フリッツ・ラング マンハント ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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フリッツ・ラング マンハント

 
 
北大後期の院生用演習「映画評論を書く」のため、フリッツ・ラングの再見&未体験作品の鑑賞を自分に課すことにした。まずは彼の反ナチ映画の嚆矢『マンハント』(41)を観る。

冒頭、いかにもセット然とした森林にウォルター・ピジョンが侵入、腹這いになって長距離銃を構える。照準器の中心にはヒトラー。だがウォルターは撃たない。理由は彼が捕まっての尋問で知れる。標的動物を完全に撃てる、という段階で寸止めにして、動物を殺さずに目的を達成した、とする狩猟スポーツがあって、その的にヒトラーをつかっただけ、とウォルターは強弁するのだった。

時あたかも41年。イギリスとナチスドイツが本格的な戦闘状態に入る前なので、ナチスにたいする反感と恐怖はまだ緩衝的な中間性を帯びていて、だからこそヒトラー=一触殲滅の危急性に達していない。その英米的な「スポーツ」精神がナチス=ゲシュタポ自体から追及・処罰の対象となり、ロンドンに逃げ帰ったウォルターがナチ分子の執拗な探索に遭う。やがてついにそのスポーツ精神が真の戦闘精神にまで「昇華」する経緯が、圧縮された説話性で描かれてゆくのだ。対ナチの温度差をナチスからの亡命者としてラングはアメリカの映画観客につきつけた、ということだろう。

もう少し説明すると、ヒトラーへの「寸止め」射撃が露見し捕まったウォルターは、ゲシュタポの拷問を受ける。狩猟スポーツではなく暗殺をまさに企図したという捏造調書へのサインをウォルターに迫るためだ。それがナチスによるイギリスへの宣戦布告材料になると直感するウォルターは拷問を受けても承諾しない。むろんサインののちは口封じのため自殺を偽装されるだけだ。拷問によって意識を失ったウォルターを、椅子に座ったままのゲシュタポの高官ジョージ・サンダースが離れて検分する。引きずられて絨毯につく垂れ下がったウォルターの足の痕も見事だが(顔は捉えられない)、ウォルターが扉の手前の空間にただ「影」として表現される演出の「残酷」もすごい。

もともとがジョン・フォード用の企画だったのだが、フォードが拒み、ラングにお鉢がまわってきたという曰くつき。だからダドリー・ニコルズ(脚本)、アーサー・ミラー(撮影)、ウォルター・ピジョンというフォード組が結集しての現場だったのだが、ラングは彼らにドイツ表現派からもちだした「影」を訓育する(これがのちのフィルム・ノワールの影につながってゆく)。光と影のマニ教的二元論(葛藤)は、舞台が夜や地下鉄ウォータールー駅を中心とした影の濃いロンドンへ移ってからは、イギリス顔とドイツ顔の二元論に変成して、同一性から差異を抽出する際のサスペンスをも醸成してくる。

話をもどそう。ヒトラーを照準器内に収めた現場に「深夜」、連行されたウォルター・ピジョンは、ちかくの崖から突き落とされ、自殺を偽装される。ところが深手を負ったものの奇蹟的に死なない。ここらあたりで作劇にあつめられたものの属性が伝わってくる。まず彼はパスポートをもっていて身元が「ソーンダイク大尉」だと露見している。ところが大使館をつうじ実兄のソーンダイク卿に照会のための電話連絡が入ると、その兄は言下に捕縛者は別人で、スポーツ好きの弟がドイツにいるはずがないと否定する。結局、ウォルターはロンドン行のオランダ船で密航して帰国するのだが、その際にその船にゲシュタポからの刺客=ジョン・キャラダイン(痩身による不気味さが刃物のようだ)に同乗されてしまう。しかも彼は乗船の際、あろうことか自らを「ソーンダイク」と名乗ったのだった。

このようにウォルターは作劇上で何重ものアイデンティティ・クライシスを複合されているのだが、ヒッチコックが描く「逃げる男」のような切迫感がない。それはたぶん「寸止め」狩猟のもっている行為遂行上の「不如意」が、一旦はアイデンティティ・クライシスとなって重大化しながら、何か作劇自体のもどしかさに拡散してしまったせいだろう。ところがそれはナチス=ゲシュタポの恐怖にたいし深い自覚をもたない当時の連合国側の体制的不如意とも連結される。よって諸条件のつながりに、複雑な感慨がもたらされる。

光と影という偏差の大きい二元論は、イギリス顔とドイツ顔という偏差のちいさい二元論と軋みあう。その軋みを画面上「打開」しているのが、逃げるウォルター、追うゲシュタポという「運動」上の二元論だ。さすがにラングだからサスペンスフルなカッティングと距離設定なのだが、ラング世界ではガラス扉の向こうに「女」がいる。夜間の追走を逃れてウォルターはその暗いなかに飛び込む。出てきたのが、のちにラング・ビューティとして地位を確立するジョーン・ベネットだった。開巻40分は過ぎていたとおもう。それまで作品は、ソーンダイク卿夫人が例外的に一回出てくるだけの、男世界、ホモソーシャリティに終始していたのだった。

