顔の展覧と矩形重畳 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

顔の展覧と矩形重畳のページです。

顔の展覧と矩形重畳

 
 
昨日の北大国語国文学会での講演、その演題は、既報のとおり「成瀬巳喜男『驟雨』と高野文子「美しき町」」だった。両作品をチェックしたのち草稿はつくらず、講演にあってはアドリブで喋り、おもいついたことを板書してゆく、という、「古典的な」アナログ精神で臨んだ。自分でいうのもなんだが、喋るうちに自分でも真新しい考えが引き出せた。ただしアドリブでおこなったすべては、記録にのこさなければやがて忘れる。よって備忘のため、細かい説明を省き、その「新しい考え」のみ、ここにしるしておこうとおもう。ただしむろん若干の前提導入が要る。

『驟雨』では岸田国士の幾つかの戯曲、その細部をパッチワークすることで水木洋子の脚色が成立している。それで成瀬映画としては例外的に演劇性がナマに露呈している箇所がある。まず見やすいのは新婚旅行を早めに切り上げて帰京した香川京子が、原節子、やがては帰宅したその夫の佐野周二に、自分の得た伴侶がいかに鈍感で下品な男かを、演劇的演技で語る爆笑喚起の一連(ここでの香川の「可愛さ」はお宝ものだ)。それから原節子が飼っているとみなされている(実際に彼女は自分の家の縁先で餌付けしている)野良犬の「狼藉」を議題にひらかれた「ご近所集会」の場面だろう(その犬は幼稚園で飼っている鶏を噛み殺す事件を起こしている)。

享受する側の「視ること」そのものを映画やマンガのようには実質として組織しない演劇では何が起こっているだろうか。まず客席からの正面性を意識した俳優たちの身体が「概念」「記号」「感情」をまとい、平面化する。ではそれを映画が「逆輸入」するとどんな化合が生ずるか。成瀬はそれに端的な解答をあたえている。

たとえば上述したご近所集会(ならびに早期退職金を経営者からちらつかせられた佐野の同僚たちの、佐野宅における「集会」、原節子が用意した鶏スキ鍋で、硬い鶏肉を噛み切ろうと面々が苦闘する一連)の演出にあたって、成瀬は「ナメ」を介さない無媒介なバストショットでひとりひとり俳優を捉える、という、意図的に「粗い」カットつなぎをおこなっている。喜劇効果のためだ。「顔の類型展示」がそこに上乗せされる。成瀬の映画がいつも「顔の映画」なのは無論だが、そこに徹底的に戯画性を加味するという選択がおこなわれた点で、『驟雨』は彼のフィルモグラフィ中、貴重な例外なのだった。

問題はヒロイン原節子の「顔」だろう。娘役を年齢的にできなくなっても、彫りのふかいその造形の美しさは当時の女優のなかで群を抜いている。ところが「退屈と倦怠」「引っ込み思案」「暗い不平家」「結婚生活がもたらした蟄居性によって生じた狎れと鈍磨」「貧苦」「服装への無頓着」など、「やつし」をドラマ上要求される原は、たんに美しい顔であってはならない。

成瀬はそこで退屈や無関心や反応の遅さといった演技によってまずは原の顔の優位性を曇らせる。ところが原の「引っ込み思案」などの「弱点」は、実際は佐野のみた夢があかすように、原に「少女性」が残存している点とも相即していて、だから原の顔は、「トロい」「オバサンぽい」のに「可愛い」という複合性のなかにじつは組織されている。この複合性は反映性とも隣接していて、じじつ香川京子が新郎への苦衷を切々と語る場面でも、その内容の他愛なさで香川がまずは少女性を獲得したのち、その香川と「同期」することで原の顔が、相手を諌止したり注意喚起したりする「大人の顔」と「少女性の顔」とに見事に「ゆれる」姿を付帯的に捉えられている。とりわけ観客が原の顔に「同意」するのは、数ある振幅のうち、そこに少女性が発露される局面にたいしてだろう。

むろん原の顔の美しさが際立つ場面が幾つかある。それは彼女の位置と彼女をめぐるひかりの偶然の配剤によってもたらされる。たとえば隣人夫婦(小林桂樹と根岸明美)と一緒に行くはずの映画鑑賞を前にして、原が、行きたくないと愚図愚図している場面。あるいは原が蒙ったスリの損金を取り返すため佐野が徹夜麻雀をしているあいだ、ひとり原が編み物をして待つ場面。それらでの原の顔の美しさは、まずは照明効果と連動している。同時に、感情統御の下手さ、けなげさといった「少女価値」ともそれらが接合されている点に注意が要るだろう。

ところで『驟雨』で原節子の最も美しい「顔」はどう出現するか。佐野宅の集会に参じた佐野の同僚たちが原の「美貌」を活用して、早期退職金を原資に共同で串揚げ屋かバーをやろうといいだすとき、原は引っ込み思案なのに、その「世辞」に照れ、その気になり、顔をあかるませる。それはとうぜん原の実態を知る佐野からは表情選択の「誤作動」とうけとられているはずだ。

