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風間志織・メロデ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

風間志織・メロデのページです。

風間志織・メロデ

 
  
毎週水曜5限は院生用に「90年代前半日本映画論」講義をおこなっているのだが、リレー授業でのぼくのテーマ「女の子映画」の余勢を駆って、若干反則だが昨日は89年に公開された風間志織監督の『メロデ』をとりあげたのだった。ものすごく好きな映画。8ミリ作品なのに100分を超える映画。サウンドトラックも完璧に具備されている。8ミリ映像における「事物」の、内側にむかって眠るような夢幻的な質感が画面に終始、花開いている。

「アキラ」(伊藤亜希子)、「ヒーちゃん」(小峰仁巳)、「クン」(松永久仁彦)がいったん関係に描きだした「幸福な三角」が、どのような邪心と偶然と不作為によって瓦解するかを描く「冷徹な映画」ととりあえずは総括できても、作品にあふれている植物模様(アラベスク)とヨーロピアン・ニューウェイヴ調のクラシック歌曲がもたらす甘く哀しい雰囲気がわすれられない。89年の「等身大」が精神的に画面に定着されている。

むろん撮影対象の微細と、画面への人物の置き方の天才的な「適確さ」によって、その後の日本映画の趨勢をつくった作品だ。つまり89年は、スタジオシステムの刻々の崩壊予感のなかで、北野武という「異業種監督」、阪本順治、瀬々敬久らの「自主映画経験監督」の劇場デビューした画期として知られるが、風間志織『メロデ』の存在も大きかった。劇映画に自主映画的なものが還流したその後は、大きくはふたつの潮流をなす。つまり、瀬々的な風景の解放と多数化、鬱屈表現が「アジア同時性」にむかったのにたいし、女子的な「自体性」が組織され、そこから「疎外態でない身体」の内密性がどのように微弱電波のような身体ドラマをつくりえるのか、という分流だ。後者の着眼の嚆矢になったのが『メロデ』で、このことによって「映画史」はじつは成瀬巳喜男的なものを身体表現の象徴系と合体させた。『メロデ』がなければ、矢崎仁司『三月のライオン』も田尻裕司『OLの●汁』も存在できなかっただろうとおもう。

「成瀬」と書いたが、ふたりの人物を画面に収めるとき、風間志織の画角決定が並列や90度配分の座りの全体をまずとらえることが眼につくだろう。その上で演技により頭の位置に高低変化がもたらされ、しかもカット割で一人物への画面限定が起こり、そのリズムが編集されてゆく(成瀬の参照は、室内の奥行きをしめす縦構図で、俳優のうごきからどうリズムをつくるかでも成し遂げられる)。同時に89年当時、「知るひとのみの神」だったエドワード・ヤンの参照がたぶんあったはずだ。可視明度ぎりぎりの光量のひくさのなかに俳優を置き、設定された光源からの逆光構図によって身体の輪郭のみを光らせる。「コロナ状」の人物の蔓延。それは身体の物質性の明示であるとともに、身体の潜在的な逆転力を画面に刻んでいる。

風間志織が『メロデ』の主要三人物を罰しているとすれば、それは彼らが「はっきりしない」からだ。「アキラ」はおそらく自分の邪心を最終画面になるまで、意識していない。「クン」は混ぜ返しとおどけが自分のやさしさから出ていると知っていても、運命の方向変化にたいし錯誤を演じてしまう。そのなかで「アキラ」のマンション居宅の留守番でいた「ヒーちゃん」(彼女は仮住まい者であり、メッセンジャーであるという、中間的な存在性を最初、負わされている)がそこに風呂をもらいにくる「クン」と知り合い、やりとりをかさねているうちに、俗にいう「好き好きモード満開」になっている。この幸福感をむろん彼女の「心」は知っているが、脳髄的理性はそれにたいして分析をおこなわない。つまり、『メロデ』は幸福感こそ痛ましい、という逆転的認識をもつ作品なのだった。

