高村武次・佐久間ダム総集編 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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高村武次・佐久間ダム総集編

 
 
昨日、丹羽美之・吉見俊哉編『岩波映画の1億フレーム』(東京大学出版会)を読み終わった。教育映画、科学(啓蒙)映画、PR映画など、多面的な初期岩波映画の製作活動に過不足なくスポットを当てた好著だった。扱い時期としては羽仁進が演出デビューし、羽田澄子が一本立ちするまでなのだが、本は大きくいうと、生存者によるオーラル・ヒストリーと、メルクマールとなる作品解析の二本立て構成のつづく展開となっていて、全体に均衡美もある。そのうえで、フィルム保存とその活用に向けての意義をも打ち出す社会性も具備されている。

この本(函入り)には本文が言及するうち計8本の作品を収めたDVDが併入されていて、本体読後のいま、順にDVDでその作品を観ているところだ。うち、まずは、高村武次が演出した『佐久間ダム 総集編』に圧倒された。

飯田線沿線(飯田線の敷設にむけて沖縄人や被差別民が結集され、過酷な労働によって多くの作業員が死亡した因縁の地勢だ)に並行する天竜川をせき止め、つくられた佐久間ダムは、高度成長期をエネルギー面で導入した象徴的な大規模ダム。着工開始から完成までを岩波映画はずっと現場に密着して追い、その過程は『佐久間ダム 第一部』(54年)から『同 第三部』(57年)の三シリーズとして段階的につくりあげられた。やがて、日活の劇映画興行の併映作品として利便性を高めるため、『同 総集編』(58年)がまとめられる。

この『佐久間ダム』の現場は実際のゼネコン、電力会社総出の作業も過酷ならば(納期短縮のつよい要請があって、安全対策をしながらも昼夜をわかたぬ突貫作業がしいられた)、撮影作業も過酷だった。ぼくは岩波映画に入った早々の黒木和雄さんがこの現場に駆り出され、危険と疲労で絶望的な思いをした旨、むかし聞いたことがある。

崖を切り崩し、同時にダムの基体となる天竜川の水底を作業域にするため、水路迂回のトンネルを掘削し、この作業が完成をみるまでが『第一部』で、そのフィルム原版は長らく『総集編』編集と引き換えに紛失されていた。ところがやがて原版が発見される。それで『第一部』と『総集編』を比較すると、迫力ある発破爆発が連続してゆく『第一部』が「ダムをつくる」映画なのにたいし、コメンタリーを整序して、ダム完成までを時系列的に圧縮した無駄のない『総集編』が「ダムができる映画」にすり変わり、映画的強度が減った、という(藤井仁子さんの論考)。2ヴァージョンをじかに比較できた立場からの感慨だろう。

ところが『第一部』との比較を欠いたまま観た『総集編』もぼくには堪能できた。劇映画である熊井啓『黒部の太陽』との類推から、高度成長礼賛作品とも印象されるかもしれないが、妙な言い方をすると、『佐久間ダム 総集編』は、悪夢に接して脳みそが発汗しながら、それでも観ることに把捉されつづけるサスペンス映画の様相があったのだった。

この作品の「映画の力」とは何か。まずは評判を呼んだ『第一部』(96分の『総集編』に20分弱組み込まれているという)の発破爆発撮影にあきらかなように、「作業」をそのまま撮影対象とした撮影行為が、対象にたいして至近であることがあげられるだろう。作業現場との折衝と了解があってのことなのだが、発破で飛び出してきた粉塵と瓦礫が撮影レンズをそのまま覆ってしまうような至近性は、危険と引き換えになっていて、その撮影者の身体性が観客にそのまま伝播するのだった。

ただしこの内部(懐ろ)に「分け入る」、そのまま穿孔的とも呼びうる撮影は、たとえば作業員の膝あたりから作業中の彼の顔を至近仰角するカメラワークなど、もっと微細な個所でも堅持されている。それはダム作成にともなう数々の「穿孔」を、熱気を帯びたカメラがそのまま憑依的に移しとったからといえるだろう。カメラの動機に自己抹消的な「狂気」が混ざっているのではないか。そうした疑念がまずはサスペンスフルで、それが『第一部』の凄さの印象にも直結しているのではないか。

発破作業の転写が作業過程上減少してくる『第二部』以降を組み入れた『総集編』では、ダム予定地の基礎工事を終えたあとの発電所の建設や、コンクリートによる整形などに主軸を移してくる。そのとき、『第一部』で捉えられた「機械」以上に「機械」の多様性が画面内に猖獗してくるのだった。レール、パイプ状のもの、ベルトコンベア(瓦礫を吐き出す)、クレーン、ワイアー……それらが内臓のように連結され、「機械状」がそれ自体で有機的な労働をおこないだすような錯視が起こる。

