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吉田大八・桐島、部活やめるってよ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

吉田大八・桐島、部活やめるってよのページです。

吉田大八・桐島、部活やめるってよ

 
 
どんな映画においても「場所と身体の関係」が必然的に画面に描かれるとすれば、若さに躍動し、その若さに痛覚さえかんじる学生たちの身体を、学校という空間に捉えつづける「学園ドラマ」は、どのような叙述形態をもつべきだろうか。たとえば学校空間の基本単位となる教室。教壇側から教室の全景を前提的に映しだし、そこに整然と着席する生徒たちを「配剤」するような視角が、生徒たちが可能性としてもつ「動態」を殺してしまうのはいうまでもない。逆にいうと教室は、廊下・扉や、窓、ベランダのあいだにあるひらかれた中間態として、つまりは確定を約束しない保留性として、画面にいつも「暫定」されていなければならない。

ならば教室での撮影作法も決まる。それ自体を撮影対象物とするのではなく生徒たちの一人ひとりの動きを捉える撮影の、その場その場の「背景」として、教室空間はメトニミー(全体に向けられた部分喩)の材料となるほかはない。そのいわばメトニミー=換喩単位が観客の判断のなかで刺繍され綜合される。これは全体を容易に「想像」できる空間を描きだす映画の鉄則で、パーツから全体をつくりあげやすい空間として往年は日本家屋もあった(たとえば成瀬巳喜男の室内把握の質もおもいだしてみよう)。

むろん学園ドラマでは教室は基本的にスタチックだから、なるべく撮影頻度に滲み出してくるその「権能」を減殺するにしくはない。それで描かれる学校空間も、より中間的な場所へと続々「解放」される運びとなる。学園ドラマを多くみている者は、それらの場所を簡単に名指し・列挙することができるだろう。いわく――上述した窓辺、ベランダ、廊下のほかには、校庭、渡り廊下、体育館、保健室、音楽室や美術室や理科室、階段(踊り場や階段下の三角の狭隘空間)、部室、購買部、下駄箱周辺、校舎の裏庭、正門前の坂道、それに最大の中間的特権地としての屋上ということになる。それらもすべて生徒たちの動きを追ったときにその背景に初めて付帯的にあらわれてくるものでなければならない。結果、学校映画が教室という空間呪縛から逃れることが可能になる。

むろん今年屈指の出来といえるほど緻密な作劇を貫いた吉田大八監督の『桐島、部活やめるってよ』でもこうした学校空間の展開鉄則が完全に順守されている。たぶん吉田監督は、以上の法則を守らなければ学園ドラマの成功も覚束ない、という確信すらあったはずだ。その際の参照項を想像してみよう。ほぼこのような布陣になるのではないか――相米慎二『台風クラブ』、エドワード・ヤン『クーリンチェ少年殺人事件』、豊田利晃『青い春』、安藤尋『blue』、(生徒の疾走を前進移動で追いつづけた)ガス・ヴァン・サント『エレファント』、それに製作時期が重複していて意識できなかったかもしれないが以下の二作――黒沢清『贖罪』第二話、内藤瑛亮『先生を流産させる会』……

多数性そのままの生徒群像が映画の進行にともなって次第に個別化する(粒だってくる)とき、進行の原理となるのは、繰り返すが、部分から部分へとわたってゆくメトニミーだ。そこではたとえば「誰が誰をみているか」が、たとえ距離を介在していてもメトニミーの空間的本質=隣接性を描きだすことにもなるが、がんらい生徒たちは秩序をもたないブラウン運動を繰り返すから、視線の方向もからだのすれちがいによって混ぜ返され、執着・愛着の確定までには慎み深い待機が刻まれなければならない。だから「部分の進展」は文字どおり、描かれる対象の身体移動によって空間へ小出しされることにたえず置き換えられてゆく。学校映画はそうして複雑な二重性のもとにおかれるのだ。逆にたとえば画角の限定された瞬間の素早い織り合わせによってメトニミーの単位=「部分」を前面化するまでの作法には意欲を感じさせながら、のべたらな音声のズリ下げによって強圧的な「全体」を単純、錯誤的に提示してしまったのが、中島哲也『告白』だったといえるだろう。

