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豊田利晃・I’M FLASH! ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

豊田利晃・I’M FLASH!のページです。

豊田利晃・I’M FLASH!

 
 
豊田利晃の映画ではいつもその寓意性の高さが、そのまま作品のするどい緊張となる。そこでひとつ、共通する作用があるともわかる。寓意が寓意として現れるには、意味とともに空間に、具体的に「閉域」が形成されるほかないのだ。そうして豊田作品は、たとえば「渋谷」を(『ポルノスター』)、「校舎」を(『青い春』)、「富士山麓と東京」を(『ナインソウルズ』)、「マンション内の居住空間」を(『空中庭園』)、「苦悶の神々の彷徨う国土そのもの」を(『蘇りの血』)「閉域」にしてきた。気づくべきは、何の変哲もない空間が、豊田の脚本と演出の力技で「閉域」にされている点だ。となれば豊田的「閉域」は実際には、「内」「外」を弁別する編集作業と相即だとも気づかれるだろう。つまり本当に特権的なのは、敷居(閾)なのだ。それで『青い春』では校舎屋上が、『空中庭園』ではマンションドアが、『蘇りの血』では水面が、意味がこちらからあちらに抜け、生死がまばゆく擦過する過激な浸透膜にもなってくる。

その豊田の最新作『I’M FLASH!』では「閉域」はこれまでになく堅牢な空間として召喚されているように一見おもえる。作品主舞台は、スキャンダルにつながる飲酒運転死傷事故を起こした藤原竜也扮する美丈夫の新興宗教教祖が世間から隠遁する、砂浜に面した沖縄の教団施設で、そこにはしゃれこうべがみちあふれた礼拝堂(その頭蓋骨は沖縄決戦の地を掘り返して収集されたのか)さえあるからだ。

ところが、たぶんこれまでの自分の作風を総括する豊田は、(疑似)宗教的意味にあふれかえっているはずのその場所を、編集によって細分化せず、明白な敷居もつくらず、空間的な空漠(沖縄の海と空が予定するもの)のままにいわば「放置」する。藤原がマスコミから逃れ蟄居する姿には、無為どころか死に誘惑された者の「明るい倦怠」の色彩があたえられ、彼は施設と海のあいだを日々、往還するだけだ。そうして彼はダイビングをしながら、銛銃で海底の大魚を漁ってくる。ところが豊田はその往還にも日々の反復性をもたらすことで、「敷居超え」の感触を禁欲しているのだった。

それで観客は、まずはたったひとつの「敷居」だけに注視を促されるようになる。それこそが教祖・藤原竜也の、絶望と自嘲と気弱と自信が綯い交ぜになり、それらのうちどれが優勢かがいつも混ぜ返される、不思議な多様性を帯びた表情=顔だった。彼はたえず死に装束をおもわせる白服を着用し、その姿のまま神をも恐れぬ倨傲で沖縄の大魚を漁ってくるが、そこに彼の死生観の真意を汲み取ることもできない。「死を恐れるな。死こそが究極の救いだ」という彼の「教義」が作中で散々、繰り返されていても、その印象は変わらない。これは豊田の、一体何の「仕掛け」なのか。

寓意なき寓意、閉域なき閉域、その提示が今回の豊田『I’M FLASH!』の眼目だと次第にその策謀がみえてくる。そうみえてくると、作品の緊張度がとりわけ高くなる。

もうひとつ、「教祖」藤原には「弁別できない属性」が組み込まれている。実際に「奇跡」を体現している超常者か、カネ儲け似非教団の金看板の、手先が器用なだけの手品師なのか、その判断が不能なようにいつも藤原は作品に現れているのだった。つまり彼自身が事実レベルの敷居なのだといえる。