「成瀬」の参照は、画面への「植物性の導入」にもあらわれている。蓮実重彦の断定に反して、「世界で最もうつくしい木漏れ日」を描いたのは、成瀬の『歌行燈』ではなく『鶴八鶴次郎』だったはずだが、いったい木漏れ日によって身体に刺青のように植物模様を刻印されてしまう人間とは何なのか。ヒントになるのは「植物は苦しみのなかに終始ある」というラカンの考察、あるいは「植物とは音楽の最終形態である」というニーチェの直観だろう。木漏れ日によって何度も身体を模様化された「ヒーちゃん」は自分をとりまく本質的な受動性を「苦しみ」として総括できない。それどころかたとえば身体部位で最も植物性の高い髪の毛を、その湯上りの濡れ髪の状態で「アキラ」と併置される忘れがたい2ショットアップ画面で、動物性と対比されて自己定位が不可能になる。規定不能のものとして身体=存在がある、というアポリアを、身体が解決できないのだった。

「ヒーちゃん」自身は着ている服にも自室にも植物模様がない。それで植物からの「反映」に無防備になる彼女の存在形態が際立ってゆく。いっぼう「アキラ」は植物に固執し、植物性をまとい、ベッドの掛け布団も部屋の壁紙も植物性で統一している。そして「悪意」はその植物性からまさに浮上してくるのだった。あるいは風を受けた植物の揺れとざわめきが、そのまま「アキラ」の不安の喩となる刻々もある。

ストーリーの詳細は書かないが、アルバイト先に向かう「ヒーちゃん」を「クン」が運送用の小トラックで追う場面の空間演出、あるいは「ヒーちゃん」と「クン」の最後に一緒にいる場面となった「階段のさきの空間」の外延性の把握は見事極まりない。そのときにトラックのドアの磨かれた金属取っ手がちいさな鏡面となってクンの身体を一瞬、捉える。限定視角の微細さはここでもう驚異=脅威の域に達する。この前提があって、ドアの覗き穴からの光が、極点からのものなのに「ヒーちゃん」を照らし、「クン」への思いを画面に実体化する奇蹟が、流れに上乗せされたのだった。

「鏡面」といえば、この作品には事物の鏡面性が繊細に連打されている。「アキラ」が「ヒーちゃん」に仮託した自分のマンション住まいにあった大きな鏡面などは、ドラマ上ではなく俳優身体の「心もとなさ」を定着するために見事に活用されていた。むろん水面を中心に、人物たちの像の反映は連続し、そのうえで道路上、交通安全の鏡に最後ちかくの「アキラ」が映らない、という展開が加算される。

人間は事物をみることができない、事物のほうが人間の心もとなさをみるだけだ、というのは『吉田喜重が語る小津さんの映画』の冒頭、吉田喜重が小津『東京物語』冒頭の「水枕さがし」の小さなディテールでしめしたことだった(この着眼が『晩春』の障子越し、月下の壺で完了する)。事物からの視線というのは、メルロ=ポンティやラカンも語っていたが、さてこれを画面に、つまり観客に具現化するためにはどうしたらいいのだろうか。風間志織監督はそこに明快な解答をあたえる。つまり事物を鏡面化すれば、その事物が人間をどう視ているかが伝わる、というものだ。

『メロデ』は「アキラ」の「待ち人」がついに画面登場したとき、その人物描写が衝撃をあたえる。経済的には不安定でも「クン」にはその「待ち人」のような自己中心性がないからだ。「アキラ」とその婚約者の「デート」のありようは、それまで『メロデ』に描かれた同様のものとはまるで色彩が異なっている(川のもつ水鏡の機能も残酷に低下させられている)。そしてドラマに期待された決着のみられないそのタイミングで「さて、もう一度始めよう」の字幕が挿入され、突然エンドロールが開始されてしまう。「回収」を梯子はずしされた観客の衝撃は計り知れない(この終景衝撃の質はエドワード・ヤンの『恐怖分子』に似ている)。

「さて、もう一度始めよう」という呼びかけは、問いだ。つまり三人が「関係の幸福な三角」を保てなかった理由を記憶から探し出してくれという依頼だ。そこにどうしても答えが見いだせないとついに自覚したとき、観客はこの美しい映画が伏在させていた「恐怖」につかまれることになる。
 
 

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2012年06月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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