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フリッツ・ラング 復讐は俺に任せろ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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フリッツ・ラング 復讐は俺に任せろ

 
 
机のうえに置かれたピストル、それを手にしてコメカミを撃ち抜き、打ち伏す男……フリッツ・ラング『復讐は俺に任せろ』(53)の冒頭数カットは、そういった無前提性の衝撃によって開始される。すでに暴発と「速すぎること」の脈動が連絡している。その後、階段から降りてきて夫(刑事だった)の自殺を知った妻(ジャネット・ノーラン)が夫の遺書をその手から抜き取り、警察か救急車へ電話をする代わりに、何者かへ電話するところから、この作品のジャンルが規定される。暗黒街の「陰謀」と、孤立をものともせずに闘う刑事物だった。

つまり『復讐は俺に任せろ』はフィルム・ノワールではない。ボワ・オフ、都市の迷宮性、探査、ファム・ファタール、暗闇といったジャンル要件を欠いている。室内撮影が多く、多くの場面で照明が行きわたり、画面にも不可視性が刻まれない。むしろ経済性の高い説話進展が加速化していったとき、いかに「暴発」が惹起するか、それを「展覧」するサスペンス効果と熱量の高い作品と呼べるだろう。悪への報復の執念を意味する原題The Big Heatは、作品そのものの熱量をも含意している気がする。

刑事の自殺事件は殺人課刑事デイヴ・バニオンの担当となる。演ずるのはあまりハードボイルドに向かないとおもわれるグレン・フォード。所見上は自殺だし、自殺した刑事の妻の証言では病苦があった、ということだから、配布された拳銃を使っての自殺という意味での警察内不祥事ではあっても、当初は事件性が薄いと見込まれた。それが自殺した刑事の愛人の証言によって不穏な影を帯び始める。自殺するひとではない。病苦でもなかった。何かが裏にあるはず。その女はバーで働く女で、証言もバーのなかでなされたが、その僅か後、斬殺死体で発見される。その事実伝達の呼吸も速い。ここでは速さが異調なのだ。

その斬殺は絞殺だったが、煙草火が押し付けられた無残さもあった(伝達される間接情報)。その手口からグレン・フォードは町を牛耳る暗黒街の大立者で政界進出も企むラガーナ(アレクサンダー・スコービー)が裏で何か関わっていると直感する。それで彼の大邸宅に行き、挑発的な啖呵を切る。ラガーナの部下がグレン・フォードを強引に部屋から連れ出そうとしたとき、電光石火、その男をグレン・フォードが殴打する。アクションの電光石火がここから点灯する。

ミソジニー=女性嫌悪が何重にも取り巻く、倒錯的な世界観のなかで、悪とともに愛の勲章がどの女に輝くかという「裏筋」があって、それのほうがギャングと結託した警察の腐敗が暴かれてゆく本筋より魅力的かもしれない。まずは自殺した刑事の妻の、カネを得るためにはギャングも脅すという「したたかすぎる」権謀術数(彼女は夫の自殺を語るときには「泣いてみせる」)。自殺した刑事の愛人は、水商売の女特有の乱れがある。

グレン・フォードの家には息の合った妻ケイティ(ジョスリン・ブランド)と幼い愛娘がいるが、殺伐とした刑事物にそぐわないその温かい家庭は、作劇によって抹殺されてしまう。グレン・フォード用に爆弾の仕掛けられたクルマに乗ってその妻が唐突に爆死してしまうのだ。唯一、女性普遍価値を託された女が何の見返りもなく死ぬのだ。

以後出てくる女にも癖がある。爆弾製造をした男(彼も証拠隠滅のためギャングたちによって「川に沈められる」)のことを証言する老婆は脚が悪い(彼女は鍵となる男「ラリー」を同定するため、のちに一役買う――そのラリーを殴打するグレン・フォードのアクションも電光石火だ)。そして性的放埓さと奇妙な明るさを湛えた「要約できない女」として作品が半分近く経過したところで、ニコラス・レイ『孤独な場所で』でフィルム・ノワールをくぐってきたグロリア・グレアムが登場してくる。小鳥のように可愛い目許と豊満な胸許によって統合できないこのグロリアが作品の最終的なヒロインとなるのだが、彼女が英雄的行動に踏み切る前、どんな凄惨な負荷があたえられるかはもう語り草だろう。

