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白蛇 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

白蛇のページです。

白蛇

【白蛇】
阿部嘉昭


御意。可変がこの命にあたえられた
その前に這うことを 泳ぐことほど
速くするよう己も呪いつくした
可変が宿命。だから私が泳ぐと
その沼がするする一個の空とほどけ
「龍が消えるまで」の留保もつきだす

御意。縛られるのを忘れた紐だった
ほどけ間違って裸のイヴのまえに
ぶらさがった慙愧が以後敗史となった
単純に単純な一条であること
この誓いの清清しさのために
私の手足が野に億万隠れて。その残余は。

御意。これより私のなづきを謂うな
眷属を知らずして白く霞むそれは
名も残らない名残、電の棲処にすぎぬ
複数か単数かもわからぬその場所を
躯の尖端にもつことの戸惑い新た
そこから伸びる舌もだから焔を真似る

御意。川の象形ということか
数千で崖を下ればそうなるだろう
茎のうえに憂いほどけずして
身を音楽に 羽虫を誘うこともある
逆さになって樹の幹へ春の鞦韆をつくり
胡蝶をさみしさで喚ぶことだってある

御意。書き忘れられたこの身だから
野に周回の恨みをただ書こうとして
字が無意味に地平までも流れてゆく
静かな草書だろう、降雨のあるまでは
女文字のひらがなの息吸いだろう
煙に似ていると謂うか――謂うな。

御意。醜い蠕動が習いとなったが
この蠕動は前進にも遊泳にも適用される
身を縮めて伸ばすだけ――滑りも加え
それがなぜ書字より進むかは運動の謎だ
中身なき運動に再帰や悔悟がただ織られ
私は前進が退屈で仕様がない。でも彼岸へ。

御意。動けば身が侵略になってしまう
見えない音楽に沿いその音楽すら喘ぐのだ
野に地に、音楽線が所与としてある
沿うことが一体なにの二重化なのか
声も身にあるのか しゅるしゅるうるさく
それは蠕動の間歇音にも満たないだろう

御意。歓喜は光集まった末の眼の退化から。
鱗なす膚が剥き出された腑よりも鋭敏で
地を無限に触覚した差異だけが記憶だ。
私は尖端の脱自としてつねに悦び動き
春の内部すら深く困惑させるが――さて、
鎌首の反りだけには攻撃の美も冠された

御意。鱗状に砕け 眺めを喪った分節の内に
矛盾の脊椎が一本貫き それが要塞だった
多数のちいさな弓手が鉛直からの光線を感じ
矢を おぼろの天心に噴こうとしている
むろん矢は継ぎすらもなく身内で折れて
蛇のうからは窪地で知れず散乱を模倣する

御意。大いなる足に踏まれた栄光
野に溶けないまま終生を全うして
蛇のうからは星型の静止に晒される
身の触覚は地へ静かに解放されて
輝きを失ったむかしの鱗のなかから
お前の好きな「世界」が分岐する

御意。それまでを それまでが往く
一身の長さ、定めとはそういうことだ
御意。御意。御意。刀身であり
獣よりも鏡である私とはそういうことだ
私をまだ盗んでいないのか、私は世界に
悪知恵を授けようとして――もう死ぬだけ。





「アンソロジー」部分を打っ棄って読まないままでいた
『現代詩年鑑2008』を今朝がた読了した。
幾つか惹かれる詩篇があったが
とりわけ高岡修さんの「脳の川」に戦慄した(詩集『蛇』所収)。
詩集名どおりに蛇が描かれていて
僕の上記の詩篇はそれに触発され、
蛇からのアンサーソングとして書いたものだ。

三村京子が詩誌「酒乱」のため
「私」が主体ではない歌を論考しようと
四苦八苦しているらしく
その範例提示という狙いもある。
ともあれ、また動物詩を書いてしまいました。

公平を期すため、高岡修「脳の川」全篇を
下に転記打ちしておきます。
素晴らしい詩篇だよ





【脳の川】
高岡 修

どんな川よりも青い川が
蛇の脳を
流れている
蛇の這った跡が
ことさらに青くけむるのは
蛇の脳を流れる川の色に
野が
にじむからである

どんな川よりも青い川が
蛇の脳から
流れ出ている
どれほど遠くへ
こころを遊ばせようと
蛇の脳を流れる川の色を
野は
出ることができない

頭上の空の売り方
喪なった四肢の爆発音
そこだけ原罪が匂い立っている場所
うつろのうろこ

蛇とは
野に溶けえざる一条のめまいである
世界はまだ
その一条のめまいを
盗めない

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2008年01月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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