スキャンダラスな自動車事故にいたった経緯(彼は、教団に入信していた自分の妹が自殺したという水原希子のクルマにまずは同乗する)は、ずっと主舞台である沖縄の教団施設の空間に、進行形の時間線=間歇的なフラッシュバックとして縫いこまれる(この「刺繍運動」が、高度に寓意的であるはずの主舞台の閉域性を「閉じさせない」開腹行為にもなっている)。そこに現れる藤原の秘蹟の数々。たとえばダーツバーで深夜の遊びに打ち興じる藤原はダーツが百発百中だし、「あっち向いてホイ」遊戯でも藤原は「必ず勝つ」。何よりも藤原は、「死ぬべき事故で死なない」。かすり傷を受けただけのように見える(彼の「不死性=死亡不能性」は、その後、施設に刺客の中村達也が送り込まれたときに、乱射される中村の銃弾が一発も藤原を射抜かなかったことでさらに増強される)。

ところがクルマに同乗する水原の語りが恫喝の色彩を帯びたときには、藤原はたしかに怯えの表情をみせたようにもおもえるし、彼が煙草の箱から手をつかわずに煙草一本を引き上げ、それに手をつかわずに着火したときも、その奇妙な「技」を、奇跡ではなく手品として強調する気配だった。

いずれにせよ、藤原は奇跡体現者とペテン師のあいだを「点滅」して、その存在の真価を決定できない。既視感がある。寓意的映画の傑作にかぞえられるだろうベルイマンの『魔術師』におけるマックス・フォン・シドーと、その男装の妻イングリッド・チューリンのコンビがそれだ。

もうひとつ伏線がある。髑髏があふれかえる礼拝堂には、すくなくとも聖別されたしゃれこうべがひとつある。藤原自身の父(その父もまた教団教祖だった)の髑髏杯だった。そのコメカミには銃創がかたどられている(伝聞では教団創始者だった藤原の祖父の髑髏ものこっていて、そのコメカミにも銃創がのこっているという)。ここからある予想を観客がたてるはずだ。「死ねない者」「死を永遠に拒まれるという懲罰のなかにいる奇蹟のひと」は、唯一、自殺か殺されることでは「死ねる」のではないか、と。あるいはその意味でこそ死が「救済」なのではないかと。

ひらかれた空間の、ひらかれた寓意性はやがてひとつのかたちをとる。藤原がマスコミの好餌とされることを防ぎ、藤原に送り込まれる刺客を排除するために、松田龍平、仲野茂(元「アナーキー」)、永山絢斗の三人がボディガードとして雇われる。この三人が藤原の魚獲りを傍観する次元では三人はただ無為を体現するだけだ(意味を生産しない沖縄の風光内での彼らの「配剤」、とりわけ微妙に「バラバラな」感触は、北野武『ソナチネ』をまずは継承しているといえる――これに加え、彼らはたえずソウルフードを食べている)。ところが起されたスキャンダルが面倒などころか、藤原にきざしているニヒリズムの感触をも危険視した藤原の実母(大楠道代)が、ボディガード三人に、藤原の殺害指令を出す。「死から拒絶されている者」の兆候をもつ藤原を、凡俗な三人が果たして殺せるのか。作品は、「空間の脱閉域性」にもかかわらず、ここでにわかに緊張を帯びてくる。

殺すか、躱されるかといったそのくだりで、藤原とボディガード三人のあいだに、それでも生じるのは、意外なことに「紐帯」の感覚だ。無為にあえいでいた三人が「殺し」の任務を帯びることで有意化したとき、その「有意」こそが藤原のもとに束ねられる感触がある。それで藤原がイエス、ボディガード三人が全員ユダとなった四分の一の十二使徒のようにみえだす。案の定、礼拝堂を舞台に「最後の晩餐」の気色となる。そうしてブニュエル的(とりわけ『ビリディアナ』的)寓意結晶が起こるかとおもうと、そこで意外や藤原のほうから銃撃戦が開始され、ふたたび閉域寓意の予感が瓦解させられてしまう。豊田の作劇はこのように熾烈なのだった。

その前に、松田龍平が三人という集団のなかから、どのように「個別化」されてくるのかにも留意しなければならない。藤原の表情が価値の多様性のなかを浮遊し、その意味がひとつに定められない、という点は前言した。それにたいし、松田龍平は「暗い無表情」が順守され、しかも科白が最小限である点から、やはり「意味の定められない」熾烈な顔を終始しめしているのだった。その松田と藤原の教理問答のようなものがわずかに二か所である。その後者では藤原がおよそ以下のようにいう。「死が究極の救いなのだから、死は肉体にとって法悦として出現する」。たいして松田龍平はおよそ以下のようにいう。「あなたは死ねばいい」。

