フリッツ・ラング 飾窓の女 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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フリッツ・ラング 飾窓の女

 
 
冒頭、(犯罪)心理学助教授のエドワード・G・ロビンソンが、「正当防衛の殺人は、犯罪与件を構成するか」などと教室で講じている。すぐさま駅で、休暇旅行に出かける妻子を彼が見送る場面に移り、その後、仲の良い検事(レイモンド・マッセイ)、医者(ロバート・ブレイク)と、食事を供与する社交クラブで歓談する場面となる。ロビンソンが妻子と長期に離れることの淋しさをからかう友人たち。リタ・ヘイワースなど女優の名も出て、絶世の美女と出会ったらという架空の条件のもと、老いらくの恋こそが火傷する、とくにアルコールによる理性の喪失が危険、といった「警告」もロビンソンに振る舞われてゆく。生き馬の眼を抜くような友人ふたりの回転の「速さ」にたいし、ロビンソンの「遅さ」が印象づけられる。ロビンソンは(運命にたいする)受動性の男として定位されているのだった。

むろん観客は予想する。この導入によって、ロビンソンが「老いらくの恋」と「正当防衛の殺人」に巻き込まれるだろうと。何ひとつ無駄のない話法のなかでは当然、そんな擬制が生じる。このとき説話機械の駆動は次のことを意味しだす。伏線とは時間軸上の鏡であって、その鏡に「現在」を映された人物は、あらかじめの想像的鏡像に抗することができず自発性を欠いたまま決められた行動を「なぞり」、「本人の像」と、説話が決定済の「本人の模像(シミュラクル)」のあいだで弁別を失うと。説話そのものに人格が乗っ取られる、ということだ。

フリッツ・ラングによるこのフィルム・ノワールの古典『飾窓の女』(44)は、先行的決定性にたいしての無力や暴発可能性にまつわる不安こそを描いている。この時間の二重化によって、フィルム・ノワールのジャンル的要件、「ボワ・オフと画面の現在の二重性」が代補されている。一方もうひとつの要件「ファム・ファタール」については、ジョーン・ベネットの画面の初出現時の、美と悪の混ざり合った蠱惑が決定的だが、彼女もまた不安に怯え、悪を遂行する以外に意志をもたないという冷たさからは外れてゆく。

語り草となっているのは、「ソロモンの雅歌」(伝・ソロモン王作の男女の恋愛讃歌)を社交クラブの本棚から抜き出して、10時半まで読みふけっていたロビンソンが、表に出て、社交クラブ脇、ショウウィンドー内の美女の肖像画にふたたび見入る場面だ。深夜に近づいた時間と静謐。絵の斜め横に絵と同じ顔の女=ジョーン・ベネットが現れる。この現れ方のタイミングに恐怖感覚が装填されている。

彼女は実際にその絵のモデルだった。絵に描かれたイメージ=模像と、鏡像という模像の「二重競演」、その瞬間は先行的決定性がしるしづけられながら同時にそれが複雑に崩壊している。つまり絵から「実物」が飛び出してくるような「錯視」に導かれながらも(=先行性の強度)、絵にたいしての「見た目」の「斜め横」は実際には平面から奥行きの位相に移されての「後ろ」であって、それを理解した途端、「生きている模像」はショウウィンドーを前にしたロビンソンの「側」から、もっというとロビンソン「そのもの」から出ている、というふうに理解されてゆくのだ(=先行性の崩壊)。ここでは先行性の崩壊と位相の崩壊が同列だった。

ロビンソンの立ち位置は、観客の位置でもあって、ベネットは観客の側から、観客自身を分離するように現れた「観客の部分」でもある。そうして「他者を見ること」は「自身を摘出して自身の模像を見ること」へと変異し、ひとは純白の無謬性をもっては何事もみられない、という蠱惑的な絶望がつむがれてゆく。

煙草の火の所望。たがいの恋愛資格を値踏みする、ひねりある高踏的な会話。同じ画家による、自分を描いたスケッチ画も見せる、という代替性を仕込んだベネットの挑発。早めに辞去する、という約束のもとでロビンソンがベネットのアパートに赴く。約束されたスケッチ画はスケッチブックをひらく動きがあっても、画面内に現れない。なぜか。ベネットの部屋には大きな鏡があって、その鏡によってとりわけロビンソンの鏡像がシミュラクルとして画面にあふれだす幻惑を組織するからだ。アルコールでやや上機嫌になった彼も、彼自身の模像だろう。

