FC2ブログ

廿楽順治・くっている ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

廿楽順治・くっているのページです。

廿楽順治・くっている

廿楽順治がネットに詩集をアップした。
http://www.tsuzura.com/kutteiru_tsuzura.pdf
詩集『たかくおよぐや』を上梓したばかりの彼だが
驚くなかれ、これはそれ以後の近作を集成したもので、
詩集タイトルも『くっている』という
人を喰ったようなタイトルだ(笑)
(実際に無気味で不可能な人肉嗜食のイメージも間歇する)。
ネット詩の軽視が詩壇では続いているが
(そうしない、と宣言した久谷雉の「詩誌月評」ですらそうだ)、
廿楽さんのこの挑戦をまずは果敢と喜びたい。

廿楽順治の詩は無気味で、かつ可笑的だ。
悪態も瞭然としているが、元手にしている幽黙が
彼の人生(人世)の深いところから取り出されている。
ただし詩集が出続けると、第一詩集『すみだがわ』段階では
「突然変異」だったものが(それらは「廿楽調」と呼ばれる)、
少しずつその秘密を解いてゆく仕儀ともなる。

改行が彼の詩の根幹という点はいまさら言及を要さないだろうが、
その改行法則はたぶん、
多数性とズレの生成にこそ最も多くを負っていると気づく。



【ねている】

1 鏡のことをかんがえた
2 ひとであるか水であるかがみえてこない
3 背景の方にすてられた集団だった
4 うつった うつった と夜までさわいでいる
5 横になっているものがどうやって
6 かたむいた東西をわたるのか
7 (ひとりひとりの味などかまっておれぬ)
8 ねているものの骨をしつこくなめていたら
9 急におれだけがその鏡にうつったのだ



たった九行の冒頭詩篇。主語の変転が異常だ。
一行目、省略されている主語はとうぜん法則からして
主格とならざるをえないが、
三行目、文法規則を破り省略されている主語は
抽象的三人称itだ(つまり詩篇は主語省略文の連続において
掟破りを敢行することから開始されている)。

「意味」は遡及してゆく。
二行目、《ひとであるか水であるかがみえてこない》は
その前行の「鏡」に遡及し、
この「鏡のことをかんがえた」主体は
鏡が「ひと」か「水」かをかんがえあぐねていることになる。
それにしても――鏡と水の連関は
コクトー『オルフェ』を引き出すまでもなく想像の定番だが、
鏡に人性を観る感覚の危なさが早くも主題になったと見るべきだ。
冷たく、ただ反射を習いとするだけの鏡に
ひとの温もりや運動の不形性を見るなら
その感性には狂気と呼ばれるものが混ざっているはずだ。

廿楽順治の修辞は意図的に乱暴で、それにより
三行目「背景」が空間的な多義性をもちはじめる。
語られた鏡に、鏡像はあらかじめあるのか。
鏡像内の背景というなら、四行目、その背景を形成する「集団」は
詩篇の「こちら側」では最も手前=読者の位置にいることになる。
おそらくその集団と鏡のあいだに詩の主体「おれ」(九行目)が
定位されることになるのだろうが、
その際の鏡像を考えてみると、
そこからは「おれ」と「集団」の不分離も印象されだす。

ただ《背景の方にすてられた集団だった》には不如意があって、
集団は、歴史の最前線に前面化しない不遇をかこっているのだろう。
それが「うつった うつった」と「夜までさわ」ぐのなら
(そこに無気味なものの「滑稽」への転位がある)、
彼らには死者であるか何かでもともと鏡に映る資格もないのだ。

ただし「背景」が鏡の物質性自体の背景を表すというおもいもある。
鏡は硝子と裏箔の合致によってつくりだされるが
(この「合致」感がこの詩篇にないのが妙だ)、
その裏箔の位置にこそ「集団」が潜んでいて
彼らの鏡面への可視性は、いわば鏡面の内破から生じていないか。
そう考えて、単純加算により順接で進むべき詩の位相性が混乱する。



ともあれ以上、1-4行目は、
主語省略の文に錯乱が仕込まれていると理解すれば可読的だが
ならば5-6行目の深甚な「脱臼」とは何か。改めて転記する。

5 横になっているものがどうやって
6 かたむいた東西をわたるのか

「横になっているもの」は集団を指すのか
「鏡のことをかんがえた」主体を指すのか。
しかもそれは鏡面に映った姿が横になっているならともかく、
それまで言及されなかった第三の主体が
鏡像のなかに横になっているとも捉えられ、
読むことの同定性がここで一挙に剥奪される。

東西は空間的には「横」の形容と馴染むが、
かたむいた東西などありえない。
「ありえない」から、第六行の疑問文も成立するのだが、
むろんそれは唯一、鏡面の置かれ方と
主体の位置関係においてのみ「ありうる」。

