日本映画オルタナティヴ(仮) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

日本映画オルタナティヴ(仮)のページです。

日本映画オルタナティヴ(仮)

 
 
「女房帰京後の鬱」、だとか能天気なことがいえなくなった(そういってしまい、水曜夜の紅野謙介先生連続講義歓迎パーティで散々、同僚の中村・押野両先生からからかわれたりもして、マゾ笑いしていた)。北大からの助成を承認された彩流社刊行の企画中書籍『日本映画オルタナティヴ』(仮)の大量ゲラが送付されてきたからだ。

後期の授業準備もあるので、ゲラチェックとその後の「緒言」(もしくは「あとがき」)執筆をこの週末までには完了させたい。何しろ、小さいQ数にびっしりと組まれた版面が400頁ちかくもある、出版動向も顧みない向こう見ずなゲラの物量に圧倒され、昨日から起きているあいだはずっと格闘している。

まあこれは、ぼくの『日本映画が存在する』『日本映画の21世紀がはじまる』につづく、日本映画にかかわる時評集(レビュー集といいたいところだが、単行本未収録だった「ユリイカ」などへの長稿も所載してある)。このかたちの書籍を連続刊行しているのは、ぼく以外は山根貞男さんだけだから、まあ誇らしいことでもある。以前とちがうのは、仮題にあるように「オルタナティヴ」の流れを志向している点で、メジャー公開の邦画の評は過激にもすべて割愛、一般の邦画ファンには馴染みの薄い、映画学校(日本映画大学関連のドキュメンタリー/映画美学校関連のビザールな講師作品と生徒作品)がらみの作品などの評が満載されている。

怪物的な構成で、大学の教員が通常俎上にのぼせないエロチックな問題作がとりあげられているのはたしかだ。判官贔屓とか偏屈とかの作者の属性によってそれらの作品が選ばれているのではない。映画性が更新されているがゆえに、論じざるをえなかった作品がたんに論じられているだけだ。

そう、個々の評は、その作品に内在する特有の作家性(媒体更新性)を摘出するために書かれている。諸作が初回的に現れてきたから選択せざるをえなかったアプローチだが、結果、先験的な「作家主義」という安定的枠組みまでもが剥奪されてしまっている。だから前提がわかりにくいかもしれないが、ゲラに接すると、われながら、自分の批評(レビュー)はおもしろい、ともおもう。思弁性をふくめた批評密度の高さが、作品の具体描写の丁寧さと「相殺」されて、全体が刺激と緩衝のアマルガムになり、それが刻々うごいている。この動勢が「生きもの」のように妙な魅惑をもっているのだった。

映画研究は、いまアカデミズムの分野を中心に大変動が起こっている。廣瀬純、金子遊、平倉圭、三浦哲哉など、中村秀之、長谷正人の世代を継ぐ気鋭の映画学者が続々浮上してきて、アカデミック・アプローチの手法に過激な多元化が起こっているからだ。こうした映画研究が映画公開シーンに即した批評と相即すべきなのだが、(新作)映画への批評は、映画観客への配慮がすぎるからか、従来よりもさらに頽落してきている感触がある。この分野で孤塁を守る責務があるのが、自分ではないか、とさえふと考えてしまう。ともかくは「鬱」になど陥っていられないわけだ。

担当の河野さんと相談すると、最近ブログ(SNS)などに書いたものも少ない頁に収まるのならゲラ上で増補してもいい、という温かいお返事。よって評判のよかった『闇金ウシジマくん』『桐島、部活やめるってよ』『I’m flash!』『その夜の侍』評、さらには「図書新聞」からいずれでる『アウトレイジ ビヨンド』評も加えることになった。これで2005年ごろから現在までの自分の邦画レビューが、オルタナティヴな傑作という流れではほぼつながることになった。いずれ、目次をこの欄にペーストしようか。

それにしても、読書の合間に、暇にまかせ「詩」を書き、それを読みかえしてなどいると、音楽性に循環要素があるためか鬱が更新して、時に危険信号まで灯る場合がある。評論はちがう。読み直すと、思考の速度感覚にあふれた直線性にこそ対面させられて、むしろ「賦活」がもたらされるのだ。しかし自分の書いた評論に鼓舞されるっていうのも、単純で能天気な構図だなあ、と恥ずかしくなる。
 
 

スポンサーサイト

2012年09月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する