ジョーン・ベネットの役付も不徹底だ。下層階級というだけでなく明らかに生業が娼婦なのに、コード圧力が加わってそれがはっきりしない。代わりに「泣きやすい」少女性があたえられて役柄は空中分解寸前だ。ソーンダイク卿夫人との傍若無人で無神経で下品なやりとりがギャグとして成果が出ているのかはわからない(ジョーンの差し出すフィッシュ&チップスを上流階級出身のウォルターが「知らない」というのは笑えたが)。いずれにせよジョーンはウォルターの窮地脱出のための助力者、最後は捨て石になるのだが、このような肯定的な「女性力」は原作と脚本のダドリー・ニコルズに由来したものであって、フリッツ・ラングの本意ではないのではないか。

この作品がワクワクするほど面白いのは、「穴」が変奏されるからだ。もともと照準器は視覚的には穴でありながら物質的には「向こうに届かない」透明な障壁にすぎない。家屋内では扉が「穴」につうじる場所として特権化される。さらには船の密航でウォルターがドイツを逃れるとき、船室床の「穴」が活用される(ここで子役時代のロディ・マクドウォルが出てくる)。「穴」とは潜勢のことだ。それは逃げる者を庇護秘匿しながら、同時に反撃への砦となる。ところが外面からは穴の内部は不可視なのだった。だから「穴」の第一属性は陰謀性だ。

ウォルター・ピジョンはロンドン地下鉄に紛れ込むことによって一旦はゲシュタポの追走を遁れたかにみえた。ところがその地下鉄車両にジョン・キャラダインが同乗している。下車して一旦、ウォルターがジョンをまくのは非常階段への迂回によってだ。その非常階段の開口部が「穴」のようにみえる。やがてジョン・キャラダインは仕込み杖を抜く。現れる刀身。鞘側に極小の「穴」がある。やがてふたりの追う/追われるは巨大な「穴」に入ってゆく。地下鉄の線路内だ。そこで「影」を味方につけたウォルターがジョンを、レールを利用した感電死にいたらしめることに成功する。

演出で最も秀逸なのは、メッセージを受け取るためにウォルターが局留め郵便を利用した郵便局がすでに「敵」に懐柔されていて、ウォルターが局員の職場放棄した前でメッセージのみを受け取り、やっとそこから逃げる場面だろう。受付との境には狭い穴が開いていて、ウォルターの腕はぎりぎりそこに「嵌入」してメッセージの紙の端を伸ばした指で掴む。そのとき縦構図で捉えられた郵便局全体の、奥行に入口のある空間それ自体が「穴」でもある。この「穴」の二重奏によって、作品は最終的なクライマックス場面の空間を用意する。

ウォルターが蟄居隠遁する秘密の場所は森の中の洞窟=穴だった。この穴も二重的なものだった。入口部分(それは巨石で閉じられる)と同時に覗き「穴」の開口部があるそのことが、二重性を実現していた。ウォルターが郵便局から逃げ帰って洞窟に身を潜めるのを待っていたのが、ジョージ・サンダースだった。彼は外側から入口の巨石が動かないよう固定する。よって内側からも外側からも鎖された不思議な二重性の洞窟が出現したことになる。

ジョージはジョーン・ベネットの捕獲と処刑を告げる。その証拠提出のため、覗き穴から「矢」(それはウォルターがジョーンに買い与えたものだった)を飾りにした婦人帽を差し込む。そのまま兵糧攻めを食らえば、ウォルターは餓死にいたる。そう強調して調書へのサイン記入をジョージは迫る。考えさせてくれ、といい時間をつくりつつ、その矢の帽子飾りを鏃に、洞窟内のウォルターはあらゆるものを利用して弓矢をつくる。彼がサイン入り調書提出を口実にして洞窟に出たとき、その弓矢と、ジョージ・サンダースのもつ銃の対決が起こるはずなのだが…(その経緯は面白くもあり、ドラマツルギー的に粗くもみえる――いずれにせよ弓矢を人間に向けて射ることはスポーツ的な所作でありながら必死の闘争でもある、という二重性をもつことになる)。

死んだと伝えられたジョーン・ベネットは弓矢の帽子飾りに圧縮された。逆にいうと、その帽子飾りが彼女の「換喩=メトニミー」だった。実際の武器をつかう者と、メトニミー=喩をつかう者、そのどちらに勝利が訪れるかはフリッツ・ラングに一貫しているのではないか(全作を確認しているわけではないが)。

「マンハント(人間狩り)」は遊戯であってはならない、死命を決する熾烈な闘いだということを教える――それがゲシュタポのウォルター・ピジョンにたいする「訓育」内容だった。いずれにせよ場所をたがえれば「若大将」だったウォルターには、どんなに超人的な逃走を繰り返しても訓育の介入する「余地」があった。それはジョーン・ベネットへの彼の扱いにもっともはっきり見てとれる。「穴」に縁のあった彼なのに、彼はジョーンを「穴」として扱わなかったのだ。だいいち最初にジョーンの住処に逃走中のウォルターが闖入したとき、恐怖に叫ぶジョーンの口=「穴」を、物音が露見するのを怖れウォルターは塞いでしまっていた。その代わりにジョーンは疑似的な穴=眼から、作劇的な甘さを突かれようと涙を繰り返し流したのだった。

そのジョーンは、作品ラストでついに穴へと昇格する。彼女の「在りし日」のひとコマひとコマがフラッシュ的にインサートされてきて、彼女の姿そのものが作品時間に事後的な「穴」を穿つようになるのだ。ただしそれはのちのラング的フィルム・ノワールにおけるファム・ファタール=「命とりの女」の、在ることそれ自体が「穴」であるような視覚の逆説にはまだ達していない。
 
 

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2012年09月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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