「女の子映画」顛末
昨日で学部用映画リレー講義のぼくの担当=計4回分を終了した。既報のとおり、00年代前半の「女の子映画」を突破口にした。その4回の内訳は、1「映画ジャンル論の意義と『女の子映画』の特性」、2「廣木隆一『ガールフレンド』詳説」、3「風間志織『せかいのおわり』詳説」、4「安藤尋『ココロとカラダ』詳説」。「女の子映画」の特性については既述したので詳しくは書かないが、要は「女の子」のからだ(それは曲線をもち、やわらかい)から予想される内密性、その作用を受けて画面そのものが内密化し、そこから「女の子」の粉飾のない「リアル」が視覚性をとびこえて観客の触覚性にまで浸透、結果的には価値観の逆転に向かう映画、とでもしておこう。
それにしても、安藤尋監督の『ココロとカラダ』の重要性はいわれているだろうか。『ガールフレンド』や『せかいのおわり』のもつ幸福感を「反転」させた熾烈なネガというべき作品だった。「女の子」の内密性には分け入っているのだが、そこから肯定性だけを予想するのは間違いで、むしろ内密性がからっぽのまま「からだが残った」ときには、はげしい疎外が招来されている、というリアリスティックな結論に導かれる。
作品評を書くわけではないので、簡単で抽象的な既述にとどめるが、『ココロとカラダ』が背景にもつのは援助交際的な個人売春だ。友達のアパートに転がりこんだ「知美」(阿久根裕子)がアパートの主、「恵子」(未向)の望むままに恵子の生業・売春の実践隊員となる。途中、「三つの合鍵」のエピソードがあって、合鍵は機能性だけの問題だからどれでも交換可能だ、と「恵子」の客・池内万作がいう。それに知美が賛同しない。それは、売春が客も交換可能、肉体提供者も交換可能の、個別性を否定する世界だからにほかならない。
合鍵をつくって「恵子」の部屋にもどった「知美」が、そこで池内と鉢合わせるシーンは「ドア」ではじまる。やがて「恵子」が「ドア」から「知美」を引きずりだし、翌朝、「ドア」からふたたび「知美」が入って、意外性と腹芸にみちた流れがひととおり完了する。これらのくだりの、安藤の演出力がただ事ではない。
ここで「場所論」が生起する。権力からひっぱられた糸によってそこにいる者がそのまま宙づりになってしまう場が変奏連打されるのだった。「知美」が寒い一晩を過ごす「恵子」のドア前からの下り階段がそうだし、「知美」が睡眠をとることになる、「恵子」ベッド脇の床も意味性はおなじだ。それは矢崎仁司『三月のライオン』で「アイス」(由良宜子)が、個人売春のため電話ボックスから吊られる「その脇の空間」をも髣髴させる。それらはいうなれば境界=渚なのだ。
だから作品の終結前、じっさい「渚」にいる幼女も、そこにレンタカーをとめて所在なげに「恵子」を待つ「知美」を、じつはそこに吊っている。描かれた実質的な渚に、幼女を権力中枢にした「渚」が二重化しているのだった。ところが作品最後に掟破りで召喚される回想(冒頭の回想の翌日)で、トラウマの記憶に吊られて場所=境界を動けなくなったのが誰で、誰が陰謀家だったかがさらに明らかになる。以上のように一貫して緻密な脚本と演出なのだった。
「女の子しか知りえない事情」の描写が画面の内密性をつくる、といえば賛意がしめされるだろうが、この映画ではそれがむごい。すべて血のにおいがするのだ。まずは、生理になっても売春をおこなうためにどうするかの問題。次はアパート暮らしの女の自宅流産の詳細。ところが前者によって内密性は虚無ながら画面的にはレスビアンをおもわせる疑似愛情が前面化する。後者では「知美」が客から受けた暴行と化合して、これが結局「知美」「恵子」ふたりの「内実のない」紐帯をつよめる機能を果たす。
「恵子」のアパートの部屋はそれ自体、内密性が高い。生活導線が迂回的、という独特の構造で、それは柑橘類の内部に「房」があるような状態に似ている。鈴木一博の手持ちカメラは、人物の動きによって背景にある部屋の構造を小出しにし、一旦は構造上の謎にかける。それが導線の迂回、という結論に導かれたとき、「恵子の部屋」自体が「女の子」の内密性の喩となっていたことが判明する。
だが着ぐるみやカーテン生地や穴がつくりだす内密性のなかに入ってしまうことによって中村麻美の内密性が夢みられた『せかいのおわり』のようには、『ココロとカラダ』は内密性を自動展開してゆかない。むしろ現実原則にのって、成立しているようにみえた内密性は境界性と隣接しているか、それ自体がラブホテルの一室のように、境界性を内包している、というあられもない種明かしをするのだった。この種明かしのなかで「恵子」「知美」のからだの傷が加算されてゆき、ついには疎外によって動きをとめられる、という作劇が完了する。
「女の子映画」はたぶん科白の応酬ではなく、ふたりの人物のからだの配置と、存在している空間の質によって、ドラマが進展している。それは、作劇的な科白の多くが「女の子」にたいして「ウソをいう」からだ。結果、真実の「女の子」映画は、からだの実質に迫るために、いかに空間にふたつの人体を置いたかの有効実例集となっている。映画空間演出にとっては哲学的思考の宝庫。だから価値があるのはいうまでもない。そういえば『ガールフレンド』で最も見事な空間演出は、ホテルのバスルームの扉をつかって展開されたのだった。そこではカットの時間そのものが演出の中身になっていて、山田キヌヲの姿態変化も深い意味をつくりあげていた。