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フリッツ・ラング ドクトル・マブゼ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

フリッツ・ラング ドクトル・マブゼのページです。

フリッツ・ラング ドクトル・マブゼ

 
 
フリッツ・ラングは第一次大戦前、パリに画学生として留学しながら、その地でフイヤードの連続活劇『ファントマ』などに熱狂した。その前史が彼の基礎をなした、とする見解は多い。つまり画学生の資質からくる視覚性と、連続活劇への熱狂からくる説話スピード、これらがラング映画の二本柱だということだ。

これはラングがナチスドイツを逃れ、ハリウッドに亡命したのちも変わらない。ただ、説話スピードに主軸がぶれればたとえば『復讐は俺に任せろ』のような作品が成立し、視覚性に重心が移れば『飾窓の女』のような蠱惑が生ずる。その意味でいうと、第一部・第二部で構成されたラングの無声映画の大作(復元版によれば両方を併せると270分の長尺になる)『ドクトル・マブゼ』(21/22)は視覚性と説話スピードが完全融合された、幻惑や眩暈を放射しつづける歴史的逸品と捉えるべきだろう。

作品内部は幕で区切られるかたちで分節されている。各幕の終わりには危急をつげる転調が盛り込まれ、次節への緊張をたかめる。これは少ない巻数で続き物として各週展開されていた連続活劇の流行時代の名残だ。むろん無声映画特有のスピードがある。スポークン・タイトルが挿入されるが、そこでは人物たちの複雑なメッセージが披露される。それ以外はとうぜん俳優の表情、その視覚性でドラマの成行をつたえる必要がある。だから悲嘆、驚愕、憤怒などは手振りを交えた大仰な俳優演技(これには慣れる必要がある)が生じるが、それで音や字幕がなくても(弁士のいない状態で観ている)、俳優が何をいっているかは表情から類推できる。

むろん現実的な発話の長さを帯びる必要がないので、発話行為への撮影も端折られる。この短縮の連続によって、説話に推進力がつく。また聞えない会話のやりとりが表現の本意ではないのだから、アクションの連鎖のほうが強調される。そうしてサイレント映画自体が、いわば「高速の体系」に入って、その速度によって夢幻化が起こるのだといえる。

高速とは実質的には走破運動ではなく変貌が本質だ。変装と変名の名人で神出鬼没、人の運命を翻弄し、不法な株価操作や、催眠術をつかった賭博、偽札づくりで巨万の富を得ながら、金儲けのみならずその「超人思想」らしきもので人心の全体掌握を目論む怪物としてマブゼ博士は画面召喚される。付け髭、鬘、眼鏡、貧富のどのクラスに自己配剤させるかで多様な人格を使い分ける彼を見分ける特徴は、彼の腹心以外では、やはりラングの映画の法則どおり、「観客だけが」知っている――炯々として異様な、動物磁気的な、あるいは邪眼的なその眼光だけが、どんな顔においても一致しているのだ。

差異性のなかに同一性の芯があること。それで観客は翻弄的な変貌の中心に、変わりようのない同一性を捉えることになる。本当は意気阻喪させる事態のはずだが、それに気づかせないのはマブゼが神出鬼没で、ショットの枠組を突き破るようにして、「突然そこにいる」からだ。むろんそういう「映画の陰謀」の支配下に置かれることを観客は積極的に希求している。

第一部第一幕はいわばマブゼの超人性を紹介する導入的逸話で、そこでは彼の株価操作による巨万の富の獲得がしるされる。株価に影響するドイツ・スイス間の経済協定書の列車内での強奪。その書類の入った鞄は列車から投擲されると走行中のクルマが受け取る。動くものから動くものへの連鎖。クルマはいまからみるとクラシックカーだが、速度が織りあわされた瞬間、その重複域に白光の生じる心地がする。その白光性こそがカッティングの閾なのだ。モータリゼーションはすでに20年代のベルリンに始まっている。ただし作品全体を通すと、クルマと馬車の混在する時代だったということもわかる(この混在性をラングは「視覚的に」偏愛していたのではないか)。