分別はこの程度にして、吉田大八『桐島、部活やめるってよ』の具体性に入ってゆこう。作品タイトルが終わりに出るこの作品で、時間の分節を明瞭に提示するのは曜日表記だ。ところがそれは、押井守『うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー』の、たえず同じ時間に着地してくる迷宮的時間進行のように、当初「金曜日」の表示を都合四回繰り返す。やがておなじ科白と芝居が強弱(音声設計が本当に繊細で素晴らしい)と位置を変え反復されるなかで、事態が判明してくる。特定人物に即した、部分的で全体が判明しない関係性提示と話柄ディテール(つまりは換喩単位)が、都合四回、人物の選定と場所を変え語り返され、その語られる範囲の前後の拡張も付帯されることで、最初は彼/彼女が彼/彼女として認められなかった原初的混沌に、やがて鮮やかな個別化が施されたのだった。朝井リョウの同題原作小説では、語り手持ち回りの連作短編形式によってしめされた視点の多数性が、場所を少したがえた同時間の語り替えへと映画的に圧縮、転位されたことになる。

判明してくるのは、90年代前半の宮台真司が先駆的に規定した、生徒たちの「島宇宙」だ(当時の宮台は校舎屋上の意味把握など、学生が体験している日常空間に最大限にセンシティヴだった)。まずは運動部と文化部の差異がある。図式的といえるほどに前者にひとまず価値化されているのは、立派な体躯、敏速な運動神経、性体験も伏在しているはずの性徴の露呈と淫乱美、自信、弱さの蔑視と驕慢、ロボット的な規範性といったもので、これらはたしかに高校時代、文化部所属だった者が眩暈をおぼえた属性だろう(むろんぼく自身の体験でいえば、こういう運動部/文化部の二元性境界を、たとえば「不良」符牒によって遊戯的に刺繍してゆく第三の類型がいたのだが)。

この二元論は『桐島』でも第三類型の提示によって境界振動を起こすが、ぼくの実体験とは異なり、その役割を担うのが帰宅部だった。彼らのなかにも立派な体躯と敏捷な運動神経をもつ男子生徒や、モデル体型をして学内の恋人との付き合いに余念のない好色そうな女子生徒がいる。そのように定位が果たされると、運動部のなかに体躯と運動神経に恵まれない者もいる、という翳りまで忍び寄ってくる。結果、あらわれるのが「世界の多元性」。むろん描写上、運動部の主軸になるのが男子はバレー部、女子はバトミントン部、文化部の主軸になるのが男子は映画研究部、女子が吹奏楽部だったが。

四回、角度と時間と場所を若干変えて語りなおされる「金曜日」で、一種の衝撃として収斂的な話題が徐々に露呈してくる。男子バレー部の超高校級のスター選手「桐島」が部活をやめた事実が噂話として広がってゆくようすが描かれていたのだった。あらかじめしるしてしまうと、その「桐島」は作品内でずっと生徒たちの話題の対象となるが、具体的に画面登場することがない(屋上にいた、と見間違えられることはあったが)。「桐島」の所属していたバレー部、その学内の恋人、親友のケータイにも、たとえば家庭でどんな事情が持ち上がったのか連絡されることもなく、いわば本人不在のまま彼の周囲に広がってゆく波紋と、それをさほど真摯に受け止めない文化部の落差が描かれてゆくだけだ。むろん「不在性」が中心になる作劇には、ベケットの『ゴドーを待ちながら』や三島由紀夫の『サド侯爵夫人』の前例がある。

生徒たちは見事に描きわけられているが、対象が多数、その一人ひとりを追ってゆくと字数を食ってしまうので、関係性の中心を事後的につくりあげていた数人に焦点を絞り、以下、説明をおこなってみよう。