「東西」という言葉が罠だ。
東西は、かつては共産圏と資本主義圏の対立の方向性、いまなら
東洋と西洋の対立の方向性を視野する用語として馴染むだろう。
むろんこの点の手がかりとなる言葉など詩篇のなかにない。
ぶっきらぼうに投げ出された詩句が、謎となって魅惑を発するだけ。

しかも第二の遡行が起こる。
六行目の「わたる」の動詞の運動性が既読領域に作用して、
四行目の「うつった うつった」が
「映る」の意ではなく、「移る」の意ではないかと考えはじめるのだ。

空間は傾いていようがいまいが、今や「東西」に開けている。
そこを「わたる」もの、「移る」ものは季節推移に則った
渡り鳥的なものではないか。
鏡がそれを捉え、しかもそれが鏡を語る身の背後にあり、
なおかつ、それが死後の鳥のように元来は鏡に写らず、
規定となった空間軸=東西も病んで傾いているというなら、
もはや鏡について語りだされたこの詩篇は
「鏡において」空間が破砕されているというしかない。



そうしてお馴染み、廿楽詩の特徴、丸括弧に挟まれた一行、
(ひとりひとりの味などかまっておれぬ)
が第七行目にくる。
丸括弧は「内心の声」を挟んだものと当初受け取れる。
「ひとりひとり」とあるからには、複数性が内包されていて、
それを詩篇内の言葉で探すなら指示対象が「集団」となるしかない。

いずれにせよ、鏡のなか=かたむいた東西を飛翔する
季節を「わたる」(渡る=渉る)集団がいて、
その個別の味には拘泥しない、と詩の真の主体は嘯いているのだが、
三行目、「背景の方にすてられた」集団には
いつの間にか東西を動く運動性も付与されていることになる。

(ひとりひとりの味などかまっておれぬ)が暴言である点に注意。
個別の差異性がここではのっぺらな無差異性に化けている。
どれを喰っても同じ味だ、とは、存在への呪詛なのだ。

しかも「味」の陰に潜む動詞「喰う」は
(ただし「くっている」という詩篇はこのネット詩集内に別にある)、
食餌行為を当面は前提しながら、その深部では性的体験も暗示する。
個別性に惹かれながら実際に事に及べば
その同じような性器・陰毛などに辟易し、
差異体験であるべきものが同一体験へと脱色されてしまう――
そんな現代的不能がこの丸括弧のなかの呟きに混入していないか。

ただ、渡り鳥に冠されるだろう、そのまえの《東西をわたる》には
実際には救済を導く痕跡のようなものがある。
季節推移に生きるものの同質性には
いわば神の位置から逆算された普遍的等質性が感知されて、
(ひとりひとりの味などかまっておれぬ)は
(ひとつひとつの内実は神前では等質だ)にも転位するのだった。



8 ねているものの骨をしつこくなめていたら
9 急におれだけがその鏡にうつったのだ

そうして詩の終結部が上記のように訪れる。
これは「つけたり」というか
事後的に詩篇についた跋文に相当するのではないかとおもった
(廿楽詩のいつものように行アキがないが)。

鏡を媒介にして「位相」混乱を体験した詩の主体が
「同時に」何をしていたたが開陳されている、とみる。
彼は「ねているものの骨をしつこくなめていた」のだった。
とすれば初めて詩の「時間」が夜にあった点が
虚言ではなかったともわかる。
この「なめていた」は前行の「味」から導きだされてもいるだろう。

主体の身辺に「ねているもの」は主体の家族と印象される。
むろん白骨化しているのではない――
主体はその躯の真髄に迫りえて
「骨」=もっとも個別差異の少ないもの、を
「しつこくなめている」のだった。
つまり(ひとりひとりの味などかまってはおれぬ)は
連句のように前行(句)と次行(句)の双方にかかっている。

そうでいて、最終行でさらなる破裂が起こる。
《急におれだけがその鏡にうつったのだ》は
「裏」をとれる詩行だった――こうなる。
《鏡面に映っていた有象無象の一切が消え、夾雑物も払われ、
その最終的背景に位置した「おれ」の
姿だけがぽつねんと残されたのだ》。

このとき付帯的な恐怖も宿る。
前行で「おれ」は「ねているものの骨」を「なめていた」はずだが
その「ねているもの」の姿もここで一切掻き消えているのだ。
あるいは彼らは「寝る」という生理反応をしつつも
本当はすでに「骨の領域」にいて、
鏡像反映性すら奪われているのかもしれない。
詩の主体はもともと死者と暮らしていたのか。
しかしそう「書く」ことで詩の主体は家族殺しを敢行しているのだ。