第一幕での高速体系という点では、もうひとつ白眉がある、経済協定書の紛失が告げられると一会社の株価が暴落し、下げ止まりになったところでその場にいるマブゼが買い、協定書が発見され無事相手先に届くと報じられると今度は急騰し、マブゼが大量売りする。当時は株式市場での株価表示は黒板へのチョーク書きで、担当者はめまぐるしく数値を黒板消しで除去しながら、その上に新しい数値を書き換えてゆくのだった。高速化したマジック・メモ。

記憶モデルをマジック・メモにもとめたのが初期フロイトだった。ところがそれは記憶をしるす主体の作用域が主体のなかにあるという擬制を孕む。結果、主体のなかに大→小の入れ子構造ができ、主体内に無限小のホムンクルスまでを生じせしめるという反論を呼んだ。それでフロイトは記憶理論家から精神分析へと歩を移したのだ。いずれにせよ、「書き換え」は、実際はそれが内面的なものであれば、主体の複数性、その恐怖に転化する。ならば外在的な「書き換え」も、主体危機の換喩の位置に現れるだろう。

第一部第二幕から以降は、マブゼが催眠術をつかって賭博で野望を実現してゆく展開となり、アクション場面は要所要所にちりばめられるようになる。当時の娯楽ホールが作品舞台になると、ロングショットという限定つきながら、少女の幼い体型でしかない踊り子が全裸で「芸術的」ストリップを披露する様子などが捉えられる。芸術と悪徳の混淆。たとえばのちマブゼの眷恋対象となる「貞淑な」ドゥシー・ドルド伯爵夫人も、夫の厳格さから来る圧力に耐えながらもコカインに惑溺、ポーカーを中心に賭博のおこなわれている悪所で運命の浮沈に一喜一憂する人生模様を見ることを趣味としている。ここでは貞淑と頽廃がやはり混淆している。

ノーベルト・ジャックの原作小説、作品製作当時ラングと蜜月の状態にあったテア・フォン・ハルボウの夢想的な脚本、それ自体にたぶん混淆があとづけられているはずだが、ワイマール初期のドイツの文化的活況と危機を、混淆の画柄として定着した最大の功労者はやはりラングだろう。混淆とは潜勢状態、何かの兆候なのだ。そういう土壌からしかマブゼは登場できない。それと建造物内部の美術様式、あるいは時刻表示の機能をもったさまざまな意匠の時計の大写し、などからすると、作品は「表現主義」のみならず多彩な傾向をやはり「混淆」させている。こうした混淆は華やかさとともに悪趣味、あるいは落着きのなさをしるしづける。落着きのなさがとりわけ重要だろう。催眠術をテーマとした作品だが、作品自体が観客を催眠術にかけるためには、落着きのなさ――すなわち「律動」が必要なのは自明だからだ。

のちに判明するが、舞台の上で踊った美女のひとりはマブゼを強烈に信奉する愛人カーラ・カロッツァだった。マブゼは貴賓席で彼女に熱狂している金持ち風のボンボン、エドガー・フルに着目する。フルは二重に拘束された。ひとつは催眠術をつかったポーカー賭博でフルに大枚の借金を負わせること、もうひとつカロッサの色仕掛けで翻弄することだった。

当時のベルリンの紳士貴顕は名刺状のカードを携帯している。そこに住所やメッセージを書き込んで相手に渡す習俗があったようだ。マブゼはそこに偽名を刷り込み、借金の支払い場所をエクセルシオール・ホテルの一室に指定する。あるいはのち、カロッサの居場所も同ホテルの別の一室に指定され、さらにのちにはマブゼの本当の居室として別の部屋も指定される。111、112……と号室数値がまたも変転してゆく。ここでもフロイトへの聯想が起こる。

