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白井明大・島ぬ恋 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

白井明大・島ぬ恋のページです。

白井明大・島ぬ恋

 
 
白井明大の新詩集『島ぬ恋』は活字で組まれ、フランス装となっている。紙面にふれれば印刷された文字の物質感がゆたかで、同時に、ペーパーナイフで頁の上端を切ってゆく過程は、そのまま詩篇をゆっくりと読ませながら、即座の再読をもうながす。そうなるととうぜん詩篇も一瞥了解性からはなれ、相応の時空、その奥行をもたなければならないが、その要請に応える詩篇が見事に列んでいる。

江代充、貞久秀紀の「語調」を髣髴させる詩篇が目立つことはじつは何の問題でもない。白井の「語調」は先達の詩性認識との共通性に、自作をも「さしいれる」、それじたいは謙譲の行為だからだ。つまり先達へのオマージュではなく、詩性の「束」を、自作をも介在させて強化する思考そのものが、白井の(メタ的な)詩作モチベーションになっているということだ。むろん彼のモチベーションは、まずは「体験」からみちびかれている。

くりかえすが、彼がおこなうのはパスティーシュではない。先達の「語調」には白井特有の、どこかsweetnessを感覚させる文法破壊が多くとけこんで、一定位が即座に別定位になるズレの動性が仕掛けられている。とりわけぼくがおもしろいな、とおもったのは、「助詞」が一定座に二重使用されることでうまれる、独創的な像と韻きのブレだった。なにが独創的かといえば、重複があるのに吃音性が排されている点ではないだろうか。それは発語が充分に再帰抹殺されて、像が脱像化し、同時にそこに音韻が代位する、ことばのわたりによってこそ保証されている。

まず、助詞の斡旋ではなく、白井のことばのわたりそのものの静かでうつくしい異常を、以下をみることでかんがえてみよう。

みつめていると
手にふれるとおりに
しろい砂浜が
みちひきのあかるさを
すがたとなって
あらわれる
(「すがた」最終聯)

通常なら《みつめていると/しろい砂浜が/あらわれる》という構文が発想されるべきところ、①《手にふれるとおりに》と②《みちひきのあかるさを/すがたとなって》が「過剰」挿入されている。「過剰」なのに煩雑さがない点を銘記したうえで、②では、視覚的浮上はかならず形姿をともなうのが自明だとすれば、自明性が再帰的に挿入されていることになる。ところがその視覚性はあらかじめ①によって触覚性に転位されている。このとき、現れているのは砂浜の物質的与件というよりも、砂浜の領分、その境目性そのものではないかと、読者は判断の方向性をずらし、その境目の物質性なき物質性の、量感に打たれることになる。

くわえて、白井が現出させている砂浜の光景とは「そのもの」でなく、白井との関係性によって「すがた」をあらわした、白井だけの内密的な真実だという判断も付帯する。ではここで最もうつくしいものは何か。じつはそれが語の物質性の極点なのだ。具体的にいうなら、掲出中の一行、《みちひきのあかるさを》のなかの「を」がそれだ。この「を」は構文中の帰属先を探して不安定にゆれている。その「ゆれ」そのものがそれ自身の帰属先だと見とったとき、再帰性による詩作は、極点こそをゆたかにするという見解がうまれる。

それにしても詩集最後におさめられた「この世に半分の身をあけて」の素晴らしさはただことではない。引用しようにも、その浮力をあたえられた措辞が、二、三行の各聯の連用つなぎによってどこも割愛できず、「不足」がそのまま「全体」だということがどういう厳しさなのかをおもいしらされる。動員されているのは再帰性と脱像化と音韻、そしてそれらをつなぐ、ことばの張力そのものの一種の「思い」だ。つまりこの詩を割愛引用することは、そのまま蹂躙や抹殺を結果させてしまう。それでも読者の実地検分をうながすため、あえて省略を介して詩を引用してみよう。



あかねの薄い羽ほどの
往き来のみちに身をさしいれて
入っていけるむこうがあり

〔…〕

すすきの透きとおりそよめく茅に
指をとめ

指がふれさしぶれるだけ
あいだになれと思いなしたら

〔…〕

〔…〕

胸の めぐりのあたたかさに
なくなっているあるひとと向かいあう

この世に置く身の同じここで
かげかたち ひとを
見なすことなく ともにあるたわまりに

すすぐ水ほどの流れをあけて
往き来のみちをあちらこちらもへ



文法破壊あるいは通常文法への負荷によって、あやうく全体破裂へといたりそうになるところを、おしとどめているのは、ここでもことばのわたりの静かな相互張力だった。「そよめき」「たわまり」といったぎりぎりで成立する和語だけでなく、「あいだになれ」といった自分への呼びかけそのものが不安定ゆえの驚きをつつみかくしている。これが全体の設定基準になって、最終行、「も」という助詞の過剰斡旋を、そのまま「うつくしさ」ととらえる感覚の転位が起こるのではないか。読めば読むほど、ことばの対象化と脱対象化が同時につのるこの詩篇は、ひとつの奇観だとおもう。そしてこのときやはり「往き来」そのものの、「領分、その境目性」がいわば不可能な物質性として浮上してくる。これもまた白井と世界の関係性がなければありえなかった浮上だろう。

引用二行目の「さしいれて」のさみしさ・うつくしさには息をのまなければならない。ぼくは赤尾兜子の次の名吟を想起した――《さしいれて手足つめたき花野かな》。
 
 

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2012年05月29日 日記 トラックバック(1) コメント(0)












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