このネット詩集『くっている』には共通の図版がつかわれている。
先のアドレスをクリックして確認してもらいたいのだが、
それはコンピュータ作画したバルーン(マンガにおける「ふきだし」)、
もしくは可笑的な霊魂のようにみえる。
廿楽は扉位置であれ、余白であれ、すべての詩篇に
このバルーンを介在させて倦まない――そんなレイアウトを選んだ
(バルーンと丸括弧独白の共通性)。

これはそれ自体が実体であり、シミュラクルであるもの、
存在の虚実を媒介して虚実の境を無化するようなもの――
クロソフスキー詩学(哲学)におけるダイモンではないだろうか。

これが詩篇内(間)に猖獗することで
廿楽詩篇はバラバラに砕けながら、一体化を結果している。
差異と無差異の区分を云々する無意味に突き刺さり、
ただ詩篇の運動の渦中、刻々の現在形をこそ愉しめ、
という命法(エンタテインメントな命法)だけを前面化してくる。
この点で廿楽詩が連句に接近しだす。

「鏡」を主題にした「ねている」だから
クロソフスキーの『ディアーナの沐浴』を想起したのではない。
言葉のダイモン(守護霊=主語霊)はあらゆる言葉の隙間を
めまぐるしく旋回して、論理の位相を突崩しつつ
詩の進展原理とさえなっている――
これは廿楽詩においては第一義的なことなのだ。

詩篇「ねている」でいえば、タイトルにまでズレがわたっている。
この詩篇の根幹の動詞は「ねる=ねている」ではなく、
以上の僕の読解からいえば「うつる」か「わたる」、
最低でも「かたむいている」だという点は自明だろうが、
天邪鬼の廿楽は、仕込んだ罠の上方にいて
読者がとりもちにひっつくのを観ようとするのか、
「ねている」のタイトルを選択している。



ひとつ実験を――。
廿楽詩篇はその行加算に一旦施された腑分けと再構成の痕跡がある
――その証明を以下にしたいとおもうのだ。



再構成版【ねている】

8 ねているものの骨をしつこくなめていたら
9 急におれだけがその鏡にうつっ【て】
1 鏡のことをかんがえた
4 うつった うつった と夜までさわいでいる
3 背景の方にすてられた集団【もみえたが】
7 (ひとりひとりの味などかまっておれぬ)
5 【おれ以上に】横になっているものがどうやって
6 かたむいた東西をわたるのか
2 ひとであるか水であるか【すら】みえてこない【やつらだ】



若干の加筆を施し、詩行の理路も整えるように
(それでも充分に変だが)並びかえてみると
意外に詩想がすっきりと迫ってくる。
こういう作業を誘惑しているのが
もともとの詩行に仕組まれた「脱臼」であって、
詩篇が無差異な詩行の並列、それに加え
その偶有的な編成に負っていた点は
こうした作業からも明らかになるとおもう。

しかも、行をこのように入れ替えて、
「ほぼ」詩篇の意味が変化しないのだった。

これと同等の組成をした芸術作品を人は即座に名指せるだろう
――キュビズム絵画だった。



すると僕は、廿楽詩が
再構成できる余地・不足を孕んでいるといいたいのか――ちがう。

廿楽詩は、異物にぶつかった驚愕によってまず現れているのだ。
そして行加算の脱臼もまた、彼の個性的な声を動因にしている。
ただその声は見事に一行単位であって(ポリフォニー)、
だから声を連続させている素地を捉えようとして
読者が行き迷う点が肝腎なのだとおもう。

それは肉感的にみえて、「韜晦の声」だ。
彼の含羞のポジションがそのような声を発しているといえるだろう。

それでも「声」は行の末尾変化において整えられている。
「た」「ない」「だった」「いる」
(一行おいて)「のか」「ぬ」
(一行おいて)「のだ」。
現在形と過去形の、否定形と肯定形と疑問形の、語尾単位での刺繍。
そして最終行末尾の強調。
しかしその強調は、余韻形成ではなく
「エ、これで終わり?」という衝撃付与だけに貢献するようだ。

むろん声の質は平易な言葉のみで詩篇を組織し
そのことによって、言葉の原型の肉感を露出しようとする営みから
勘案されるものだ。
廿楽詩では漢語(音)も限定される――
この場合なら、「背景」「集団」「東西」「急」しかなく、
それらが誤聴を招く語でない点も一目瞭然だろう。



ああ何ということだ。
冒頭詩篇だけを吟味して、すでに予定の文字量を使いつくした。
僕の書いたのは「導入」にすぎない。
以後の各論、あるいは詩集の全体像は、
http://www.tsuzura.com/kutteiru_tsuzura.pdf
に当たってもらうしかない。

しかし廿楽さんの詩を相手にすると
どうしていつも同じ事態が引き起こされるのか
(『たかくおよぐや』も一篇解説で詩集評が終わってしまった)。
それだけ組成が豊饒な解読誘惑に富むということだろう。

スポンサーサイト



2008年01月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する