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昨日のいろいろ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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昨日のいろいろ

 
 
昨日は鬱気分を抑えながら、二冊を読了。ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージの前で』(法政大学出版局、江澤健一郎訳)と内山節『ローカリズム原論』(農文協)、どちらも今年刊行の本だ。

内山の書は立教=21世紀社会センターでの講義採録で、国民国家、市民社会、資本主義の三軸が構造疲弊した現状で、グローバリズムから離れ、どのようにローカリズムを再模索するか、その前段となる思考をやさしく見事に展開する。「風土論」の再提起がぼくにはとりわけ刺激的だった。和辻哲郎の実感した「東アジアモンスーン地帯」と「ヨーロッパ」と「アラビアの砂漠地帯」では何がちがうのか。アラビアには「自然はない」。ヨーロッパでは統御可能な「弱い自然」がある。東アジアでは再生と増殖を繰り返す混沌とした強い自然がある。それらが植物の原生種の数や地震発生数(フランスが例にとられる)から把握されて、返す刀で統治形態から定位されたマルクスの「アジア的混沌」の浅薄にぼくはおもいいたった。統治形態には自然が先行しているはずだからだ。

この和辻の提起がマクロだとすると、長野の諏訪で活動した地方地理学者・三澤勝衛の地勢把握がミクロだ。三澤では最大風土単位が諏訪地区、それがさらに「集落」へと微細化し、「畑一枚一枚でも風土が違う」多層的な風土論が展開されているらしい。ちょうど「美の壺・沖縄の民家」で、庭の入口から風がどう動くかを知り、その智慧にびっくりしていただけに、じつに示唆に富む対置だった。

そう、最近ぼくは「場所」のことをよくかんがえている。むろんそれをマクロに捉えるとローカリズム論と出会うはずだが、ミクロに捉えた「畑一枚」の独自立脚性(土、風向、日照、水はけなど)にも何か光源的な衝撃がある。最終的には場所とはそのまま人間のことだ。人間が不在になれば自然が横溢し、実在になればすべての関係が開始される。

『イメージの前で』は手っ取り早くオビ文を借りれば、《ヴァザーリによる人文主義的美術史の発明から、パノフスキー的イコノロジーの成立にいたる美学の歴史を、表象の裂け目に現れるフロイト的「徴候」への眼差しを通じて批判的に解体する”美術史の脱構築”》。批判から実際の脱構築に入ってゆく本書の中心、第四章(最終章)の「裂け目としてのイメージ」と、それを別角度から補完する補遺「細部という難問」が圧巻だろう。

内山節に関連させ、「場所=空間」にかかわるディディ=ユベルマンの所説を、なかば任意的に拾ってみよう。《〔…〕細部とは、安定性と閉鎖に向かう記号論的対象である。それに対して面は、記号論的で開かれている。細部は同一性の論理を想定し、それによればある事物は必ず他のものの反対物となる〔…〕。面のほうは、まさに形象可能性そのものを、つまり過程を、潜勢力を、いまだないこと〔…〕を〔…〕、不確実性を、形象における半ばの存在を明るみに出す》(447頁)。よく読めばこれは地区ごとの震災復興デザインにも適用できる。

細部が全体の構築要素/単位であるのにたいし、面は基底材であり、空白であり、可能態だということだ。「細部」に現れた「徴候」がパノフスキー的な寓意解釈を非-知に向けて暗く混ぜ返すとすると、ディディ=ユベルマンのいう「面」は細部とは別の界「面」にある。ドゥルーズの参照がないが、その面は褶曲し、襞をなし、自らにかさなって展開する、容積ある思考の運動体なのではないか。

上記掲出で「同一性」の語召喚に引っかかった読者がいるかもしれない。別のところでディディ=ユベルマンはこう書く。《類似における極の二元性が圧縮の作用によってたえず蝕まれているのと同じだけ、模倣的な同一性が置換の作用によってたえず蝕まれている〔…〕。類似はもはや「同一物」を示すことはなく、他者性に感染していて、その一方で類似化する諸項は、まさに項としての明確な意識を不可能にする混沌--「複合的形成」--においてぶつかり合うのである》(258頁)。

「舌を噛むような」思考にみえるかもしれない。同一性を軸にしたミメーシス(ヴァザーリが芸術原理として顕揚したもの)に裂け目が入ってパノフスキー的注釈すら不可能になったとき(しかしそれは時代変遷によるよりも、「視えること」と「視えないこと」が原理的に浮上してきたことによる)、解体がそのままイメージの運動となる転位をしめしている。そのかぎりで同一性が保証を失い、無効化するのだ。

《受肉を前にすると足場が崩壊し始める。なぜなら、イメージそのものがいわば自己崩壊しようとする場が、イメージのリズムが存在するからである。ならばわれわれは、大きく口を開けた限界、解体する場を前にするようにイメージを前にしているのだ》(381頁)。そういえば「叫びなき開口」、その連鎖は、平倉圭『ゴダール的方法』が圧巻の画面摘出でしめしたゴダール的主題でもあった。

ディディ=ユベルマンを読んでいる合間に、ぼくの加藤郁乎追悼文が掲載された「ガニメデ」55号が届いて、一気読みした(これは一昨日)。同人詩歌句誌中、「ガニメデ」を贔屓にしているのは、分厚さ、俳句をはじめとした詩性の混在、それに編集人・武田肇さんの編集後記の鮮やかさがいつもあるからだが、その武田さんの編集後記に、いままでぼくがしるしてきた「場所論」をひっくり返してしまう時間論と感覚論の二句が掲出されていた。転記しておく。

藤の花一年前の一年後
--山崎十生

途中の目見てゐる雪の途中かな
--高橋睦郎

これらは「場所」の句でもある。ところがそれが「時間」の句へとも同時変貌している。やはり問題は「再帰性」ということになるだろう。
 
 

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2012年07月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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