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贋の履歴を詩にする ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

贋の履歴を詩にするのページです。

贋の履歴を詩にする



ここのところ、立教・文芸思想専修一年生向きの入門演習では
毎回変えるテキストに現代詩(現代詩集)をつかっている。
過激といわれるかもしれないが(否、必ずいわれるだろう-笑)、
荒川洋治『心理』と石田瑞穂『片鱗篇』とを
立て続けに使用したのだ。ありえない?



荒川洋治『心理』に対し一班から予め発表されるべきレジュメは
講義内ではしかし実現されなかった。
はしか休講で班員の意見を統合する機会をもてなかったのが理由。
ただし、その詩が面白いけれども言語化できない面もあったようだ。
これでいい。対象化の困難にこそ、詩への憧憬が実は宿るのだから。

で、そのときの講義では、荒川洋治の概略を
「技術の威嚇」「IQ高官」「口語の時代は寒い」「稲川方人との論争」
といったお馴染みのアイテムでまず説明した。

それから『水駅』『娼婦論』時代の荒川詩の説明に入る。
漢語過多、語(とくに助詞)の意図的誤用による文脈の脱臼、
そこに「置換」の操作も認められること、
虚無感と遊戯感覚、(安西冬衛型)モダニズム。。。

では荒川詩の個性とは何か。まずは「地図」との親和だろう。
荒川は地図をイメージに描きながら
その架空の景観を鳥瞰的に浮遊してゆく。
語尾の断言が、空間を截(き)り、空間の連続性が想像域にズレだす。

体言止め、用言止め、相等しい簡略な詩的文体が
天才的なリズムを刻々につくりだしてゆく。
読み手の視界は豊饒なイメージに差し込んでくる音律の断線により
イメージを同時に失う――この体験が蓄積するなかで
詩篇の見事な結語に出会ってもゆく。

荒川の詩文には陰謀のように散文との脈絡もある。
これが実は「高官」用語なのではないだろうか。
荒川の散文は、政府文書のような素っ気無さを一見纏いこむ。
たぶん彼には文章の無駄や過剰形容を厭う資質がある。
その文体に似ているものは何か。
たとえば「履歴」文体だろう。
よって荒川詩では空間の変転と時間の複層、
このふたつの弁別が不可能にもなる。



『水駅』『娼婦論』の荒川初期詩には度肝を抜かれるだろう。
ただし、荒川に見られる詩語への不信が
過激に言葉に信を置いた60年代詩への「威嚇」だ、
という時代意識を棚上げにしてしまえば
そのモダニズム詩への先祖返りは安定の産物とも総括される。

荒川がその詩風をさらに過激にするなかで
人間の血をかよわせはじめたのは、
一旦確立した詩風を「雑」によって揺らせはじめた
『あたらしいぞ、わたしは』以降ではなかったろうか。

ただ平易な語や俗な言い回しが連ねられながら、
その詩行の重ねの不統一が、晦渋な謎になってもゆく。
初期詩想の把握できない不透明も多くの詩篇につきまとった。



その荒川の詩に幸福な「大団円」が訪れたのが
05年、みすず書房から刊行された『心理』ではないかとおもう。
入門演習のテキストでは
「宝石の写真」「心理」「葡萄と皮」の3篇を抜いた。

とりわけ郵便番号簿で具体的地名を「置換」していった
「宝石の写真」では初期荒川の「地図」詩のリズムが蘇っている。
そこには「様々な」「日本の」「生」が輻輳しだす。
それらがまた、例のごとく「履歴書文体」で描かれる。
《すべての事実は日本でしか起こらない。》
それで日本という閉域をしいられた生に
寛大な愛着もまつわってゆく。
2000年代に書かれた詩で、
これほどのスケールをもつものは少ないだろう。



「贋・履歴」をテーマとした詩の着想は、
実はライバル稲川方人にもある。
長大詩篇の一部分を形成するにすぎないが。以下に示そう。



(……年記……)

昭和二十四年、夏
私はとりのこされていく。

昭和三十一年、春
風雪を苦しむ鳩に殺意の石を握りしめる。

昭和三十三年、夏
川の深みに耳を傾け、この世の音階を覚える。

昭和三十三年、同じく
生きるべき月日の多さに驚き、鼻と口をふさぎつづける。

昭和三十四年、春
地の揺れ。泥に立ちすくみ稲妻を見る。

昭和三十五年、秋
線路を渡り、別れていく人に手を振る。

昭和三十五年、冬
鹿!

