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文章の種類 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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文章の種類

 
 
秋のいずれかには出したい、彩流社刊『日本映画オルタナティヴ』(仮)のゲラ読みがつづいている。あともう少しなのだが、今日は朝からお腹の調子が万全ではなく、少し打っちゃっていた。

ともあれゲラを読み進めてゆくうちに、いろいろな感慨が湧きおこる。第一におもうのは、映画評論(とりわけ新作映画レビュー)というのはヘンな文章ジャンルだなあ、ということ。これほど複合性を盛られることで生き生きする文章ジャンルは、実験性もそなえた小説以外に、ほぼ見当たらないのじゃないか。まるでキメラ的生物なのだ。

哲学的文章なら、基本的には概念規定からはじめて、材料が揃ったところで材料を交叉させ、以後、踏破距離のながい思弁の直線性を目指すのが基本だろう。先行する思考は明示的であれ暗示的であれ文章の展開に内包される。これがないと哲学性という同定のなかで哲学を更新することができない。ただし飛躍や詩文性や断片が用いられたり、歴史学との接続が図られたりして、哲学の異貌、その前面化が強調される場合も現在は多い。

それは有意性自覚のもとに書かれざるをえない。つまりたとえば「正義」を主題にした哲学はメタ哲学にちかく、そういうふうに哲学的アプローチがおこなわれるのは、哲学分野にすでに危機意識がふかく根ざされてしまったためだ。思弁についてのみ思弁的文章が連続してゆく哲学の自己再帰性には、思考と文のあいだにズレが生じていないという思考者の信念が裏打ちされている。

だから「身体」「行動」「同一性」「真理」「場所」「他者」「説得」「責任」「災厄」「科学」などをかんがえる哲学は、それらを透明化して透明性の領域に打ち返してゆかなければならない。具体性はいっけん捨象されるが、哲学は透明性そのものを世界の素地と見極め、そのなかに思考を浸潤させることで、読者のいまいる世界に変容や確証や違和をもたらす。そういうことのできる作用そのものが有意性に結ばれている。

詩はどうだろうか。これはもう今はその作者の詩観にかかわって、まちまちの傾斜がある、とみてとれる。だからぼくの場合だけかんがえてみよう。

詩は、一般にかんがえられているだろう詩の、「詩らしさ」から引き離されなければ驚愕を生じず、ぼくなどは読む動機がなくなってしまう。「詩らしさ」とはたとえば手垢のついた詩語、表示形式、語法などで、まずはそういうものの不在を見きわめ、ぼくなどはその詩と付きあうことが決まる。ことばにかんする感覚にまずは信頼を置いて、それから読みだすわけだ(ということでいうと、最近賑わってきたツイッター連詩にほぼ魅力をかんじない。詩語が安直につかわれるいっぽうで、語法が弛緩し、140字という枠組に向けての緊張した内在展開が感じられないのだ)。

ひとの書いた詩をそう受けとっていれば、自分の書くものにも自制が生ずる。いろいろあるが、ぼくの最近書く詩なら、気をつけていることがある。展開すれば膨大な語数を要する哲学的思弁を1フレーズでいってしまう蛮勇を発揮する。フレーズ内の語間距離には短詩形文学の達成を組み入れ、フレーズを「冷やす」「遅らせる」。飛躍のみならず飛躍を緩和する「つなぎ」部分を、ダレ場としてではなく鑑賞されるべき中心部分に置く転倒を自演する。叫ばないから構文性は遵守されるが、それでもトータルが「歌」になるよう音韻や思考や情の「配分」をおこなう。たとえばまあ、そんなことだ(作者にはこのていど以上の具体的注釈が通常書けない)。ともあれ詩は、書くことのオルタナティヴと位置づけうる。

このようにアプローチをこころざしたとすると、詩もまた面倒な「複合」となるが、内実はそうであっても、表面はそうかんじさせない詩が、もう年齢的にはこのみで、だから実際には「複合」をつくりだしてそれを読者に直接訴える意識、みたいのはあまりない。詩は自分にとって「手許の内出血」みたいなもので、映画評論のような、「読者にたいする出血」とは位相をおおきくたがえている。

それでようやく、いまゲラで読んでいる映画評論のはなし。

素朴な発現では、映画評論は「対象の説明」と「書き手の印象」の「複合」となる。この形式なら、200字でも「映画紹介原稿」が成立してしまう。いま女性雑誌のレビューコーナーなどではこの手の文章が多い。ではそれを出発点として、一万字以上の映画評論が書かれる、とするならどうなるだろうか。

映画研究文なら、主題設定のうえで、諸作品の論究範囲を決め、先行研究の水域をさだめ、そのうえを航海してゆけばいい。そのとき作法としては、さきにぼくの書いた哲学的文章のありかたも半分ていどは準拠されるだろう。この「半分」というのが大切で、結果、映画研究文では、透明性と具体性とのせめぎあいが起こり、読みつけているひとには自明だろうが、そこから美的感覚すらすぐに看取できるものがある。たとえば引用文献一覧なども学術の精確性のみならず美的感覚にさえ寄与するのだ。