前言したように撮影は影や不可視性の負荷を帯びていない。編集も説話を素早く展開する点で円滑性を誇っている。ところが説話進展の速さが暴力に転化するとき、説明の難しい脱臼や白光化を、観客は感じざるをえない。その速度に陶酔しながら、作品が用意する悲劇へと引きずりこまれてゆくことになる。ただし部分的な強度はある。グロリア・グレアムを囲っているヴィンス(若き日のリー・マーヴィン)の長い顔と口許あたりの物質感がまずそれだ。恐怖を感じない武闘派のように作中に姿を現した彼は、性欲がつよいのに作品のミソジニーをも一手に引き受ける、これまた統合できない悪漢だ。

そのマーヴィンにグレン・フォードが真相究明のため近づいたとき、グロリア・グレアムがこれまた「無前提」「無媒介」に、フォードに熱をあげてしまう(彼には勇気があり、同時にフェミニンなものへの崇敬がある、と見てとれたためだろうが)。

妻の爆死後、刑事の職も辞したグレン・フォードはもうホテル住まいになっている。この「ホテル」という場所が、グレン・フォードとグロレア・グレアムとを結びつける磁力の場所だ。フォードはホテルまでついてきたグレアムを一旦は冷たく突き返す。ところがこれが仇となった。グレアムはその不穏な動きをマーヴィンに察知されていて、その顔にマーヴィンのぶちまけた沸騰状態のコーヒーを大量に浴びてしまう(コーヒーを浴びた顔の描写がないが、カッティングの呼吸が最大限に暴力的だ)。

抹殺の危機をかんじた彼女は連れ込まれた病院を抜け出し、フォードのいるホテルの部屋に逃げ込む。ここからの彼女はとりあえず顔の左側から首までを大きな絆創膏で覆われた姿を連続させる。「片側であることの強度」。それは平常の顔の右側、その眼を中心にしたうつくしさが、覆いによる左側の不可視性と統合できないことによっている。画像的な不安の強度なのだった。その顔が現れる場所もまた強度化される。肝心なとき、その顔は扉がひらくその向こう側に必ず現れるのだ。一度目は上述したフォードのいるホテルの部屋の扉、二度目は自殺した刑事の妻の家の扉。亡霊のように現れつつ、「決意後」のその立居によって、火傷後のグレアムはその「現れ方」がやはり統合できない。

刑事の自殺に端を発した巨悪の真相は急転直下、判明してゆく。まず自殺した刑事の愛人を死に追いやった「ラリー」のフルネームと所在をグレアムの証言からフォードが掴む。それで刑事の自殺の裏に何があるのかを知る。このとき逆にグレアムは、自殺した刑事の妻が遺書を金庫に預け、その妻に危険や死が及んだきには遺書が公になる手筈になっていることを聴き知ってしまう。以後の電光石化の活躍主体は、グレアムになる。知力ではなく性的な魅惑によって一定の豊かさに上り詰めていたグレアムはそれでも自分を囲う愛人マーヴィンの暴力とミソジニーにさらされていた。しかもその性的魅惑は火傷によって失われた。「復讐は私に任せて」とばかりに、彼女は刑事の妻の家へ、そしてマーヴィンのもとへと赴くのだった。

つまり電光石火、速さは「伝播してこそ」真実になる。ここではグレン・フォードの「速さ」がグロリア・グレアムを電極化して、彼女に「力の行使の素早さ」をあたえた。それはフォードの代理行為だったから、彼女はフォードの愛に殉じたともいえる。いきなり現れるこの「侠の原理」が、女によって倒錯的になされることで、『復讐は俺に任せろ』の奇怪さは頂点に達する。純粋な報復と代理報復に弁別がなくなる点にもこの作品の崇高な統合不能性が現れている。グレアムが最終的に何をして、どんな末路を辿り、見返りにフォードがどうなったのかは、ネット上の言及があふれているけれども、ここでは伏せておこう。

影が強度になるのではない。説話のスピードと、人物の行動の代理性と、性差的な倒錯性、それと世界観に貫通しているミソジニーが強度になる。画面形成上では火傷痕の隠蔽と、その露呈だけが強度になる。それ以外はない。すべて可視性にさらされている。こうした布置が、『復讐は俺に任せろ』の高い経済性のすべてをつくりあげている。よって作品全体の上映時間も89分で済んでいるのだ。むろん内容からすると信じられないことだが。
 
 

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2012年09月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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