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メモ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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メモ

 
 
詩作においては、ことばの自由よりも、思考、哲学、規定の自由を確保するほうが、ぼくにとっては先決で、その場合の与件は何かとおもいわずらうこともある。たとえば固有の領域をたえず対象化してゆくことは固着に行きついて、論法までもがそこで自己目的化されてしまうことが多い。それは自由ではない。となると対象化は、疎隔化した自らへの空間的な解決として、他力的にあらわれてくるほかないのではないか。このとき自分の埒と周囲の埒とに、逸脱のもたらす親和性が生じている。

樹をうたわない詩は、世界をみていない。樹の外観をうたう詩は、世界の視覚構造にはつうじている。樹の内側を想像する詩は、樹はおろか詩作者自身の構造にまで浸潤している。こうかんがえていつもおもいだすのが、偶然のヴィトゲンシュタインともいうべき、まど・みちおの「りんご」だったりする。

散文形で詩を書くとき、詩の外観は改行形と異なり、単純には保証されない。内実的にとくに怖いのは箴言とつうじてしまう点だ。ところが箴言には警句固有の圧縮と性急さがあって、言い足りないことは余白で反転され、このとき機知が自他双方で同調する仕掛けがつねにまもられている。この点をとらえると、箴言それ自体にあるのは自他を確保してしまう限界的論理性ということになり、しかもそれが論理性であるかぎり箴言は変格であっても「文章」にすぎない。

いっぽう詩は、対象と作者の浸潤を前提にして、論脈、詩空間上の隣接性、書き手-読み手間、それらそれぞれの浸潤へと移行してゆく。つまりは「移行そのものが浸潤である」ような特質が詩の保証ということだ。それは移行であって定着ではないから、箴言には似ない。そのものは時空上にのびてくる脅威=驚異で、むろん音声と視覚、双方の物質性からなっている。ところが物質性だけを前面化すると、じつは思考、規定の自由が表面的に相殺されてしまうダブルバインドがある。静謐にむけて脅威を親密化することによって、「認識→ことば」という驚きの順序がまもられることが肝要ではないか。まど・みちお「りんご」はそれも実現している。
 
 

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2012年06月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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