サスペンスがどう生じるかというと、画面に鏡像があふれかえっているのに、ロビンソンが自身の鏡像を決してみない、という点がそれに関わっている。このことによって彼の躯が彼の意識にたいし盲目性の覆いをかけている、という観客の判断が下されるのだった。説話機械に乗せられた観客は、ロビンソンの躯をみながら、その奥行が彼と同調しない不如意を、メタレベル的な場所から見ている――あるいはもっと単純には二重性を見ている。いずれにせよ現前性のみでは回収できない不如意=余剰が、画面の奥行にある、と感知している。つまり『飾窓の女』はメタレベル的上位を奥行きへ置き換える「陰謀」をめぐらす作品で、その第一がベネット出現の瞬間だったが、それはベネットの部屋に鏡を配置することで、今度は身体の盲目性を加味されて継続されたのだった。

ところでラング映画においては「扉」が特権性を帯びる。ジョーン・ベネットのアパートの部屋は一階入口の正面にある。アパート全体の入口はセキュリティロックのほどこされたガラス扉。つまり建物全体のガラス扉越しに(玄関小ホールを挟んで)ベネットの部屋の扉のある縦構図が成立する。ガラスという反映を予定されたものが、一旦開かれたとき、セキュリティロックの「同時性」によって、その奥の扉もひらく(ベネットは行為遂行のためにいつもそうする)。手前がひらけば奥行もひらく――この「開示の二重性」は、表面的なとり繕いが内面をも開いてしまう過剰性を印象づける。ラングは見事にこの扉の手前/奥行の二重性を、ロビンソン/ベネットの「運命」が演じられる場所として精確に提示してゆくのだった。

酩酊も手伝って帰宅時間を徒過しても高踏的な会話を愉しむロビンソン、ベネットのもとに危機が生ずる。ベネットの愛人(ベネットはその本名も来訪時間も知らない――相手の素性が秘密になったままで囲われているのだ)がとつぜん来訪して、ロビンソンを間男と見做し、激高をしめすと同時にロビンソンを床に倒し絞殺にかかるのだった。美人局の疑惑はすぐ解消される。ベネットは鋏をロビンソンに手渡したのだ。間近に迫ろうとしている死に意識を動顛させたロビンソンは、やっと回した手で闖入した男の背中を立て続けに刺す。この狼藉ののち、本名の知れない男の死体のみがのこった。警察通報を一旦はかんがえた二人だったが、保身のため死体を遠方に運搬廃棄しようと考えを変える。そのためにロビンソンはさほど遠くない自宅からクルマをとりにゆく選択をする。

当夜はつよい雨が間歇的に降る天候不順。ベネットのアパートの前の敷道は夜間灯によって雨上がりの濡れで蠱惑的に光っている。少ない光量のなかで、ひかる部分だけが強調される。画面の「黒さ」はフィルム・ノワールの要件だが、敷道の濡れは鏡面化の予感でもある。外部から真実が反映的に暴露されるのではないか。撮影はミルトン・クラスナー。『キング・オブ・キングス』『七年目の浮気』『めぐり逢い』などをオールマイティに手掛けた撮影の名手だが、この『飾窓の女』のほかにもう一本、『イヴの総て』という「黒い」傑作映画がある点に注意が要るだろう。

途中、出会う人間の記憶にのこらないよう細心の注意を払いながら、ロビンソンはやがて自分のクルマで男の死体を運んでゆく。市街地域から遠く離れ森林に舞台が移ると、画面は「黒」をいやましてゆく。ロビンソンはクルマを停め、死体を肩にかかえ、やっと有刺鉄線の奥へ投棄した。有刺鉄線に服と手をひっかけ手に傷を負い、鉄線に微量の血液を残し、のちに判明するように、その現場にあった漆で傷口付近を爛れさせるという代償まで負って。彼は現場に「シミ」をのこし、自身の躯にも「シミ」を浮かべた、ということになる。

サスペンスが佳境に入るのはじつはここからだ。ロビンソンと、検事、医師の会合はつづく。よっぽど互いの親しさに自信があるのか、検事は守秘義務も構わずに自分の担当事件の話をする。まずは新興著しい経済界の新星が行方不明になったこと。なにかの犯罪に巻き込まれた公算がある旨、彼は語る。「女」に関わりがあるだろうとも。その男の「顔」を、あるいは女の目星を「おもわず」訊ねてしまうロビンソン。