昭和三十七年、冬
火を絶やさぬよう生きることを習う。八通の手紙を読む。

昭和三十八年、春
憎しみはそれ以外の何にすがたを変えるだろう。

昭和三十九年、夏
海の突堤に眠り、幸福な悲鳴を聞く。

昭和五十九年、春
生きる者たちのささやき。私はとりのこされていく。

――『われらを生かしめる者はどこか』部分



テキストに噛みきれないものをブチあげておいて、
それにたいする課題が脱力的にテイカイする(笑)例が
この「入門演習」には多い。
今回もテキストとして掲げた荒川詩への精密な読解を
受講者にレポート提出させるのには予め疲弊してしまった。
それではあまり意味もない。
「荒川調」になれ、という試練を設けたほうがいい。
それで「自らの「贋・履歴」を30行程度の詩にしてください」。
ただこれでも僕の偏屈が収まらない。で、続けた。
「男子は《女子になって》、女子は《男子になって》、
贋の履歴詩を捏造してくれると嬉しい」。
ったく、トンでもない教師だ(笑)。

で、さっきまでの未明、提出された詩篇レポートに眼を通していた。
どこまで本気かわからぬ教師のまえには、
爆笑を誘う、「贋・履歴詩」が連続して立ち現れてくる。
散文脈を駆使したものには卑俗な笑点が満載されているが、
なかには詩文のリズムを見事に加えているものもある。
以下、転記打ち――
(作者名は個人情報保護のためイニシャルにした)。



【自筆年譜】
K・T

平成19年6月18日、仲澤ヨーグルトは産声を上げる。
看護婦は赤い服。左手には携帯電話。右手はどこだ?
夏空に黒い雲。黄色いから親近感が。大声出すな。
鼻水が白くなる。教室には撒き散らせない。ティッシュはどこだ?
ゾウさんが青くなる。黄色いのは危険信号。大声出せよ。

邦栄3年11月15日、仲澤ヨーグルトはラッキーセブン。
帯解きに厚化粧。千年もたぬ銀色の歯。ホルマリン漬け。
両親は馬の顔。すり鉢には人が殺到。指紋が消える。

郁陽6年4月3日、仲澤ヨーグルトはモラトリアム開始。
無意識に殺人鬼。幾らかだが手傷を負った。だけども勝った。
邂逅で閉口か。頂上とて最下位疾駆。期待と不安。
初めてのフェンシング。突かれたから疲れた様子。抱けども逝った。
雪解けの濁り水。東宮御所直行経路。不安と期待。

環華4年6月10日。鷹野ヨーグルトは寿退社。
踏みつけた赤の道。足元には無数の小指。赤いが臭い。
装束は白いまま。両親なら刺身で食った。肥えても不味い。

悠興11年2月22日、仲澤ヨーグルトは新陳代謝。
余りはない、恨みもない。血潮がない。
いや、ある。まだ、ある。流、れる。

隆輝14年6月4日、樋口ヨーグルトは上がり症。
ささやかなフェンシング。疲れてても突かれる予定。分身したい。
掛け捨てじゃありません。手書きだから覚えていません。機械化したい。
物憂げなマッサージ。突かれてても疲れる気配。硬直肢体。
ポイ捨てはいけません。金槌でも竜宮旅行。硬直死体。

