広瀬大志・ぬきてらしる
広瀬大志さんからご恵贈いただいた『ぬきてらしる』がすごくおもしろかった。一気読みした。場所にたいしても時間にたいしても、想像力が自在に往還してゆく、不思議で全体的なこの「物語」の回帰原点は、1862年アメリカからイギリスに航海したトウモロコシ貨物のなかから、推定約40億匹の穀象虫が発見されたという「史実」だ。穀物の一粒一粒に産卵され増殖してゆくこの微細な害虫は、吻管が象の鼻に似ていることからその名があるという。
ここから1862年に、穀象虫のように生まれた東西の人物が蒐集される。森鴎外、クロード・ドビュッシー、クリムト、メーテルリンク、そしておそるべき符合は、イギリス世紀末で恐怖と好奇の対象となったジョン〔ジョセフ〕・メリック、つまりあの「象人間=エレファント・マン」も1862年生で、ここで穀象虫とメリックの「象」的形象が合致してしまう、ということだ。広瀬は自分の外貌が内部とみなされたメリックの悲痛な述懐、「ここがそこで、これがそれなのか」を何度も引く。このときまずは外部が内部になったのだ。
1862年にはアメリカで南北戦争、中国(清)では太平天国の乱の戦火が熾烈で、日本では寺田屋事件、生麦事件が勃発、壊滅的にコレラが蔓延した。イギリスではアリス・リデルにドジソンが、やがて「意味」をカバン語などで別天地に拉しさってしまう『不思議の国のアリス』を語りだしていた。ウィキペディアにないことをあえてしるすと、ボードレールが『赤裸の心』で自分が梅毒で発狂してしまうと恐怖した年が1862年だった。つまり最初の近代が次の近代に橋渡しされる時期だったということ。このとき「内部」を食い破ってゆくことで「内部」「外部」の弁別を崩壊させてしまう穀象虫が、コレラや戦火や近代化とともに猖獗したということができる。
ちょうどバタフライ効果のように因果性が全事象を縫いつけてゆく。しかも時間軸が圧縮され、すべてが同時性として生起するようなゆがみも志向される。むろん「虚構」が暴力的な推進力となるのを広瀬は知っている。それで事実提示的一文の文尾に「(かもしれない)」という奇怪な接尾辞がやがて律儀に補われるようになる。虚/実の分離を読者に促すのではなく、「虚実」まるごとを「実」とし「虚」としろ、という異様な指令が出されているようだ。
本書のタイトルにある「ぬきてら」とは何か。のちの小泉八雲が『怪談』の一篇に入れようとして入れなかった恐怖譚だったという「虚言」が打ち出される。けれど八雲自身、稲を襲った穀象虫をやがて人々が稲よりも嗜好し怪物化=(穀)象化していったというその民話を、自分がどこから知ったか記憶していない。このあたりで異様なことに、最初だれとも明かされない「私」が記述に介入してくる。八雲の命を受け、1862年、歌舞伎で当たり演目を連発していた江戸の河竹黙阿弥のもとへ「私」は遡行する。そこで、八雲の知った話の原型を黙阿弥も知っている事実が判明するが、それでも物語の名、「ぬきてら」の意味がわからない。それはドジソン、=ルイス・キャロルが夢見たような非意味、脱意味のなかにある、おそろしい整然なのか。
最終的に「ぬきてら」の意味は、広瀬自身の出自と連関されて(むろん本当かどうかなどわからない)突きとめられる。ただし真実への的中など、この物語全体にとって、「何の意味もない」。「分散」であったものが「内破」を契機に「同時化」を印象させることで「空間緊密化」を「虚実をこえて」もたらしてしまう「物語の魔力」だけが、ここでの問題になっているのだった。つまりもともと「物語」は語られたことの定着のまえに、分裂を内包し、それこそが逆に一種の「定着子」になるという矛盾を抱えている。だからここでの広瀬の文体も、物語以外に詩文や評論文などを「同時」内包しているのだといえる。
この『ぬきてらしる』はなにか。小説ではない。詩でもない。評論でもない――つまり、それらの「ない」が綜合されたものとして「あるだけだ」。あるいは文を書くことそれじたいの想像力として「あるだけだ」。その唯一性をもつ身ぶりゆえに、奇妙な「物語」の刻々がさらに躍動化している。なんという収穫だろう。だがその収穫のなかを穀象虫が食い入っているかどうかは、人それぞれの主観にこそまかせられるだろう。