まず東出昌大という新人の演じた、目鼻立ちのくっきりして、しかもそこに悲哀を帯びる表情が目覚ましく素晴らしい「宏樹」がいる。彼が「桐島」の親友だ。校舎裏のバスケットボール遊戯スペースで、放課後、帰宅部の仲間ふたりと興じるシュートなどの姿から、その身長ある体躯が抜群の運動神経に恵まれているともわかる。彼は同じクラスに恋人をもちながら、実際はそのステディな関係に執着していない。限定された性欲というよりも、どこかで生きる意欲を削がれて、ルックスに似合わないほどの減退を底に隠している気配が伝わってくる。第二学年で、実は野球部では将来を嘱望された逸材だったとやがて判明し、彼の不完全燃焼の不吉さがじわじわ画面ににじみ出てくる。「宏樹」の野球部からのリタイアは、「桐島」のバレー部でのスター化の反作用ではないかという予想も生じるが、確証できる材料は映画内ではあたえられない。

彼は教室で席の前後する吹奏楽部の女子部長、「沢島」(大後寿々花)から懸想されている。「沢島」は彼らの放課後バスケットボールを俯瞰できる位置で、吹奏楽部での本番練習の前のリハーサルをいつもおこない、「宏樹」の一挙手一投足に切ないため息を吐いている。この作品で「見ること=恋うこと」という単純性を付与されているのは彼女だけだ。この彼女によって校舎屋上がまず召喚される。やがて屋上は、指導教師の提言に反して学校ゾンビ映画を撮りだした神木隆之介(役名「前田」)率いる映研部員たちの撮影場所ともなり、だれがそこを占拠するかの葛藤を刻みだす(この映画は最終的に屋上を占拠する者はだれかという闘争主題を終結に向かいあらわにしてゆくのだが、神木たち以外の者が、「桐島」をみた、として屋上へ急行し、そこに墜落死の予感まで交えられて、豊田利晃『青い春』での松田龍平/新井浩文の、あの伝説的な終景を部分髣髴させることにもなる--しかももともと原作にはこの屋上空間の収斂化が存在していないらしい)。

映画オタクとしてG・A・ロメロへのマニアックな愛を吐露し、それなりにコンテ書きや8ミリの映像美などの拘泥に才能の片鱗も感じさせる神木は、文化部、とりわけ映研体験者には懐かしい自笑自泣を誘う、これまた複合性をもった存在だ。彼の語り口、貧弱な所作と体躯が振り返られるべき恥ずかしさの鏡となる一方で、彼には指導教師を出し抜き、運動部の撮影場所蹂躙に怯まない矜持も感じられて、その弱さが崇敬価値になる逆転性を秘めているのだった。

じつはそれで彼(の文化部典型の個性)は物笑いの種となりながら(そういう描写が金曜日の最後の描写での朝礼で描かれる)、意外な者からひそかな懸想をうけているとも事後判明する。作品は金曜日の描写の四回の反復ののち、土曜、日曜…とギャロップ調の展開を刻印してゆくのだが、日曜、塚本晋也の『鉄男』の地元シネコンでの上映で、彼はクラス一の美少女、しかもバトミントン部の花形としても活躍している「かすみ」(橋本愛)と劇場で鉢合わせたのだった。中学のときにはそれなりに話しあいの対面をしていた二人だったが、神木は文化部特有の自閉に染まって、眼前の橋本愛から示されている愛着をやりすごしてしまう。さほどカルト映画に興味のない橋本がその場にいることは、明らかに『鉄男』を観ていると読まれた「自分狙い」のはずなのに、そのことへの想到を自ら封印してしまうのだった。