面々が帰ったのち、原がその共同経営に「店の顔」として参画するのなら、俺は帰農する、別居だ、と佐野が言い放ち、このとき、原が「初めて」婉曲性を欠いたことばで夫の甘い考えを非難、なぜ生活打開のために家庭に閉じこもっている女が外で働いてはいけないのかと反論する。それまでの原の怒りが「記号」だったのに、ここでは完全な実体になる。

もっと微細な表現をしてみよう。このとき原の顔の裏側に女性性が充満し、いわば外形と感情に完全な一致が生じている。この一致状態によって顔そのものが豊かに充実し、それで美しさが一枚岩で形成されているのだ。照明とも少女性との連絡とも無縁な、このシーンでの原の顔の自体的な美しさを、「顔の映画」として『驟雨』を組織した成瀬は待ちかまえていたはずだ。しかもこのときなぜか原の顔には、原以外に何か戦前女優の顔の「美点」を複合したかのような「深さ」「奥行」の印象もうまれている。

映画のフィルムはそれ自体、かたちが矩形だ。その矩形のなかに「顔」は転写され召集され、いわば顔の展示そのものの推移によって、映画も駆動、前進する。大きくいうと成瀬は、「退屈」→「繊細な反映(少女性1)」→「偶然の美しさ(少女性2)」→「誤作動」→「女性性の充実による美しさ」という推移を原の顔に盛り込んだ。気をつけるべきは最後に到来した美しさが、怒りという一見マイナス価値の感情と連接されている点だろう。

さて高野文子の中篇マンガ「美しき町」は昭和30年代の「夫婦」の慎ましい生活をえがき、日曜にどう夫婦がすごすかの問題を提起し、しかもその居宅で工場団地にいる労働者たちの「集会」があるなど(『驟雨』よりもさらに大規模に、玄関に集会参加者の靴が並んでいるコマがある)、『驟雨』との物語内容上の共通点がただちに把握されるが、じつはヒロイン「サナエさん」の顔の展覧も『驟雨』の原節子同様に起こっている。

ガリ版切りの重労働を一晩で仕上げるよう策謀家の印象のつよい隣の同僚から言い渡されて夫が反論できず、とりあえず夫婦が夕食をとる展開となる。このときヒロインがご飯を頬張りながら、「思いつきでイジワルいってるのよ」と発語する。ヒロインが初めてしめす悪感情。それは悪感情であることで彼女自身をいたましく蚕食しながら、同時に真情の瞬間的吐露が人間化をも呼び込み、やはりそれ自体が女性性と連合した「美しさ」を形成する。

それがひとコマという「数瞬」の単位で捉えられ、だからこそ、顔の対称性のふしぎなゆがみ、眼の下の数本の線が睫毛か擦りでできた赤みか記号解読できない不安定性がもたらされてもいる。じつは瞬間的に現れた感情とともに、この描き方の不安定性こそが美しいのだった。そこでは時間捕獲の動態が同時に表象されているといえる。

夫婦は労働組合運動のガリ版切り、印刷を共同作業、徹夜で敢行する。もともとこのマンガは天地全長の短冊形、縦長のコマによって一頁を三分割構成するなど、大胆なコマ割(さらには豊富な画角設定による構図が人体や室内を部分的にとらえること)によって読者の読解速度を落とし、それによって記憶、一瞬、永遠といった時間論的な主題を画面展開上に語りうる考え抜かれた構造を実現していた。そのなかでこそヒロインの「一瞬の」表情が、悪感情の表出をつうじ逆説的に美しかったのだ。

高野は、マンガ自体の「構造」を画面によってメタ的に打ち出す。ガリ版印刷に刷られた紙は、乾かすため狭い部屋の床一面にひろげられている。そのようすを高野は、天地全長、短冊形のコマいくつかで、大胆に描写した。ならべられる紙の矩形がそのまま図像的に連続、しかもそれをコマ自体の矩形が危うく内包している、ほとんど矩形だけの抽象的な構成がもちいられたのだ。このとき、その紙をしめすひとつひとつの矩形が、空間を描写したものなのに、時間軸上、たとえば「顔」の変転を載せてゆく単位の重畳にみえだすのも必然かもしれない。

矩形重畳は比例美を意識してコマをならべるマンガ表現の前提で、とくにコマ線に斜め線をつかわず、天地全長コマなどを配分する高野では最大限に意識されている。室内の奥行きを正面ショットの縦構図で捉える成瀬もまた、その襖、障子、家具、畳の配剤によって画面要素を矩形重畳化する達人だった。ところが『驟雨』では斜めからの画角がつづき、正面性ショットがつくりあげる構成美的な矩形重畳がずっと禁欲されていて、この禁欲がラストの一連でついに解かれる。順序はこうだ。口喧嘩の翌朝、佐野周二が食事後、縁側前にすわっている(家という矩形的な塊を「地」にして縁先への開口部という矩形が提示されている)。朝刊をひろげると、冒頭のディテールが反復されて夫がまだ読んでいないのに新聞から料理指南記事がやはり切り抜きされている(新聞紙の矩形のなかにある切り抜きの矩形)。ただしそれらは斜めからのショットで捉えられている。