彼の卓抜したエッセイ「不気味なもの」では、たとえば自分のホテル部屋番号と誕生日が偶然「一致」した場合、死が膚接したような不気味さが惹起される、と分析されるのだが、ここでは部屋番号が一致を見ずに、説話上の要請にしたがって続々と変転してゆく。つまり「一致」という不気味さの基底のうえに「変転」がマジック・メモのように上書きされ、メタレベルの不気味さに上昇するような操作がおこなわれているのだ。ところが「一致」は前言したように、どんなに変装によって人格を変えてもマブゼの眼光に局所化されている。

ラングはどのくらいフロイトに親炙したろうか。マブゼの複数性は作品に数々のフロイトが並立しているとみえなくもない。むろんフロイトの諸説は展開的で見事な面もあるが、その全体には巨大な同一性が絶望のように浸潤していると捉えることもできる。いずれにせよ、『ドクトル・マブゼ』はドイツ圏のフロイトを側面的にスケッチする「無意識」だったといえるのではないか。

無意識――ポーカー賭博で大負けをしたフルの手には、前言したように借金の支払期日と場所をしるしたカードがのこっている。しかも彼の手札が素晴らしかったのに「降りた」ことで大敗が確定した経緯も判明する。周囲のみなは訊く、「ところで君が相手にしていた男は誰だい?」「どんな顔だった?」。フルはいう、「わからない」「何も憶えていない」。ここから真の恐怖が滲みあがってくる。作品は「見えているはずなのに、見えていないものの存在する領域」に注意を促すのだ。誰ひとり実在していたはずのマブゼを実在化できない。それは観客に課せられる課題でもある。説話の説明機能にしたがって変転するマブゼを同一的に捉えている自分たちも、マブゼを認識的に同定できているのだろうか。あるいはそうかんがえているのだとすれば自分たちもマブゼの眼光による神秘的な催眠術の虜になってしまっているのではないか。

そうおもうのは、「見えていたはずのものが見えていなかった」がすぐさま、「見えていないはずのものが見えていた」へと、「対偶」を織りなすためだ。不安によって視覚から同一性を剥奪すること。ホフマン『砂男』での、とくに自動人形にかかわる流儀。視覚と記憶が、眼と脳の部位的近接のように近すぎて脱臼を生ずるとき、自分の身体部位のメトニミー的隣接を尺度にすることがそもそも誤謬だという疑義も付帯する。このときすべての距離が無意味になって「人間は壊れる」。『ドクトル・マブゼ』はもともと「崩壊」と「熱狂」を分離できずにその刻々に翻弄されてゆく悪魔的な代物なのだった。

「みえていない」こと――映画にとっての「視覚」の意味が冷笑性によって脱線していることは、マブゼが営む偽札づくりのアジトが、盲目の――もしくは弱視の、虚弱な老人たち(ホームレスにみえる――つまりそこはベルリン内貧窮者の吹き溜まりだった)によって営まれている点にも現れている。眼が正常に機能してなければ偽札などつくれるわけがないのだ。つまりそこは意味が転倒した場所として明瞭に意識されている。

だからその場所が、悪行の数々と正体と居場所が判明して警察・軍隊との籠城戦から地下水道へと敗走したのちマブゼが意味的な終焉を迎える地になるのも当然だろう。マブゼに扮するルドルフ・クライン=ロッゲはそこで凄惨な発狂のすえ「廃墟」となった人間を見事に造型する。見事、というのは、「これがおまえたちの末路だ」と観客に突きつけるまでの予言的転写力があるからだ。そのまえにあったのは、作品がしるしてきたマブゼの歴代な犠牲者たち――すなわち「亡霊」(見えるはずのないのに見えている者たち)とマブゼがポーカー賭博をふたたび「反復」する陰惨な景色だった。

視点を変えよう。教唆主体がいる。ところがそれが事後的にわからなくなる。ひとつは教唆された対象側が自滅を演じることによって。いまひとつは教唆主体そのものの記憶が対象から消滅することによって。この関係を原理的に煎じつめると、教唆主体そのものが記憶喪失かつ自滅願望をもち、それが対象に転移しているのではないか、という破局的な世界像が立ち上がってくる。催眠術をつかったマブゼの犯罪の連続性、神出鬼没性を参照し、そうした破局的世界像を純粋化したのが黒沢清『CURE』だった。