彼は自分とジョーン・ベネット、それと観客だけが知っている先行性の側にいて、ドラマの現在にたいしては曖昧に存在している。結果、『犯罪王リコ』の非情で鳴らしたロビンソンが、ここでは放心と疲弊を中心にその表情を彩ることになる。先行性によって「現在」を模像化された彼は、「真実となるため」、現在にたいし先行性を幾度も自己申告しそうになる。とうぜんロビンソンに感情移入した観客は「ロビンソンとともに」動悸を抑えることができない(成瀬巳喜男『女の中にいる他人』の小林桂樹に似ている)。放心と稀薄。観客は映画があまり打ち出さない画面の表情にこそ魅せられてゆく。

会合は日を追って続く。死体はボーイスカウトの少年によって発見された(そのニュース映画画面がギャグを狙って挿入される)。現場にのこされた足跡から推定される死体運搬者の身長体重がロビンソンのものと一致する。数値の一致によって全身を意味づけられてしまう恐怖。靴の経年の同定。さらには有刺鉄線に残った血液からの血液型の判明。ロビンソンの手の傷。観客にはあらゆる証拠がロビンソンを指さしているのに、検事と医者はロビンソンの無関係を信じきっていて、「おまえが犯人なら」という仮定がすべて遊戯でしかない。

ロビンソンだけは前言したように「先行性」に凌駕されてその現在性が模像になっていて、不注意にも「自白」してしまいそうな暴発の危険、兆候をいたるところで点滅させている。だからその内側からの衝動にまたもや全身の盲目化を対比させ、放心の表情を上乗せするしかないのだ。ロビンソンの疲弊を見てとった医者は眠剤を処方する。ただしそれは過剰服用すると、心臓発作を起こす。しかもその死因は外的な判明を見ない、と。むろんこの医薬にして劇薬がのちにまたもや、先行性に抗うことのできない伏線となってゆく。

作劇の波状攻撃はまだ続く。犯罪心理学者に科学捜査の現場を見せようと死体発見現場への同行をロビンソンは余儀なくされてしまう。またもや「先行性」に支配された男の、意志を磨滅に導かれた亡霊的行動が描かれてゆく。現場を知らないはずなのに、刑事に先立って現場への道を「先導」してしまうロビンソン。手に現れている漆のかぶれも指摘される。当日は事件にかかわっているのではないかという「女」の現場同行もプログラムされている。クルマに乗せられた女が垣間みえる。それがもう二度と会うことはないとロビンソンが誓いあったベネットなのか、なかなか判明させない点では、「わずかにみえているもの」にかかわるサスペンスが醸成される。

ロビンソンが訪れ、クルマを取りにゆくために戻り、死体を運ぶためにまた出ていった、ベネットのアパートの入口玄関と部屋の玄関、その奥行方向に配された扉の二重性=「運命の演じられる場所」が、また劇に召喚される。すべて事情を知るはずの男として検事の話題にも上っていた、殺された男のボディガードとしてひょろ長い体躯が気持悪いダン・デュリエ(彼はロビンソン、ベネットとトリオでやがてラングの次作『スカーレット・ストリート』に出演することになる)が今度はその奥行を突っ切ろうとするのだった。

脛に傷があっても、はしこさを買われボディガードに雇われていたというその男は、相手からの反駁をゆるさずに自分のペースにすべてをもってゆく、ぞっとするほど冷たい「有無のいわせなさ」がある。ドアフォンをつうじての、ベネットとデュリエの会話。ゆすりが明らかな目的なのに、やがて画面はアパート全体のガラス扉とベネットの部屋扉が同時に開くうごきをしるしづける。

デュリエは部屋に入るや否や、ことばによってベネットを追いつめながら、犯行の証拠を拾おうと部屋中を物色しつづける。この語りと物色の同時性が、同時性を数々しるしづけてきたこの作品の文法のなかでの目覚ましい白眉だ。拾われるロビンソンのイニシャル入りの万年筆、犯行道具となった鋏。目にとめられるベッド脇の床、ロビンソンの出世を報じる記事の載った新聞。

