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清水あすか個展 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

清水あすか個展のページです。

清水あすか個展

 
 
先週金曜日には廿楽順治さんと六本木でひらかれていた清水あすかさんの個展に行った。画廊の白壁にクロッキー用の太い鉛筆でみずから書かれた清水さんの詩篇と、これまた清水さんみずからの手になる絵画がしずかなスパークを発している。

清水さんの絵画は清水さんの詩集の自装からイメージできるかもしれない。全体は暗い色調。クレヨンで色彩分布的な重ね塗りをおこなったあとで、細針で細密模様の「傷」をつけてゆき、原初エネルギー的かつ装飾的な抽象画が迫力をともなってうかびあがっている。清水さんの島の詩篇とおなじく、それは第一観的には森の様相に近づいているが、同時に海底光景にも、着物の布地(八丈島は名前のとおり「八丈」の産地だ)にもみえ、描かれたものが何かは決定できない。その意味で絵画の立ち位置が詩篇と通底している。

問題は「削ること」だろう。詩を「書く」ではなく、「紙面に削りを入れて傷つけること」だとする詩作者の系譜がある。ツェランがそうで、現在なら杉本真維子がそうだ。書くことは手首をひねることではなく、筆圧を絶望的にぶつけること。清水さんの字は角張って稲妻のように荒れて強いが、その筆圧が白壁に書かれた詩篇の書体に、同時に、重ね塗りしたクレヨンを削った針の痕跡に共有されている。つまりその画廊に入ることは、筆圧の森に侵入して、侵入したからだを刺されることだった。

画廊に清水さんご本人がいらして、いろいろと話をする。なぜ「清水あすか論」が書きにくいか。八丈島方言と古語と異言の問題はクリアできるとして、地縁を基盤としたサーガ形成的、土地交歓的な詩篇では、地縁成員における自他の弁別がなくなる。結果、たとえば子供のいる主体が描かれた詩で、その主体が清水さん自身なのか、他の地縁者なのか、判断ができなくなる(カマをかけてみたが、清水さん自身、既婚・子持ちかの想像はご自由に、というスタンスだった)。

もうひとつ、清水さんの詩行は「。」「、」を繰り込み、長くなるときに独特のうねり、リズムが生ずる(それが文法破壊と相まって、異言性となる)。都市的でない、強靭なリズム。その詩法を文法的に要約すれば「冗語法」となるのだろうが、となると彼女の推敲も、通常のように圧縮ではなく、増殖に向けられた推敲なのではないだろうか。そう言うと、自分は増殖と圧縮を交互させるような推敲をするタイプだとおもう、と語っていらした。

いずれにせよ、「土地の力」を身に装填し、高い筆圧で削りの詩を書く清水さんは、「土地」の域的微差に繊細で、そのかぎりで彼女の詩業は、松岡政則さんと並行しているように見える。しかも最新詩集『二本足捧げる。』では形容詞の名詞化、という松岡的文法が駆使されだした。それで松岡さんからの影響を問うと、清水さんは「読んだことがないんです」という意外な返答をなさった。そうか、それでも「土地」に立脚することで、「書く」がおなじ場所にながれこんでくるのだと、なにか納得した気になった。ところがこの「納得」が、たぶん「清水あすか論」を書きにくくさせているものの正体なのだ。

金曜日はその後、廿楽さん、柿沼徹さん、近藤弘文くんと、八重洲の「ふくべ」というものすごく庶民的で素晴らしい飲み屋で詩談義。詩と哲学の関係を、膝をつきあわせ談義しつくす心意気だったが、早々に酔っ払ってしまったようだ。柿沼さんとはまたのラウンドを期したい。
 
 

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2012年08月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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