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綿矢りさ・ひらいて ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

綿矢りさ・ひらいてのページです。

綿矢りさ・ひらいて

 
 
綿矢りさ『ひらいて』は優秀な小説だ。『夢を与える』『勝手にふるえてろ』いらい感じていた彼女への不信(とはいえ『かわいそうだね?』は未読)が一挙に吹き飛んだ。以下は箇条書きメモで――

●もともと彼女の小説は『インストール』『蹴りたい背中』からしてそうだったが、小説の基本、「読者がヒロインに感情移入すること」のハードルを高度に設定し、それに創作のすべてを賭ける点に英断と清々しさがあった。それでヒロイン=主人公に「奇妙な兆候」が連打され、それにたいしても読者が共感をしめしたとき、世界観が拡大されるという功徳が生ずる。しかも少女性哲学という狭隘な前提を外さない。かんがえてみればわかるが、そうした作風は「個性」であっても、その実現は成功率が覚束ない。つまり綿矢小説は、ひとつひとつが成功するか否かかがわからない「難関突破のうごき」として招来されてくる、ということだ。その性質はこの小説のヒロインそのものに似ている。となると、綿矢は『ひらいて』で、自己再帰的な創作を敢行したともいえるだろう。

●この小説のヒロイン「木村愛」にあたえられた負荷は、自己中心性と、行動制御能力の欠如(後者については、深夜の校舎で、自分の恋する者がもっている手紙を闇雲な行動力で盗んでしまうというくだりに、まず描写される)。それはすべて彼女のけっして鈍くない美意識からくみ上げられた、具体的人物の行動と身体の細部への読解から生じた「愛」が、狂奔にいたって構成されてくる内部呪縛的な負荷だ。とめられない愛着は、自己承認と引き換えに、相手を害するヒステリアにまで拡大する。増村保造映画での最高の若尾文子をおもえばいい。それは「破局」を約束され、その破局の瞬間の、トラウマのような美を予定される――これが旧来の表現作法だったとすると、綿矢はその破局美の瞬間にヒロインに内省(それでもそれは「ままならない内省」に終始する)という凡俗化をあたえ、強引に「物語」の筋道を転轍、結果、曲線化によってあらわれてくる物語の厚み(それは「領域」と名指していいものだ)に、ある種の世界化までもほどこした。したがって読者が「読む」ものは、予想しえない物語の成り行き(これはむろん小説上の美点だ)とともに、事後的に浮上してくる、対象化の難しい「領域」そのものということになる。これがたとえば岡崎京子の『リバーズ・エッジ』にもあったものだ。

●「木村愛」が愛着したのは、「西村たとえ」というクラスメイトで、彼は勉学優秀でクラス内の最少の義務ともいうべき最少の交友を実現しているが、たぶんその最少性によって自分の周囲に稀薄性のバリアを築いている。彼の良さは少数者にしか伝播されない。やがて小説の終わりちかくで彼の境遇も重い負荷を帯びているとわかるが、この「たとえ」という奇妙な命名が、命名された彼自身とヒロインとが最初に接近するときの話題となる。それを漢字化すれば「譬」と「仮令」のどちらになるかというヒロインの着想は、小説上は放棄される。ところが読者の胸の奥にこの命題は沈んでゆくだろう。たぶん答は「譬」と「仮令」の両方なのだ。ところがそれを両方というためには、愛する者「木村」、愛される者「西村」の姓で、「村」が脚韻を踏んでいるという発見が伴われなければならない。「愛」が「たとえ」の同属(「譬」)となることで、はじめて「愛」にとって「たとえ」が運命上の「逆接副詞節」となっている構造が露呈する。それにしても「愛」と「比喩」の相関は、もともとは新川和江と牟礼慶子という女性詩人の問題だったのに、それが30歳の女性小説家の主題へ飛び火したのは慶賀、という気がする。

●綿矢は『蹴りたい背中』の時点では、教室の窓際にふくれあがるカーテンがつくる「外部世界ぎりぎり手前の敷居=緩衝地帯」といった、いわゆる「空間」を、テマティックに反復変奏してゆく自覚的巧者だった。ところがテマティスム批評の実践者・渡部直己がそれを指摘せず、箸の上げ下げめいた繰り言を彼女に献呈してから、たぶんテマティスムによる自己武装を放棄する大胆さを綿矢は志向していった。結果、本作に現れてくるものが、人物のからだがつくりあげる雰囲気、知性、聡明さ、隣接的連続性、細部の入れ替え可能性、性愛狂奔、拒絶、肌やかたちの決定性などで、しかもそれらを人物の作用と作用域のあいだの運動にまで高めることが目標だった。そういうものこそがテマティスムを無効にする。なぜならそれは無器官的で音楽的で、なおかつ分節性から逃れだそうとする脱線だからだ。この小説では、からだがからだの作用となり作用域となるくだりの描写がすべて良い。理由は内面と外在的物質性の境界が溶け出しているからだ。綿矢りさはドゥルーズを参照しているのではないか。