本来なら教室で何度も眼のあうこの二人は、関係性の非対称な滑稽さを度外視すれば相思相愛となる組み合わせだった。橋本愛が帰宅部のバスケット好きのひとりと密かに付き合っていると判明するディテールがかもす微妙な余韻が素晴らしい(この二人の手による身体接触を神木は垣間見てしまう)。実際この二人は日曜日に口喧嘩をして気まずく別れ、その足で橋本が神木のいる劇場に向かったと付帯的に判明するのだ。それで橋本の真の関心が誰に向かっていたか、その判断材料を観客は得ることになる。学校内ヒエラルキーでは決して実現しない、この神木/橋本の相愛が痛ましい。ここでは「見ること=恋すること」という図式にある等号が機能する場合には、ある種、「短絡」の恩寵が介在している、という「世間知」にも導かれるだろう。

火曜日。神木の叡智が、「見る」ことに宿っているとついに判明する。順に振り返ってみよう。吹奏楽部の女子部長・大後は自分の懸想する東出(「宏樹」)がその恋人と帰宅の待ち合わせをする場所を小耳に挟んでしまい、その場所=校舎裏でサックスのリハーサル(音出し)練習をするという破滅的な選択をする。その場所がまた神木たちのゾンビ映画の撮影場所と重複する。その前は屋上での練習に拘泥していた大後だから、校舎裏を言を左右して離れようとしない大後の頑固を神木は理解できない。理解できないのに、結果的に神木が校舎屋上へと撮影場所を変更したのは、神木が大後の表情に何かの「必死」を「見て」、彼女を尊重せざるを得なかったからだ。

以後、道徳的に頽廃した視線の劇が、大後の承認を機に「見ることの賢者」にのぼりつめていった神木たちの去ったのちに起こる。東出はその恋人(彼女は「桐島」の恋人と帰宅仲間で、やはり派手なモデル体型をしている--それと幾度かその非道義性の兆候を瞬間描写され、最終的には橋本愛から平手打ちの懲罰も受ける)にキスをせがまれて、結果的に彼らの動向を注視する大後に「見せつけ」の片棒を担がされることになる。そのキスは、第一には「見せつけ」によって罪深く、第二には淫猥さによって、すでに罰の域にまで移行している感触がある。

屋上に「桐島」がいるという誤伝によって、神木たちが撮影を繰り広げている屋上に、大後以外の主要人物が次々と乱入してきて、神木たちの撮影が蹂躙され、神木の構える8ミリカメラまでが慌ただしい動きによって吹き飛ばされることになる。ところがその前、「見る賢者」神木は、「現実に」起こったこの乱入を、さらなる異物たちの侵入と捉えかえし、ゾンビに扮している部員たちに「食え」と命じる。偶然をドキュメンタルな撮影へと移行させるこの神木は、『動くな!死ね!甦れ!』終景のカネフスキーのようだ。身体コンプレックスもあるだろう神木の、レンズ内に生じた「妄想」が画面進行に挿入され、「桐島」の恋人が、あるいは橋本愛が、あらわにされた肩の肉を、次々に俳優ゾンビたちに食いちぎられるエロチックな移調が刻まれる。むろんここで罪を犯し、罰を受けているのは神木の「妄想」だ。ところがそれは目覚ましい画面展開力とディテールをもつことで、画面に充実と重厚な句点をもたらしてもいて、その意味性をひとつに還元できない。

ところで主要人物中、たったひとり、いるべき屋上から排除されている吹奏楽部部長・大後はどうしていたか。キスを盗みみたことで傷を心に受けた彼女はもう音楽室にいて、「ローエングリン」の部員全員の合奏の一員となっている。じつはその音がずっと屋上の乱雑な出入りを見事に伴奏していたのだった。彼女は「見たことの罪」を「聴くこと、演奏(伴奏)すること」で超えたのだった。