黒沢の着眼は当然の発展聯想だ。つまりマブゼは神にひとしい全知全能でありながら、その本質は記憶喪失なのではないかという疑義が、画面に直面するだけで湧くのだ。説話中の手段の脱臼、殺害可能なのにその時点では殺害しないこと、全知全能なのに好色にも人間の女ていどに愛着して衰弱までかたどること、仲間との酒宴では棄民の様相を呈すること。これらはみな、マブゼという圧倒的な造形における「書き損じ」「手違い」「意図的な脱落」「襤褸」なのではないか。血を沸かせ肉を躍らせてこの映画に接した当時の世界中の観客は果たしてマブゼの全能性に恐怖/狂喜するだけだったのだろうか。自分の「見ることの力」を根底で阻喪させてゆく負性をもその「無意識」のなかに掬いあげていなかったろうか。

「ポーカー賭博の掛金を中央に回収する円形の最新式(機械仕掛けの)賭博台(俯瞰ショット)」→「降霊術に集合した者の両手が円形に配備されたようす(俯瞰ショット)」というように、形象連鎖的なラング映画のカッティングは、同一的形象の隣接という点で、メトニミー=換喩にその原理を負っている。むろん変装しつづけるマブゼもメトニミーの範囲にある。メトニミーは「部分からの全体への喩」が本質だが、部分がいくら足されても全体にならない「悪い予感」がこの作品を支配していて、そのことが予感レベルでの観客の意気阻喪の正体でもないか。第二次大戦後にアドルノは「部分の総和が全体を形成するとはかぎらない」とつづったはずだが、そのアドルノを予見する位置に『ドクトル・マブゼ』が置かれている。

不自然なほどポーカー賭博で大敗する者がいる、しかもその相手の印象が曖昧で、しかもそれぞれの姿が別々だがその事象に「連続性」があるのではないか――そう検事のフォン・ヴェンク(演じているベルンハイト・ゲーツケが素晴らしい)が判断して、囮捜査にちかい布陣でエドガー・フルやトルド伯爵夫人に調査協力を仰ぐあたりから、正vs悪、というラング的二元論が生動、それまで悪の「進展・拡張・変転」だけを描出してきた作品に転調が起こる(第一部の終わりに近づいたあたり)。フルの殺害を機に、やがてヴェンクが正体不明のままのマブゼとの対決当事者になるくだりから、遠隔性が近さ/直面性に変貌してくる感触があって、これがスリリングだ。遠さと近さを分離できないもの、近づけば近づくほど遠さが明瞭化するものがベンヤミンの規定する「アウラ」だったとすれば、遠さから近さへの移行は俗的な熱狂性をドラマ上、しるすだろう。

その反作用がマブゼ側にも起こる。誰とも名指せない謎の賭博師だったマブゼは自分のトルド伯爵夫人への邪恋を成就するために、その腺病質の夫・トルド伯爵(演じたアルフレート・アーベルもその女性的な挙止が素晴らしい)を罠にかける。賭博には無縁の彼に催眠術によってイカサマ賭博をさせ、社会的地位を貶めたあと、気絶した夫人を監禁、いっぽう夫は本名にして本職(?)の精神科医「マブゼ博士」としてその治療にあたる(むろん彼の本当の目的は自殺暗示にかけることで、それに成功する)。そのマブゼ博士として彼はヴェンク検事とも会う。さらに自分の催眠秘術の全貌を見せることと引き換えにヴェンクを殺そうと、「ヴェルトマン博士」(むろんマブゼの変装によるもの)の公開イベント(ショウ)に誘う。

それまでは人物の間近にいながらも遠隔的だったマブゼの立ち位置の二重性がひとつに収斂し、その近さと遠さが実在の位置に「一致」してくる。ところがそれで起こるのはベンヤミンのいう「アウラ」化ではなく、「アウラの喪失」のほうなのだ。つまり「一致」そのものが人間化の所業であって、しかもそこから死の予感まで立ちのぼってくるのは、カフカの箴言中の慧眼どおり、死こそが最終的な人間の「一致」だからだろう。