いま公開される一本の映画、それをめぐって一万字以上の考察を、紹介意識も捨てずにおこなう場合は、そのなかにもっと雑多なものがうごきだす。

もともと映画体験とは、ショットという単位がどう結ばれ、それに音声がどう付随して、世界の具体性がどう加工(仮構)されていったかを「鮮烈に記憶する」ことでしかない。このときの記憶対象とは、実際は19世紀に萌芽したフィルム素材と上映手段の、歴史的にしてしかも「恣意的」な技術の融合として成立したものがもとになっている。その出自もいかがわしい「融合」は、映画に、演劇を中心としたいろいろなものとの融合をも付帯させてきた。転写というレベルでいえば映画のなかに裸になっているのが演劇とひとまずいえようが、実際はたとえば、映画は俳優の演技をどう貧弱にみせないか、その選択の体系でもある。俳優のうつくしさ、構図、光、カッティング、劇伴音楽など多様なものがそうして裸の演劇を分解してゆく。

映っていることじたいの強度と、映されている方式じたいの強度が分離できないもの。それを記憶するということは、記憶そのものに融合の形式を強圧的に導入して、惑乱をみずから愉しむことにつながってゆく。

長い映画評論は、それを書くのだ。よってさらなる「融合」が起こる。その融合は、一物を一物以上の不確定な何かとして把握し、それで一物までもを世界化する。というなら、古代インド思考式に、もうこれを「融即」といったほうがいいかもしれない。この一を一と定めない融即のなかで、皮膚や悪や鋏や矩形やキャスター付き大台と、哲学との不測な連接が起こり、書くことそのもののオルタナティヴがこれまた生起するのだ。その力動の原資が、映画の構成要素の雑多さにある点に留意しよう。

物語、俳優のからだと顔、しぐさ、うごき、光、構図、声、編集つなぎ、先行ジャンル、俳優や監督の先行作品、画面進行から透けてくる脚本と現場のようす、人物の位置関係、変容と展開と反復の要素、音声と音楽の葛藤、感覚にあたえるざらつきと滑らかさ、観ているあいだに生じた自分の恥しい劣情や泪、あるいは逆にその映画から触発された哲学的思弁……およそ記憶すべきものの目録はそのように微細にわたるだろうが、それを観客は小分けせずに大きな融合状態として受けとめる。映画評論はそれらを、分離的(分節的)・整序的に打ち出してゆくしかない。それが「分析性」の保証となる。

ともあれバラバラな並列となってしまいがちな諸言及を、段落分けをつうじた多彩を確保しながら、最終的にいかに直線化してゆくかが映画評論の「技」だろう。ぼくなどはそうした整序をつくりあげるため、作品の細部を画面生起順にとりあげ、それで物語紹介を言外の接着剤にしてしまうことがかなり多い。結果、書かれている素材がすべて当該対象からもちだされたもので、しかもその手順も当該対象に依拠して物語的なのに、「取り出しかた」だけに自分の気づきやこのみの入った、つまり自他の複雑にからみあった「融合」がうかびあがる。これを「再上映」という向きもあるが、ともあれ自分のものとはまったくいえないものから、「自分(の思考/の好み)」が、厚顔無恥にもつくりだされるのだ。そういった倒錯的な文章の連鎖こそが、正しい映画評論集(レビュー集)の組成といえる。

今回のぼくの評論集は、昨日の日記で前言したように、現在の日本映画の「オルタナティヴ」の鉱脈を追っている。ちいさな製作規模を逆手にとり、映画性を更新した刺激的な作品を追走した結果だ。それらの多くは、融合性を高めたことによって画面展開がある種「陰謀」の様相を呈していたり、ドキュメンタリーなら「場所」と「私」に区別のなくなる融合が今日的に起こっていたりしている。映画の既存性にそのように叛旗のひるがえされるのは、予算的な疎外を、生きている知恵が跳ね返そうとしたからだ。映画評論はそうして知恵の「生き生きとした感触」を、みずから動物的な「生気」を生きることで転写しなければならない。そこでは模倣にこそ有意性があるのだ。むろん多様なものの模倣なのだから、たとえば一本の映画を物語に縮減することなどありえない。

ともあれぼくの映画評論集は、レビュー集でもあるのだから、通常ならカタログ的に、どこから読んでも大丈夫です、というべきものだ。むろんそうして読まれれば、すべての文章が、映画の鑑賞、レンタル、再鑑賞、それからそれをどう把握するかで読み手の指針にもなるだろう(だから基本的に批判文章を収めていない――というか、そういうものはもともと書かない)。

ところが今回は「この映画、何?」と多くの読者がおもうような作品の評が、それ自体が「作品的に」ちりばめられている。たとえばビザールなもとの映画とおなじように、書かれた文章も思弁的・展開的にビザールなのだ。となると読者は、映画評論の本来もつ多様な射程を感知するため、最初は一気通貫的にすべての文章を縦断し、そののちに自分の観るべき映画を策定することがもとめられるのかもしれない。

まあ、本としてはハードな設定だ。映画評論集を有機的な連続性をもつ書物にまで鍛えあげるのだから(そのための収録文章の取捨選択だった)。とりあえずいまオルタナティヴな映画のスタッフ・俳優までふくめた作り手が、映画学校の在籍者・卒業者もふくめ二千人ていどいるとする。そのうちの半分にまでこの本が浸透して、あとプラスアルファがあれば、この「奇書」も採算に乗る、という計算が、ぼくには(それと担当編集者には)あるのだろう。

こう書いてアタマがすっきりした。夕飯食材を買いにいったあとで、ゲラチェックを完了させようか。「緒言」もしくは「あとがき」は、この文章と昨日の文章の「複合」になるかもしれない。これは明日、手がけよう。あいた時間ができれば、一本、気になっているDVDを観ることにしたい。
 
 

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2012年09月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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