神木の妄想も部員への指示も、実際にはまったく機能していない。気弱で貧弱な部員たちは肉弾戦に飛ばされ、みな屋上に打ち伏している。神木の「謝れ」という叫びにも後ろ髪をひかれた様子はあるものの表面的には無視して、「桐島」の不在を確認したあと闖入者たちは三々五々、屋上から去っていった。そこから「火曜日」の二回目となる。友達からやや遅れて現場をあとにした東出。彼は撮影カメラのレンズに接続する留め輪を見つける。それをどこかに投げ捨てようとしてふと翻心、かたちを丸く整えて、階段を下りるところを屋上に戻り、神木に「落ちていた」と差し出す。この差出しだけが火曜日の一回目では描かれていた。紛失されてしまえばいいと留め輪を一旦は捨てようとした東出の手は火曜日の二回目で捉えられた。手は彼の絶望によって肥大しているようにさえ感じられる。じつはこういう心理作用を吸い込む細部こそがこの映画の美点なのだった。

彼は真心に帰って、その留め輪を神木に返却する。東出はその翻心に滲み出ている真情の「隙間」を神木に突かれる恰好となる。留め輪をつけて連続的に構えられた神木のカメラに、フィルム回転のないままに東出の顔が捉えられる(画面はカメラ主体映像となって8ミリ映像の粒子の荒れをも「懐かしく」かたどるようになる)。その顔には「キスを見せつけたことの罪」の余韻が刻まれているほか、「見ることにたえず熱情をもたなかった本質的な弱さ」までが滲み出している。しかし「見る賢者」神木は、東出の顔や身体のうつくしさ、それへの憧れを、カメラを構えながら語りつづける。やがて自己表現の材料をもっている神木にたいする劣等感で東出の顔がこわばり、泣き顔をみせ、ついには苦しみにあえぐようになる。

この場面を決して、運動部的体格の優位性が、文化部的感性に調伏された「力の逆転場面」と捉えてはならない。「まずく見られた者」が「美しく見られる者」に変貌する、その喜びこそが描かれていると考えるべきなのだ。その喜びを導く者が、まさに神木のように「見る者」なのだった。このとき観客の視線と、神木の視線が幸福に一致している。むろんここでは「見ること=恋すること」という青春映画にありがちな短絡的図式が何重の意味にわたって解除されている。しかももともとこの図式を作品に導入した大後も、前述したようにこの一連では「聴く者」「奏でる者」として画面進行に接続されて、やはり「見ること」から解放されていたのだった。

一旦は留め輪を捨てようして断念した東出の手。一旦は見ていることが最大限に罰せられながら、眼が伏せられて顔全体が吹くことに転位していった大後。そしてカメラを東出に構えている神木。あるいは描写しなかったが、仲のよいとおもわれた東出の恋人の頬を屋上で打った橋本愛の平手。これらが実際は、この生徒たちの愛着の方向があまりにも不如意だった『桐島』のメトニミー単位といえる。それらはいうまでもなく「部分」だが、いま綴ったもの同士の相互性では「隣接」を描いているのだ。それでもともと「金曜日」のズレを孕んだ反復というメトニミーによって話法を開始したこの作品に、より上位次元のメトニミーが実現されたといっていい。

いうまでもなく映画でのメトニミーは、「部分」を省略と飛躍を介在させて細心に語ることに尽きている。逆にいうと「何を語らないのか」が、語られる部分を電磁化するのだ。かんがえてみれば、吉田大八監督は、「何を語らないのか」、その選択が冴えわたる話法の持ち主だった。『パーマネント野ばら』での江口洋介、『クヒオ大佐』での松雪泰子、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の永作博美、彼らは何が語られ何を語らないかが選択されるなかで、サスペンスフルな異形としてその存在をドラマ上継続されていったのだ。そこではそのそれぞれの結果が、幻想的な哀しみや喜劇性に分岐されていったちがいがあるだけだ。むろんこの『桐島』では「語ること」と「語らないこと」の分離は、たぶん身体の痛覚、その赦しといったより高次なものへと向かっていった。その意味で本当に緻密な映画だった。そして見事な「屋上」だった。
 
 

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2012年08月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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