そこに「紙風船」を重要な小道具にした山中貞雄『人情紙風船』の記憶がまつわってゆく。隣家から幼女ふたりがそちらにまいこんだ「紙風船」をとってくれ、と依頼するのがきっかけだった(言い忘れたが、佐野の家のある一帯は同型の文化住宅が狭い間隔で櫛比していて、その空間的な印象が『人情紙風船』の棟割長屋に似ている)。

佐野が縁先に出て紙風船を「打って」返そうとするが運動神経の悪さと風で方向がおもうようにならない。いつしか原も紙風船打ちに参入、夫婦間の打ちあいに様相が変化してゆく。佐野の家からみて紙風船の幼女たちの家の逆側に住む小林桂樹と根岸明美も、その馬鹿らしいようすに気づき、庭に出る。このとき初めて幼女たちの家の側に立ったカメラが「その家の庭」「佐野の家の庭」「小林の家の庭」「さらにその向こうの家の庭」を奥行きにすべて透視するような清澄な縦構図が実現され、この構図の完結性によって画面の「終」マークが出るのだった。ここで画面が矩形単位を最大限に重畳させているのはいうまでもない。

棟割長屋の庭側の空間連続を画面に繰りこむのは、もともと矩形重畳を室内縦構図で見事に実現していた『人情紙風船』に先例があった(霧立のぼるを匿っている河原崎長十郎が縁側から隣の中村翫右衛門の部屋のようすを窺う場面)。その構図を成瀬はよりはっきりと意味化した。夫婦仲、その相互役割の多彩さなどは、もっと大きな「人間的」同型性のなかに繰りこまれる。そうしめすため、奥行き方向へ同単位の親和的な連続をつくりあげたのだった。このように総論提示を図像的に実現してこそ作品が終了できたといえる。

じつは高野文子「美しき町」でも、隣家の意地悪な同僚とその妻と、集合団地に住む主役夫婦がベランダ越しにやりとりをする場面があって、そこで正面性構図がつかわれ、ベランダが奥行きにむかって数々並び、矩形を重畳させてゆく数コマがあった。ならば、「なぜ女性の顔の展覧をおこなう作品は、矩形の重畳という画面要素を付帯させるのか」。

答はもう書いたようなものだ。顔の展覧を刻々おこなう作品の「時間軸」があったとして、それが空間上に転化され、そこにさらに単位的なものが打ち出されれば、「矩形重畳」はただちに現象される。「矩形重畳」は、差異あるものがもっと大きな枠組では、連続性によって「普遍」をつくりあげていることの示唆なのだ。文化住宅の庭や、集合住宅のベランダの空間連続であきらかだろう。そこに発動されている視線は、じつは世界のなかからそれ自体の親和性を抽出するもので、だからあかるさと賢明さをもっている。

女性が瞬間的にいろいろな顔をもち、そのなかに少女性のうつくしい亀裂もあれば、女性性の感情を充満させて存在と美しい一致をみることもある、という認知も、女性を一様性のなかに固着させない、親和的な「ときほぐし」であるのはむろんだ。だから『驟雨』と「美しき町」は、「構造的に」、時間軸上では顔の展覧を、空間上では矩形重畳を出来させていたのだった。つまり両作は設定、主題、細部に共通性がある以上に、時空創造の構造が似ていた。

「美しき町」ではガリ版印刷が終わったあと、対象を捉える(空中)立地点が「窓の外」に移る。それで窓の外から窓のなかの夫婦を見やる成瀬的構図が一旦出現する。作品終結にあたり成瀬が山中を導入したのにたいし、高野は成瀬を導入したのかとさえおもう。けれども高野はさらにコマを展開させ、窓のなかの夫婦をより遠くから見つめ、最後には明け方のその部屋の窓あかりは一頁大のコマ中央の遠点にまで閉じ込められる(これは成瀬ではありえない外延拡張運動だ)。暁闇のなかに、トーンを貼られた工場団地群がさらなる矩形重畳として浮かび上がっていた。そうして作品が終了した。

このときのナレーション・ネームは、夫婦のささやかな苦闘も、いつか時が経って思い起こせば、永遠のなかのちいさな瞬間と捉え返されるのだろうか、といった意味合いのものだった(夫婦ふたりの日曜日の散歩のようすがインサート的に織り込まれてもいた)。そう、その「永遠のなかのちいさな瞬間」は、怒りを表した原節子の顔の美しさでもあった。むろん女性性を捉えるまなざしは、永遠の「地」に多様に存在している瞬間を、親和的に摘出する以外にはありえないだろう。
 
 

スポンサーサイト

2012年07月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する