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山口雅俊・闇金ウシジマくん ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

山口雅俊・闇金ウシジマくんのページです。

山口雅俊・闇金ウシジマくん

 
 
善が善に隣り合う映画では身体や心情の並置が単純に起こるのにたいして、悪が悪を食む映画では、いわば「何が真の悪か」をめぐり、形而上的な葛藤が生ずる。悪を主題にした途端、たとえば宗教や恋愛や自己葛藤ですら哲学化するのは、親鸞の悪人正機説やジュネの小説やカフカの箴言にも自明だろう。真鍋昌平の原作マンガ、TVシリーズを受けた山口雅俊の映画『闇金ウシジマくん』も悪の諸相を「ふるい」にかける遠心分離機のような映画で、その遠心性が曲線性と見分けのつかなくなる圧倒的なクライマックスとなる。そこでは作劇ではなく悪こそが優雅に舞踏していたのだった。

ローカルアイドル・ダンスユニット、「ゴレンジャイ」を客寄せにしてパーティ集金でのしあがろうとする「下品な野心」の男として、まず林遣都がいる。彼が体現する悪は、「あがき」「性急さ」「窮地を脱するための瞬時瞬時の着想」「対象の目的化ではなく道具化」といったものだろう。彼はパーティ開催の資金繰りに難航するうち、いわば「悪」を生み出す機械となる。劇中で「チャラい」と幾度も人物評の出される彼は、元来は感情移入のできるタイプではない。なのに彼の不安や焦燥の内面モノローグが音声化されて、彼は形式上の主役の座に上り詰める。その「窮地」の、いわば無酸素状態を観客が共有するようになるのだ。三台のケータイに番号やアドレスとして詰め込まれている三千人の「人脈」だけが財産、という彼に、自分と似たものを見出す若い観客も多いかもしれない。

次に、闇金融業を営むウシジマ=山田孝之がいる。顎鬚、眼鏡、短髪の彼に目立つのは寡黙さと立ち方の直立性だ。彼の戦闘は屈強で、しかも持前の金融哲学を最低限しか語らないので存在自体に秘匿性がある。その点で彼もまた感情移入のしにくい対象だが、観客は暴力に哲学性が裏打ちされている様相に呑まれ、ありえない自己投射をおこなうようになる。彼は林遣都の資金繰りの罠に嵌り、警察に捕まる。取調室では緘黙をとおす。ただし金田明夫の弁護士との接見では、腹芸で事務所存続のための指示を出す。やべきょうすけ、崎本大海の部下はその遠隔操作のもと、問題解決に奔走し、そこでは組織論の問題も浮上する。

最後に、嶋田久作の口跡を真似、ずっとコートのフードで顔を見せない新井浩文がいる。前二者に劣らぬ情報管理力をみせながら、カネの強奪をふくめた暴力が自己目的化し、しかもその暴力「内容」に歯止めがきかないことから、新井は作中で、最も気味悪い、真の怪物として定位される。

この三人に、さらに手塚とおる、鈴之助という媒介項を置いて、林の実現したパーティのシーンとなる。満員の入場者、喧噪感に満ちたダンスDJ音楽のなかを、山田は懲罰ではなく、単純に取り立てをおこなうため、林の得たパーティ売上金をまるごと手中にしようとする。たったひとりを除き、主要人物が一堂に会したその場面では、林が自分に身近な暴力性を山田に差し向ける姑息な対抗策を講じ続けることで、いわば「悪のトーナメント」が起こる。「悪が悪を洗う」運動そのものの物質性が描かれる点で(事後的であれ何であれいくつかの肉弾戦も描かれる)、『ナニワ金融道』など闇金ものの現代的ヴァージョンアップといえたそれまでの内容が急速に実録ヤクザものとの近似値を描きはじめ、同時に人物の出没/消長の呼吸がたとえば往年の忍者映画などにも似てくる。カッティングは速く、たとえば表舞台に位置するゴレンジャイのステージパフォーマンスや観衆の熱狂が間歇挿入されることで、裏舞台で起こっている悪の決勝戦に律動の芯棒が貫かれてゆく。

そこで映るのは何か。可愛い顔が幾度も緊張と不安で崩れてゆく林遣都、あるいはフードの下からついに顔を視認できる状態になる新井浩文を中心に、まず映っているのは質をたがえながら悪を表象している「顔」の数々だ。つぎに編集そのものが見える。それは呼吸に似た何かだ。溜めや間合いや事後判明もある。次は卓抜な照明ワークによる、空間の明度差だ。そして不思議なことに適確すぎてカメラワークそのものが意識から除外されてしまう。もっというとカメラワークは基底材となって、そのうえに多様なものが混淆しブラウン運動する様相だけが意識されるのだ。それが結局、この「悪の哲学」の映画のジャンルを、金融もの、実録路線、忍者映画から、舞踏映画へと移行させる要因となる。

観客の心情は怪しい「分散」を起こす。誰に感情移入しても不当なのに不思議な感情移入が起こるからだ。これがサブカル一般に通有されている現代性であることは間違いない。その意味で『闇金ウシジマくん』は『ナニワ金融道』よりもマンガなのだ。マンガなのに、映画的な物質性にあふれかえっている。もうひとつ、TVから繰り込まれた属性がある。『鍵のかかった部屋』など優れたTVドラマでは、いま非映画的な「時間の再編」が起こっている。手持ちで画角をうごかしながら、それをスイッチング的な編集でつなぎ、そこに別の短い単位の時間を挿入し刺繍してゆく高度に心理形成的な編集が、この『闇金ウシジマくん』の全編をゆきわたっている。

いままで主要な人物をひとり書いていない。AKB48の大島優子だ。自宅で売春もおこない、家事放棄し、パチンコに依存し、あろうことか娘に3Pをもちかける黒沢あすかの母親のもとを、彼女は飛び出してしまう。その母親の借金の利子を山田孝之に払うため出会い系ショールームで働きながら、売り(売春)だけはせずに一緒の食事、一緒のカラオケといった援交の範囲を守っている。けなげなのではない。そこでは一見自己保存的とみえる「売春性の小出し」「自己減速の設定」がそのまま小狡い悪なのだ。このようにして彼女はいちばん威厳のない悪を体現する。大島優子の貧しすぎる表情(変化)と、その役柄はよくマッチして、ドラマがいかに彼女のささやかな向日性を紡ぎだそうと、彼女もまた感情移入の「外」にいる。というか、この映画には「外」しかないのだ。

その彼女は林遣都とも旧知で、彼の生の活力に憧憬の念をも抱いている。つまり林遣都と山田孝之が対峙する(その対峙がほとんどパーティの混雑を縫う「同行」の動作をとるのが素晴らしい)クライマックスに、双方の既知である大島優子も登場する「義務」があると、通常の映画では擬されるだろう。ところがそれが起こらない。つまりクライマックスシーンで「映っていたもの」の目録に、さらに欠落を加える必要があるのだった。

では大島優子は、林遣都、山田孝之のいる「場所」に登場するのだろうか。いうまでもなくその後、それはたしかに実現される。しかもその実現に、大島優子の像そのものが欠落している点が見事なのだった。このことは「見えすぎることで不可視性を分泌する」映画だった『闇金ウシジマくん』が、同時に、「見えなすぎることで、人間の実在性をあかし立てる」作品だったこともあらわしているだろう。

そういえば、悪のトーナメントの結果はどうなったか。「沈着冷静な悪こそが、哲学性に近接することで勝利する」という結論でいいだろう。傑作だとおもう。8月25日ロードショー公開。
 
 

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2012年08月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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