デュリエは作品にある先行性領域から出現してきた、鏡で全身を組成されたような男だ。それで水銀的な感触がある。彼は先行性を掴んでいる。つまり自分の死んでしまった雇い主がベネットを愛人にしてきたことを。しかもその殺人には男が絡んでいる点も直感で把握している。ところがその男が誰だかがわからない。つまり先行性としては不全で、その不全さが部屋の中の歩きまわりによって暴力的に猖獗している恰好となる。観客は今度はこのデュリエの怪物的な感触に追いつめられることになる。

言い換えよう。作品のそれまででは「先行性」はロビンソンにまつわる領域に、ロビンソンの責任として出現していた。ところがデュリエによって先行性が他者の領域から出現してきて、捜査の進展と関わらない場所にゆすりとして現れたのだ。その作劇の過剰性を観客は恐怖することになる。鏡がガラスと裏箔の二重性によって組織されるように、先行性とはその真実の姿が二重なのではないか。となると一重世界の人間は先行性に対抗することができない。とりあえずデュリエは要求金額をつたえ、その場から去る。

たがいに自分の正体を告げあうことのないまま殺人の勃発を機に別れたベネットとロビンソンだったが、彼女はロビンソンの教授昇進を告げる新聞によって、あの晩会った男がロビンソンだと同定していた。そんな前段があって、デュリエの訪問により生じはじめた危機をベネットはロビンソンに電話で告げることになる。ロビンソンはゆすりが延々に続くと予想、自首が厭ならデュリエを殺すしかないと結論する。とりあえずの要求金額と劇薬とを渡すためのロビンソンとベネットの会合は、大きなオフィスビルのエレベーターホールで、周囲の眼を極度に憚りながらおこなわれる。互いが無関係者のような距離を保ち、人目のない瞬間に近づこうとする二人。何度もひらくエレベーターの「扉」はラング的な符牒でありながら、ここでは二人を見るともなく見る「眼」に転化している。

再度のデュリエの来訪で、腹芸を披露するベネット(「ドラマのために」彼女は盛装している)とデュリエ。サスペンスフルな成り行きの果てに、企てたデュリエの毒殺にベネットが失敗する。なぜか。手前と奥行が同時にしるされる場所で改変的な「運命」が惹起する、というこの作品の法則のなかでは、毒薬が完全に溶け込んだハイボールは奥行きではなく秘密の瀰漫であって、運命の道具にはならなかったということだ。毒殺の意図を見抜いたデュリエは、その責を問うため新たに脅迫金額を提示、辞去する。奥行は電話回線に変貌する。計画の失敗をロビンソンに告げるベネット。ロビンソンは疲弊と無策を語り電話を切ったのち、自分用にも確保していた劇薬を服用する。

そのタイミングで不穏な発砲音連鎖がベネットの部屋の戸外で起こる。またしても外部の夜が召喚される。ベネットの見た目で、地下階段の「奥行」、挙動不審者として発砲され死んだデュリエの顔が見える。「奥行」はそのようにして固定された。状態の好転を電話でロビンソンに告げようと部屋に戻るベネット。ところが「奥行」が固定され、先行性の問題がそのように打開された以上、電話回線という彼我を無化する奥行がもう機能することはない。画面はロビンソンの側に切り替わる。すると、椅子にふかく座り昏倒しているロビンソンに、無為に電話のコール音が響いている画が現れる。ところが、そのコール音が「夢のように」徐々に弱音化されてゆく。

作品がフィルム・ノワール的な悪夢であるためにはここで終わってもよかった。だからこの作品の非難可能性をこのあとの展開から見出すひとがいる。ところが、そのあとの展開で真に起こるのは、「恐怖の解決」ではなく、「先行性という位置」の完全な受け渡しなのだから、理路は整然としている。これまで起こったことが括弧にくくられて、ロビンソンに安堵が訪れたとしても、観客には醸成されつづけた不安がのこる。それは先行性の織りあげる劇を知りつつ見つづけたことによって起こった懲罰ともいえる。終わりの数分で「先行性」にまつわる人物たちの諸々はすべて瓦解したのに、その瓦解を見届けた観客だけには先行性が完成されるのだ。効果は遡行する。もともと観客だけがこの映画(の欲望)の先行性だったのだ、というように。

よって作品は「在ること」そのものの先行性にまで行き着く。このとき観客のその位置が無慈悲にもただ物質性に因っていると示唆するために、映画は「観客と同じもの」を確認のため作品の最後に打ち出す。それが飾窓のなかの、あの肖像画だった。
 
 

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2012年09月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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