いわば「機能」と「形象」が一体化したそれらの機械群は、その円形なり線形なり斜面美なりをそのまま形象に発現している。とりわけ、二段に組まれ、前面に掘削工夫を鉄砲隊のように配した巨大な前進掘削機「ジャンボ」は、高橋洋『旧支配者のキャロル』のクライマックスシーンに出てくるキャスター付の巨大な「イントレ」のように、それ自体で自律性をもつ悪夢的な自動機械のようにみえた。これは対象「内在的な」カメラポジションの選定と、考えられないほどの労力と費用をつかった照明、それらの効果の賜物だった。

このとき、機械的な「形象」が意外性をもって短い時間単位で展開されてゆく、いわばフリッツ・ラング『メトロポリス』などにも通じる幻惑的な作品の「話法」が再吟味される。

まずは科学映画で培った、岩波映画的な手順がある(それは小川プロ作品でもイネとヤマセの説明のための気流実験にあったものだ)。工程の意義と手順の説明が、部分的に簡単にリミテッド・アニメ化された簡単な作図でしめされる。それをまるでダムの放水のような突破口にして、作業緒拠点での「機械」の動物的な躍動が続々捉えられてゆく。機械に動物性のうごきを幻視すること。

緒拠点は、コメンタリーによって連続性もしくは隣接性を帯びているように一見おもえるが、「非連続」が接着され、コンクリート内を走る水や熱のように実際の展開は内破寸前になっている。いわば「外側」が「内側」の危機によって破局的な形象を保っている場所に、代位的な機械の「形象」がうごきながら充満して、コメンタリーの説話的な危機を支えている機微がみえてくるのだ。メトニミーが原理となっている展開に、実はカット同士のメタファー架橋が巣食っていて、ここがいわば陰謀性を感知させて「ヤバい」ともいえる。

現場のダムづくりの工程を満身に浴びて、撮影作業そのものが「機械状」に自動化しているようにみえる(実際には折衝をはじめとした苦労があるはずなのだが、展開が流麗で、作業の誇っている指令性と撮影のうみだす指令性がいわば「同在」のようにみえる幻惑がある)。撮影は陰謀性の尖端なのではないか。それで、撮影「工程」そのものが作業「工程」と協調をなすように掘削的で、しかも内部から外部を分泌し、内部の亀裂をコンクリートで浸潤するように「浸潤」的なうごきを繰り返して、「動物化」しているのだ。これらすべてがこの『総集編』の「映画の力」なのではないか。

作図をつかった「説明」は丁寧かつ理想的に圧縮されているが、それ自体も「圧搾機」的だ(むろん文化系には理解を超える面もあるだろう)。その機械状の圧力にたいし撮影行為がみずから圧延して代補的な躍動をかたどってゆくのだった(それでもその動勢はうごきのある撮影ではなく、時に複数台の同時カメラによってでも実質的な非連続をつなぐ策謀的なカッティング、その「うごき」によっている)。この作品の「映画の力」はそういう水準にまとめられるのではないか。

機械状の眺めは自己展開し、たとえばコンクリートを多孔体にすりかえる作業に転換され、コンクリートの湾曲をその上から内部的に見上げる視界へと変貌する。テリー・ギリアム『ブラジル』をおもわせる局面。50年代中盤のゼネコンによる土木技術は予想よりも現代化され、内臓系のように相互関連化されてもいて、それ自体がテクノゴシックをおもわせる局面を数々もつ。「工場萌え」「クレーン萌え」の趣味が照射される瞬間が内分泌腺のように仕組まれている。これら全体が「機械状」にして「動物状」なのだ。

この同時性にぼくは動悸しながら、眼の処刑に遭うように画面進展の刻々を見守るしかなかった。その意味で、『佐久間ダム 総集編』も映画本来の機械状と同調した「映画の力」だったといえるのではないか。

映画が捉えてゆく機械や建造過程物の刻々の「形象」は、時間軸上の形象記号であって、それは音符的なものにまで還元できる。形象変化がそのまま楽譜的なものにもなりうるといえば、エイゼンシュタインの「無関心な自然ではなく」の主張だが、そうして発電所の建設過程を音楽的/純粋映画的な抽象性によって編集しきったのが黒木和雄さんの『ルポルタージュ 炎』だった。先行する金字塔『佐久間ダム』にわずかにのこされていた人間性まで完全に捨象してつくられたこの黒木作品は、たぶん川と岩盤との闘いという佐久間ダム建設にあった試練のない火力発電所建設だったから、音楽的な達成へと向かったのだろう。

それでも『佐久間ダム 総集編』は、おのずからの機械状によって、作業員が補助的になり、後景にしりぞく危機を数々かかえている。そこも幻惑的だ。作業員の流浪者的な面魂はあやまたず捉えられる。それが最後の局面、発電所の指示基地の完成の描写では、高度成長時代の「インテリ」の顔が増殖してくるのにも感慨があった。むろん彼らの発声は技術的な分野に局限される。だからのちの『黒部の太陽』のような「人間の澱」がすべてあらかじめ除去されていた。これが壮観だった。
 
 

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2012年09月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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