そうした局面の前に、扮装したヴェンク検事と、老人に扮装したマブゼはポーカー賭博で対峙している。そのとき催眠術の道具としてつかわれたのが、この作品のなかで最も印象的なオブジェのひとつ「中国式の、角張った縁の眼鏡」だった。この眼鏡が人名の呪文を発する、「チ・ナン・フ」と。中国の魔人の名だろうか、アルファベットで表記されその字が画面に上乗せされてエキゾチズムそのものが魔的な産物だという呼吸が伝わってくる(このシノワズリは遠くブレヒトのそれと反響する)。ところがその文字の「上乗せ」は、マジック・メモ的な「書き換え」ではなく、決定的な宿命だった。

マブゼの筋書きどおり、「ヴェルトマン博士」の集団催眠術ショウに赴いたヴェンク検事は、まず大勢の来場者が「同一の幻影」(舞台奥から現れてくる隊商の一団)を見てしまう驚異に接する(トリック撮影)。それから数字の予見をヴェルトマン博士がいろいろな手管でショウビズ精神たっぷりに披瀝してのち、たくみに検事は舞台上の被験者にさせられる。この「反駁できない」「有無いわせなさ」がラング演出の真骨頂のひとつだ。催眠をかけられ、彼は壇上の一婦人を着席させたあと、会場前にあるクルマに乗るように指示され、それに従う。表向きは家に帰るようにという内容だが、実際はクルマを疾駆させ、死ねというものだった。

このときの集団催眠、万雷の拍手によるヴェルトマンの偶像化・集中化がクラカウアー的にはヒトラー登場/ナチス台頭を予見しているということになる。ヴェンク検事がスポーツカー状のクルマに乗り、それを疾駆させてからの画面の躍動感がすごい。周囲は郊外の森林となる。このとき「憶いだしたように」抜群のデザイン感覚でクルマと彼の姿のうえに、例の「チ・ナン・フ」が上乗せされるのだ。ひとコマひとコマに文字が重ね焼きされたのだろう。焼き位置が微妙にズレて文字は揺れ、それすらも異化効果を湛えている。

かつて株価の数値は上書きによって変貌を繰り返した。ところがこの「デ・ナン・フ」は同じ文字内容のまま膠着的に重ね焼きされ、しかもその重ね焼きされるありかたが本質的に場違いなのだ。つまりそれは「宿命」の惨たらしい貼付といえる。ところがヴェンクのクルマは不審を感じた同僚たちに追走され並走され、やがては自分たちのクルマへとヴェンクを引き抜くことで救出が完了する(ヴェンクの乗っていたクルマはその直後、崖から落下し大破爆発する)。催眠術の渦中にあって朦朧とし、しかも体感的衝撃も複合されているヴェンク。そこにオーバーラップをつかって、彼が対峙してきた怪しい顔の変遷がしるされる。それが「マブゼ」「ヴェルトマン博士」とも「一致」し、ついに彼は差異を貫通している同一性に気づく。その導きとなったのが逆説的にも「中国製眼鏡」のイメージと「チ・ナン・フ」のアルファベット文字だった。

つまり「チ・ナン・フ」は「死の宿命」として一旦はクルマで疾走するヴェンクの姿に貼り付けられながら、意味反転してヴェンク復活の狼煙を上げる記号にこれまた「宿命的に」変化したことになる。「記号性の変転のなかにある同一性」がマブゼの運動の意味だったとすると、「同一性を確保したまま記号性が変転すること」が「チ・ナン・フ」の意味だった。それがヴェンク検事を救済したのだ。この作品を「ナチス=ヒトラーの暗喩」と一元化したとき、このことはクラカウアーによって意味づけされていただろうか。おもえば『カリガリからヒットラーへ』はもう何十年も読み返していない。
 
 

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2012年09月29日 日記 トラックバック(1) コメント(0)












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2012年12月03日