衛翔7年4月5日、樋口ヨーグルトは息を引き取る。
看護婦は白い服(顔)。右足には無数の小指。阿婆擦れ女。
病室の青い花(鳥)。左手には無数の指輪。ロリコン男。

衛翔7年4月8日、満月はほくそ笑む。
十字はいない。銀貨もない。ユダはいない。
いや、いる。また、いる。流、れる。



スゲエ。狂ってる。笑える。リズムがてんで素晴らしい。
むろん「リズム」は、反復と短文重畳と擬似脚韻が作った。
当然、僕にも対抗心が芽生える。
ならばまたもや自分で出した課題に自分で挑戦だ(笑)。
ただ気分がずっと鬱なのと、
可笑性を打ち出したレポートの連続にたいし天邪鬼が芽生える。
「泣ける」ように書くか。
おかげで自分の「贋・履歴詩」がちょっと「本気詩」に近づく。
ただ出来上がって振り返ると、K・T君には負けたかもしれん。
以下――。



【自筆年譜】
阿部嘉子

明治46年、阿部嘉子はミシシッピ水郷デルタに鰐とともに生を享く。
いつも傍らに糸車、気さくな叔父「虹鱒」が第七天国を水路に紡いで。
「大正」は来ない。デモクラシーも米騒動も来ない。ただ紙人形の春。
茫洋の生を浮く。小舟でミッションには通う。茫洋の生を浮く。

5歳にして聖歌隊の紙屑に。丸められて「球」の実在を知る。
最大の球が天球ならば 最小の傾度にこの転がりを放って。
視野から水が消えてゆく。鉄道工夫・張の、生前の溜息を聴く。
ピロウトークとポピュラー音楽と映画で米語を覚えた。

教養の可変性、儚さ。同等にそのワンピースの花模様が身に添う。
髪が巻いてゆく。声も巻いてゆく。「髪の毛が肥るほど怖い」。
孤客を前にして ニューオーリンズ、少女娼婦の眼には
こんがらがる鉄路しか見えない。「コレガ未来ダ」。4打席4四球。

15歳、物質転換の手術を受け ヒヤシンスとは無縁の「風信」となる。
唄え、と悪魔に魂を売った 南部巡回中のロバート・ジョンソンがいう。
「揺れるだけじゃ駄目なの?」と訊いた。深夜、十字路上の初恋。
天山の天頂に 初恋する千の菫が揺れている。偏西風に群青を見て。

流れて「群をなす」青の一員となる。見分けられぬことが身上。
ニューオーリンズからの上海就航。その唐黍船は阿片の匂いもした。
流れて「群をなす」青の一員となる。偉大な水を作り出すいろくずたち。
船客のゴスペルをブルースが裂く。「沖縄へ帰るんだ」に意味なく唱和する。

この鍵穴に自ら鍵を挿しても プレパラート視界が晴れない。
入れ子が問題になったのが20世紀思考。唱和する――昭和しない。

一攫千金を望む小作農四男・阿部嘉昭と上海で式。ジャズバンドが伴奏する。
阿部嘉子はもう35歳。世界大の年号などない、とおもう。租界で。
式では日本女子らしく紙を纏った。さわさわ。存在の水が滲んでゆく。
その股間に普遍性があるか。傍ら、阿部嘉昭はサーチライトを遠目に見ている。

大陸浪人からは気味の悪い屍臭がした。裂かれるべきものが存続する。
双子の形式、希望の集団性、苗床、芸術の自己言及・自己愛など。
その意識の隙間に 八路軍が糞尿を撒く。「上海蟹は通常の蟹に非ず」。
伴侶・阿部嘉昭の赤色化には 密かな藍を刺したいとねがう。

あれからずっと エノラゲイが唐突に出現する。そうした雲間が怖い。
阿部嘉子の空を見上げるその仕種には確かに催涙性があった。
大陸に不在のまま阿部嘉昭が頭髪を爆発させ死んだのはいつか。
――阿部嘉子も確かにビートルズの最後のアルバムを聴いていない。



こうしてレポートの白眉を公表してみて、
まだ今度の提出課題が出がらしにならないところが凄い(笑)。
今年の一年生、刻々と化けはじめている。
この「贋・履歴」も秀作を「阿部嘉昭サイト」に転載しようかなあ。

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2007年06月17日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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