赤堀雅秋・その夜の侍 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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赤堀雅秋・その夜の侍

 
 
今日10時の試写で観た、演劇の新しい才能、赤堀雅秋の初映画監督作、『その夜の侍』がすごく面白かった。タイトルからすると時代劇を類推されるかもしれないが、純然たる現代劇。 妻をひき逃げされた堺雅人が、ひき逃げ犯・山田孝之への復讐を志す物語と一見把握されながら(つまり被害者家族の憤怒に迫る藤原健一『イズ・エー』や、日向寺太郎『誰がために』と一見同列とみえながら)、経験したことのない「内実」になっていた。

まず、赤堀のしつらえる「科白」が、演劇的構成力と凝縮ではなく、映画的な日常リアルをつくりあげる。それで二者(以上)が対峙するとき、コミュニケーションのやりとりが膠着し、やがてはコミュニケーションの肉弾戦の帰趨すら予想不能となり、結果、自他の弁別まで消え去ってしまう。

振り返ってみて気づく。冒頭近くの「ひき逃げ」シーンのほかは、作品の禍々しさに反して、不思議なことに生起寸前だったすべての死が回避されているのだ。こういうべきかもしれない。「暴力によって、暴力連鎖を回避する」、新しいコミュニケーション理論の映画だと。対峙そのものによって意外性の引き金がひかれるという点では井筒和幸『ヒーローショー』と相似的でもあるが、すべてが裏目に出て慄然とさせる同作にたいし、『その夜の侍』ではその裏目出現がまるで身体の作用そのもののように「不発」になる。

カメラは月永雄太だからサスペンスフル、エモーショナルなのだが、じつは対峙の成り行き自体(不透明性と無駄を抱え込んだ科白の応酬)がサスペンスフル、エモーショナルなのだった。それで、「一場」の長さのもつ演劇性と同時に、生態学リアルの映画性が画面のすべてに舞い込むことになる。

山田孝之が次々に「悪」「暴力」の類型を提示しているのは周知だろうが(現在の公開作なら『闇金ウシジマくん』)、論理では形容できない類型が、この作品のもつアンリアル-リアルを架橋するように続々出現してくる。谷村美月、山田キヌヲ、安藤サクラ、田口トモロヲ、そして圧巻は「平和主義者だか回避主義者だかわからない臆病者」新井浩文だ(だから山田と新井の競演のかたちは『ウシジマ』とまったくちがう)。

膠着的で、拳から浴びせられる痛みをずぶずぶ飲み込んでゆく泥、のような彼らの属性が、最後、堺雅人自身にも転写されて、作品は不思議な大団円を迎える。泥レスのような堺と山田の(二者弁別不能の)肉弾戦ののち、糖尿病の役柄の堺が、好物だったはずのプリンと自分の頭部とのあいだでやはり膠着的な肉弾戦を繰り広げて幕、となるのだ。二物は二物であるがゆえにすでに救いだ、という崇高な結末が一方で存在する。同時に、膠着が膠着ゆえにすでに解決だという価値逆転もある。

このことは科白の感触にも転写されていて、典型が堺の亡妻・坂井真紀が残した留守録メッセージと、ホテトル嬢・安藤サクラが雇用主に告げる「時間延長報告」の混線気味の電話かもしれない。

11月17日公開のこの作品は、どこかの媒体に書くつもりなので、以上の備忘録のほかは贅言をついやさない。演技、作品法則などの具体的詳細についてはそちらに書く。作品評掲載誌については、またリマインドさせてもらいます。



夏休みの東京滞在は今日をふくめてあと二日。映画漬けとゆきたかったのだけど、ゆるしてくれない運命の問屋さんもいた。結構、いろんなひとと飲んだりして、それでもトータル15本くらいは映画を観たかなあ(試写会と劇場の双方で)。良いとおもった作品はこの欄に書いたほか、試写で観た北野武『アウトレイジ・ビヨンド』については「図書新聞」に作品評をすでにメール済み。それと久しぶりに観たアン・ホイの『桃さんのしあわせ』は書かなかったけど、「身体のスピード」が画面の前後で、あるいは映画の進展軸で刻々変容する、「音楽のように」素晴らしい作品だった。ギャグも絶品。

東京滞在がのこり僅かとなってさすがに淋しい。その後は女房と東北をゆるゆる旅行しながら、九月初旬、帰札します。帰ったらすぐに「教員モード」にチャンネルを戻さないとね。
 
 

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2012年08月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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