礼拝堂の銃撃戦の際、藤原の心臓部をたしかに松田龍平の銃弾が射抜いたはずだった。ところが即死的致命傷をうけたはずなのに、「なぜか」藤原は出血しても「死なない」。彼は追う松田龍平をしり目に銛をもって海へ「もぐる」。魚体に変身するのではないか、という予感をもった者も多いだろう(初期キリスト教ではイエスは象徴的に魚体であらわされた)。いずれにせよ、藤原は海中へ消えた。松田は海を前に、藤原がふたたび姿を現すまで「待機」をしいられることになる。あ、とおもう。この「待機」によって、はじめて待つことの寓意が多義的にしるされ、そこではなんと「海」という巨大なものが閉域を形成することにもなったのだった。

豊田的な終景、その「編集の緻密」がいよいよここから駆動する。海上をエンジン付きの小舟で探索する松田龍平。彼は、白いシャツの胸をおびただしい血で染めながら磯に安らっている藤原を発見する。藤原は挑発的に遠景の松田龍平に手を振り、彼に近づくべく海に飛び込み、潜水を開始する。松田龍平を上空から捉える画柄には何の閉域も形成されていない。しいていうなら、中平康『狂った果実』終景のうつくしさが縮減的、時代錯誤的に反復されるだけだ。

いっぽう潜っているほうの藤原から見上げられた、船底ごととらえられた「水面」は、藤原のことばによって(テレンス・マリックの映像のように)「敷居」化されている。すなわち、移動中の前方は変化と無変化の点滅を殺伐と繰り返すだけだが、海底の暗冥から見上げられた前方は上方と光の位相をあたえられて、かならず「希望」の敷居となるのだと。その「敷居」をいわば争奪するように、松田龍平と藤原竜也、ふたつの「龍=竜」がもつれあい、しかもその帰趨が「見えない」というのが、『I’M FLASH!』が最終的に仕掛ける「描写の次元」なのだった。しかも藤原が死ぬことを欲しているならどうか。あるいは松田が殺しを赦しと捉えているならどうなるのだろうか。

作品がことばによって語ることとは別に、不可知のレベルに、この作品の終局がひろがっている。あるいは、藤原竜也の引き起こした自動車事故(事故原因は「キス」だったと、いま筆者が描写した藤原/松田の「闘い」に織り込まれるフラッシュバック編集で、これまたスリリングに語られる――むろん「キス」とはユダにふさわしい所業だった)で脳死状態にいたっていた水原希子を「復活」させる奇跡をおこなった「神の手」の持ち主が誰だったかでも、じつは解釈が一義的にならないよう、作品は繊細な配慮をおこなっている。

『I’M FLASH!』の形而上的意義は、以下のながれに尽きている。整理しよう。まずは「敷居」こそが希望だということ。その敷居は生死の弁別不能性をも付帯している。その「敷居」をめぐって闘いが起こり、闘いはそれら当事者を閉域のなかに一旦組織するが、この閉域化はむしろ実際は希望にこそ関わっている。ここまでを捉えたとき、閉域を形成する編集をこの作品でずっと回避して、最後に敷居を提示した豊田の聡明さに打たれるほかはなかった。水面は『蘇りの血』の反復であるとともに、「それ以上」の顕現なのだった。

やがて往年の鮎川誠の「I’M FLASH!」をチバユウスケ、中村達也らがカバーした主題曲のリフが、藤原竜也の姿を最終的に表示するような感触で耳に刺さってくる。《俺は嘘つきイナズマ/パッとひかって 消えちまう》。しかもこの歌詞は「DVDを返してくる」とたったひとこと語っただけで作品ほぼ冒頭に果ててしまった柄本佑をも表象するのだった(あるいは逆説的に彼こそが「神」?)

ラストの多義性とともに、ぜひこれらの顛末は劇場でご確認を。九月一日より、テアトル新宿&ユーロスペースでロードショー公開。

 

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2012年08月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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