的な検証がジャンル成立を下支えしていたからかもしれない。
私見では「女の子映画」も映像社会学的な裏打ち材料をもっていた。じつは90年代中盤、雑誌「スタジオ・ヴォイス」が点火した「女の子写真」ブームがあった。Hiromix、長島有里枝、川内倫子… カメラ機器の簡便化・軽量化によって、「女子のリアル」に典拠した「日常」がメディアの支えをうけて撮られ、幾人かの女子写真家の作品がひろく共感を博していったのだった。
この「女の子写真」の特徴は、それに後続する「ち●かめ写真」とおなじだ。こうなる--①「女子→女子」のヴェクトルをもつ同属回帰性(この極点がセルフヌード)。②内在的・自体的(「女の子」的なものはそこで外部に晒されず、うちに「潜み」「自足して」いる)。③不如意(バブル崩壊後、という指標)。④偶有的=日常的=「現実」のかけらが散乱している(「空」の写真/料理の写真/友だちの写真)。⑤「かわいそう」につうじる「かわいらしさ」の創造的発見(男性的・欲望的なグラビア写真が度外視してきたもの)。⑥触覚性(窃視的欲望の不在は対象全体の肯定に一挙に向かうことで対象のもつ視覚性を触覚へと転位する=それはいわば「時空への接吻」ともいえ、接吻瞑目時の網膜結像のような親和性をもつ)。
この「女の子写真」の、映画への隔世的な「飛び火」こそが「女の子映画」だったのではないか。その極点となるのが、A廣木隆一『ガールフレンド』、B安藤尋『ココロとカラダ』、C風間志織『せかいのおわり』の三作だとおもう。上記「女の子写真」との共通項をそれぞれもちながら、それぞれのあいだに部分的な共通項がさらにある。AB=カメラマン鈴木一博の共通。AC=脚本家・及川章太郎と俳優・渋川清彦と英語題名の共通(Aは『Girlfriend:someone please stop the world』、Cは『World's end : Girlfriend』)。
ともあれ「うまくいかない女の子たち」が、それでも自分が身体をもっている点に肯定的な価値を見出すストーリーラインを、それぞれの作品がおおきな意味でもちながら(『ココロとカラダ』はアプローチが陰画的になる)、彼女たちの平凡な「日常性」がときにドキュメンタリータッチといえるほどに転写され、かつ画面全体の内密性がそのまま「女性性」を指標するような選択がおこなわれていた。しかも「女子」の真実に行きつくために、どの作品でも男女の性愛が中心化しない。男性が性愛の対象にのぼりつめても、それはストーリーの口実だった。あるいは男性はそこで女性化を蒙り、それでヒロインとの同属連続を形成した。代わりに特権化される趣のあったのが、のちにしるす作品もそうだが、「接吻」もしくは性交内接吻だった。それらがまさに「女の子」たちの世界観の結実だったはずだ。
廣木『ガールフレンド』は「女の子が女の子を撮る」という「女の子写真」的な設定をそのまま話の主軸にしていた。山田キヌヲの撮った河井青葉の写真は撮影の刻々、その現像形で画面挿入されることはない。だからこそ鈴木一博の刻々の映像が、山田キヌヲの写真を内密化していた。『ガールフレンド』は、些細な相互達成感が自殺念慮とつうじてしまう不思議さを語り、持ち前の生のよわさにたいし至福の瞬間に地球がとまってしまえばいい、というじつは逆転的で不穏な願望を女子たちに語らせた。風間『せかいのおわり』は「穴」のテーマ反復のあと、「死んだ穴」(アイスクリームに汚染された水槽)が底から青空を見上げることのできる「生きた穴」に転位して、「世界の終わりは眠く、その時間を共有できるものが《友だち》だ」という、これまた捉えようによっては危険な思想が結論となった。女子→女子の再帰性は風間志織が中村麻美を撮っているという図式のほか、中村麻美の少女性と渋川清彦が隠しもつ少女性が相互反射的な細部に出現していた。
このジャンルはたぶん、「女の子写真」が女の子たちに受け入れられたようには受け入れられなかった。たぶん宣伝が通じなかったのだ。それと、鈴木一博をカメラマンに起用したその後の大谷健太郎『NANA』が、女子ふたりの主役から相互反射性を期待させながら、原作マンガを改変できず、「リアル=日常」と「内密性」を欠いた、男の映画になって、ジャンル定着の腰を折ったことも大きいだろう。
だが試用期間を試されていないのだから、このジャンルはまだ生きてもいないと同時に、死にもしていない。それでついこのあいだ、隔世遺伝的に吉田良子『惑星のかけら』が「女の子映画」の最新の更新として登場する。ジャンル意識も明確。それで俳優には渋川清彦のほか河井青葉も起用されていた(というか、河井についてはもともとその女優キャリアを促したのが吉田の『ともしび』だった--私見ではこの作品は近似的「女の子映画」に属する、とおもう)。
「女の子映画」の導線となったものは何か。そうかんがえて思い当ったのが田尻裕司『OLの●汁』だった。その現実砕片性は、主演佐藤幹雄の感性と発語の「美大系ぶり」を武田浩介の脚本が完全転写していることからもわかる。では「女子的内密性」はどこにあるのか。まずはヒロイン久保田あづみのナレーション、つまり「女声」が作品時間を刺繍している。そのほか、作品では久保田の内密感覚が「拡張」され、久保田の視覚に映った佐藤幹雄が画面の客観として「そのまま」転位されているという、のちの『ガールフレンド』に通じる交錯も起こっている。そのうえで美大生役・佐藤幹雄の撮る写真が、まさに彼の女子性を補強するように「女の子写真」なのだった。
ピンク映画がこれほど文化論的にリアルな昇華をみせたのは稀有だ。よってこの作品は99年の公開直後から絶賛を受けたが、当時、「女の子映画」のジャンル勃興可能性とむすびつけることは、ぼく自身をふくめ誰にもできなかった。
このほか、「女の子映画」としてイメージするものには、安藤尋監督『blue』(魚喃キリコ原作)、井口奈己監督『犬猫』(とくにその8ミリ版)があるが、まだ細部再検証にはいたっていない。また廣木隆一の新作『River』は中村麻美出演と撮影行為、という女の子映画の材料はあるが、ヒロインとその相手役の類型が「女の子映画」とは径庭があるとおもう。