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小池昌代さん ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

小池昌代さんのページです。

小池昌代さん

 
 
北大学部生用の女性詩講義のため、さっきまで小池昌代さんの詩篇の転記打ちをしていた。小池さんの初期詩篇には「勉強しているなあ」という感触がまず生ずる。愛着を得るために女性詩の技法が注意ぶかく転用され、うつくしくその居場所を得る。だからそれ自体が「宝庫」なのだが、反面で脱コミュニケーションが神経質に怖れられてもいて、結果、どこかが説明過多になったり、凡俗になったりして、削りたいとか直したいという隔靴掻痒感がうまれてしまう。直喩の多さもサーヴィス精神の賜物だろう。いずれにしても「ゆれていて」、最初から技法確立していた井坂洋子さんとはちがい、努力によって詩風をかためてきたひとだ。そこがまた愛着の理由ともなる。

その小池さんが「化け物」に変貌するのは『永遠に来ないバス』『もっとも官能的な部屋』の90年代後半あたりからだ。葛原妙子を中心にした現代短歌、永田耕衣を中心にした現代俳句の参照があったのではないか。じっさい『もっとも…』の「悲鳴」では葛原を、「背後」では耕衣を誰もがおもうのではないか。そしてこの詩集には「馬のこと」「吉田」という、超絶的な傑作詩篇がさらにまだある。小池さんのその当時の変貌は、現在、斎藤恵子さんにきざしている変貌と質が似ているとおもう。

小池さんはその後、散文脈と詩脈の過激な交錯に詩風がかたむいてゆくが(ぼくはとりわけ『ババ、バサラ、サラバ』が好きだ)、やはり90年代末期の頃の「不気味なものを見据えて哲学する眼(の哀しみ)」がなつかしい。転記打ちプリントもその頃の作に集中してしまった。

それでびっくりしたことがある。例の「入浴詩集」ではぼくが小池さんの「かもしか」を、小池さんが「数」を自己申告したのだが、小池さんにはそれらを凌駕する「入浴詩」が『永遠に来ないバス』のなかにさらにあったのだった。忘れていたぼくも悪いが、小池さんはそうではないはず。どこかで気に入っていないのか。だとすればストーリー性が欠落している点を気にかけているのだとおもうが、実はそれこそが美点なのだと逆にぼくはおもう。とりあえずそれは斎藤恵子さんの「女湯」の先駆的位置に輝いている。

【湯屋】小池昌代


大黒屋のしまい湯は静かだ
はだかになっても汚れのとれない
しんから疲れた老女が
がらがら と
戸を開けて入ってくる
締め方のゆるいシャワーの蛇口から
水がしたたる音がして
冷たい夜気がすあしのままで
高い天窓からそっとすべり込む
水がゆれている
湯がふちからあふれている
わたしは
何も判断しない
丸太のようなこころになって
ひとのからだをみる
はだかの背や腰、尻のあたりや
それぞれの局部
流れる水もみた
抜けた髪の毛
女のからだのたくさんのくぼみ
そこへ水がたまり
滑り落ちていくのを
何年もいくどもみているような気がする
男湯と女湯をへだてる壁もみた
そして
その壁を
だれひとり
けもののように
乗り越えていかない
乗り越えてこないのを
不思議なきもちで
ゆっくりたしかめた



「くぼみ」に石原吉郎の参照があるかな。
ともあれ小池さん、なつかしい。夏休みの帰郷中に、飲みに誘おうか



忘れていて「入浴詩集」に編入できず、あとで臍を噛んだ詩篇はまだある。筆頭は、川田絢音さんの「春」(『それは 消える字』所収)。これも北大の授業準備で気づいた。以下、ペースト。

【春】川田絢音


乳房は片方だけ
髪は枯れ
声も出なくなってしまった
追いつめられ
半身〔はんみ〕の妹が打ち沈む
心によって滅んでゆくということがあるだろうか
青鷺とわたしと
妹の暗い響きに浮かんでいる
湯は
崩れあふれ
月は満ちる
ただならないものを緻密に吹いて
その枝が
心を忘れよ と
わたしたちに差しのべられている



ほかに、堀本吟さんに教えていただいた以下の俳句もあった。

雪の日の浴身一指一趾愛し   橋本多佳子
窓の雪女体にて湯を溢れしむ  桂  信子

いずれにせよ、いま最ももとめられているのは、詩集よりもさらにアンソロジーではないだろうか
 
 

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2012年07月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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