●小説の大筋は、「西村たとえ」に一方的に懸想する「木村愛」が、やがて「たとえ」に届いている手紙から、校内同級生で隠れて交際している「美雪」(彼女には糖尿病罹患と美少女という「負荷」があたえられている)の存在を振り返り、「たとえ」に思いを遂げられない「愛」の苦境が、あっという間に、「美雪」の処女の身体を同性愛的に籠絡してしまう、という飛躍線/交叉線として、まずは表されるだろう。誰もが卑劣、道義的逸脱と受けとめるだろう、この愛(欲望)の停止不能性と自動的方向転換の意義を、ヒロインが定位しようとして苦悶し、その内面描写に属するものが小説の「地の文」、もっというと「法則」にすら転位してしまうことが、小説表現上の驚愕となる。「愛」と「美雪」のレズビアニズムは、「美雪」の名前どおりにうつくしい述懐によって、その欲望が美と呼ばれるしかないものに溶解される。あるいは「美雪」のからだを翻弄しながら同時に慈しんでもしまう「愛」の手管は、「愛」自身に怖気をふるう鳥肌のミソジニー、むなしいというしかない自己鏡像を刻印しながら、交歓にゆらめく「美雪」のからだを「領地」(=場所)として「愛」がかんじてしまうことで高度の定義不能性、白熱を帯びるしかない。そのうごきがすべて「文章」に転化されている「批評性の乗り越え」が圧巻なのだった。結果、性愛描写は、抑制的、慎み深いポルノグラフィを典型させながら、前言したように「同時に」ドゥルーズを読んでいるような錯綜感をあたえてやまない。少なくともこれを綿矢の同世代女性のなかでの最高の「詩文」と形容してもいい。

●物語の細部、描写の細部に立ち入る余裕がないが、小説が交叉=キアスムを基盤に置いていることは理解されたとおもう。メルロ=ポンティのいうように、「みること」は「みられること」を基盤に置いた交叉関係であり、そこでは「あいだ」が問題になる。ところが「たとえ」を「みること」を焦がすまでにした「愛」は、「たとえ」から「みられない」非対称性に悩み、まずは役柄(愛を施す者/施される者)の交叉、対象の交叉を企てるという、狂気にちかい行動を起こすのだ。ただし「わたしはAが好き。ところがAはBが好き。よってわたしはBを愛する」という論理が本当は狂気でないのは自明だろう。そうでなければ信仰がすべて狂気の名のもとに矮小化されるからだ。つまり「愛」は自分の行動の崇高性だけを対象化しない(これがこの小説を小説にする歯止めとなっている)と読み替える権利が、読者にあたえられている。この「あたえ=贈与性」が『ひらいて』を優秀な小説にしている原点なのだとおもう。

●小説には「美雪」の手紙の引用が頻出して、地の文を溶かす聖体の役割があたえられている。ただし「愛」が盗みみたその手紙は、すべて「たとえ」に宛てられたものだった。愛する者の恋人を、性差を問題視せずに寝取ることで愛する者を間接的に得た気色の「愛」は、なぜか「告白」という制度の熾烈さにも染められていて、自分の策謀のすべてを、「たとえ」に、やがては「美雪」にも語ってしまい、いわば聖なる位置にいる彼らから否まれ、同時に深甚な自己懲罰のモードにも突入してしまう。そうした確定性がまたもや崩れだすのは交叉によってだ。「愛」宛ての「美雪」のうつくしい手紙文が文中に挿入されたのだった。整理しよう。「Aの愛するBを愛することで、Aへの愛の譬とする」という「愛」の主題は、「AへのBの手紙を盗みみていた者にBの手紙が届く」という「空間」の主題に転位する。それはもともと「B」が空間だったからだ――『ひらいて』の伏在させていた哲学はまさにそういうことであって、結果「愛」の自己閉塞・自己懲罰は、いわば「美雪」「たとえ」双方から場所化を施されて、不可思議な留保と熱情を接続させたまま、「開放される」。なぜなら「場所」の本質は「ひらくこと=開放」だからと、さらにここで同語反復的に念押しすべきだろうか。題名『ひらいて』はこの感慨に着地する。むろん「ひらく」は俗用では「漢字をひらがなにする」の意味もあって、「たとえ」の名が終始ひらがなで書かれている点にも響きあっている。ただしこれらはテマティスムではない。前言したように、「再帰的自己批評性の乗り越え」ととらえるべきなのだ。

●いうまでもないことだが、現代女性文学の今後の方向性を提示したのは、小説ではなくマンガ、事故遭遇直前の岡崎京子がしるした『リバーズ・エッジ』だった。その「続篇」を書くことで、若手の女性小説家の「文学」が連綿とつながってゆくはずだ。その最初の達成が川上未映子の『ヘヴン』だったとすると、この綿矢りさ『ひらいて』が第二弾という気がする(ただしここには岡崎京子『ヘルター・スケルター』の隠れた最高の主題だった「交叉」も継承されている)。交叉そのものが実際はメルロ=ポンティをもちだすまえに、以上しるしたように最高形態の「空間」なのだ。そうしたことの前提は、ヒロイン「愛」が最後の微妙な転調を迎える直前、母親から朗読される次の聖書の一節に、「たとえ」のように凝縮されている。いわく――《あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります》。『ヘヴン』終結部に引用されてもおかしくない現在的な金言だろう。
 
 

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2012年08月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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