フリッツ・ラング M ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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フリッツ・ラング M

 
 
冒頭、数瞬の黒味があって、そこにズリ上げのかたちで音声が響く。子供たちの歌だ。やがてカットインされる斜め俯瞰の構図では中心の女の子の周りに子供たちの円陣が組まれ、そこで日本の「籠の鳥」に類した児戯が繰り広げられているとわかる。歌の内容は「籠の鳥」より不気味で時事的だ。続けて唄われる歌の内容を字幕から引こう。《もう少し経てばやって来るよ/黒い影法師の男の人が。/手に持つ小さなその斧で/その男に切り刻まれるのは……》。ここで順番に参加者へ向けて動いていた中心者の指が止まり、円陣から除外される者が恐怖裡に確定する。

フリッツ・ラングの初トーキー『M』(31)の出だしだ。つまりこの歌こそが、ラング映画に刻まれた初めての音声だったということになる。ハーメルンの街の子供全員を笛吹きによって失った伝説のあるドイツでは、子供の消滅/抹殺はたぶん内在的な恐怖に位置する主題だろう。しかしこの歌は過去の不気味な復活であると同時に(フロイトの「不気味なもの」を想起せよ)、「これから作品に起こること」の先行規定ともなる。知られるように『M』では、幼女殺害遺棄を繰り返す変質者の、「犯罪組織」「浮浪者」「市民」による「探索・身柄確保と死刑宣告」が、その後、圧倒的な恐怖感覚をつうじて描かれてゆくのだ。

ラングはトーキーに移行するに当たり、「音声」をどう捉えていたのか。この出だしからは一見、音声が画柄にたいし先行的な拘束性を発揮するとかんがえているような感触がある。「語られたこと」が「その後」を運命論的に規定し、そこからは何者も逃れられず、「画」はその運命性に無抵抗に引きずられ、奈落にいたる、と。だが果たしてそうか。

もうひとつ、先行的な音声があった。作品でリアルタイムに描かれる幼女の犠牲者「エルジー」に、謎の男(顔が同定されないよう配慮がなされつづける)がことばを初めてかける。歩道をすすみながら少女は毬つきをしていて、誘惑と拉致のために男がかけた最初のことばが「可愛いボールだね」。ありうべき「きみ、可愛いね」から、発語がズレているのだ。毬に何かの模様がほどこされているようには見えないから、男は「球そのもの」(のうごき)が「可愛い」と、(脱)原理的な感覚吐露をしているような逸脱性が届けられる。

男の顔はずっと同定されない。「見えないもの」をつくりあげる不安が視覚供与の使命であるかのようだ。男が幼女のために盲目の路上風船売りから風船をあがなう場面。男の口許から思わずグリーク「ペール・ギュント」のメロディの一節が漏れる。それも執拗な反復の相を伴って。この口笛のピッチは危うく、それが「音声」自体の発現不全性を象徴しているかのようだ(実際に口笛をアフレコしたのはラング自身だという)。むろんそれはことばを欠いた旋律だから具体的なメッセージでもない。いうなれば盲目の風船売りの視覚喪失が、音声にありうべきメッセージそのものを反射的に盲目化しているのだ。盲目になったことばこそがメロディに化ける。それはことばの自在性ではなく、内在的な不如意を抉られての結果だろう。

ところがのちの展開からわかるように、その「ペール・ギュント」の口笛が、その男をその男と同定する根拠ともなる(盲目の風船売りはそれで男の尾行を浮浪者仲間に指示する)。なぜか。メッセージのない音声は繰り返されることで、「反復性」、ただそれだけの「意味」をもち、この「意味」はメッセージ内容などよりもつよい、ということだ。ということは、ラング、あるいは脚本のテア・フォン・ハルボウは、不全性においてこそ「音声」が意味や先行性をもつ、とかんがえているのではないか。

ことばそのものが盲目になる。あるいはことばは、反復され一回性を失ったときに別の意味に化ける、内在的な効果=可変性をも抱えている。つまりそれは画柄とおなじ「それ自体の」展開力をもつのだ。換言するなら画と音は相互に従属/被従属の対など形成しない。それぞれ独立に展開し、ときに重複し時に離脱しあうだけだ。干渉はあるが干渉はない。それらはたえず別個に捉えうる二匹の蛇にすぎない。この資格をもってこそ、音と画が陰謀を展開することができる。ラングはトーキーの最初の時点から、トーキー映画の真の潜勢力を見抜いている。

円陣-球というふうに仕掛けられた主題系はどのように「自律的に」変遷するか。すでに男の誘惑の前に、「エルジー」の母親が娘の帰宅の遅すぎる点を気遣い、その名をアパート内に響かせている。このとき画面にアパートの回り階段を真俯瞰で捉える幾何学形構図が現れる。渦巻き、螺旋。その中心にむかって呼ばれる「エルジー」の名は、そのものがすでに「歌」となって、画と音は不調和のままに睦みあう。円/球は「求心」への想像力を導くはずなのに、その回り階段への真俯瞰では中心が意味化されていないのだ。

音声と文字は似た機能をもっている。それぞれ通常はシニフィアンとシニフィエとを分離できない同時性として出来するからだ。ところが『M』ではそこに罅が入れられている。街柱に、すでにつづいている幼女連続にたいし警察からの情報提供と賞金供与を呼びかけるチラシが貼られている。毬をついていたエルジーはそれを見上げる。その瞬間、そのチラシに「影」(ラング映画の特権的表象)が侵入し、じつはその影こそが「可愛いボールだね」と発声したのだ。視覚性が減摩されても音声はそれを「貫く」。音声には貫く力動だけがもとめられ、意志疎通など第二義的な作用にすぎない。

少し展開を追おう。エルジーの死(メトニミーをもちいた表現)ののち、遺体発見の号外が発行され、しかも謎の犯人からの犯行声明が新聞社に送られ、その筆跡ままの版下で大々的に一面掲載されると、警察は犯人検挙に躍起になる。恐ろしい「代行性」も開始される。連続殺人鬼の探索を口実に、浮浪者や売春に供されるクラブなどへのローラー作戦が開始されたのだ。日本の例でいうなら、三億円事件の犯人捜査という口実でアパートのローラー作戦がおこなわれ当時の過激派の居住分布把握が完成した。あるいは竹中労が主張したようにビートルズ来日公演の際の過剰警備が、総理訪米のための羽田行に伴う警備の予行だった可能性もある。権力はひとつの危機にたいして代行的に拡張する。むろんナチスはその伝で覇権を築いた。

それで悪徳を繰り返すクラブにいる夜の人々を、警察が一網打尽にする展開となる。警察が来る、という報せに地下店舗からの階段を上ろうとする者たち。そのとき地下への開口部が、円に近似する「穴」だ。しかし『M』では平面への貫通力を発揮すべき「穴」は不如意を運命づけられる。ここでは警察が出口にすでにいて、群衆を押し返す。性交のような、いや、それよりむなしいピストン運動がそこでしるしづけられる。

斜め俯瞰や真俯瞰の構図が頻出する。それが大ロングの場合は、フレーム内に右往左往する人間を昆虫化する。俯瞰とは人や動きの情け容赦ない捕縛でもある。そこに円が連絡する。警察が犯人の居住地域を予測しようと市街図を開くくだり(市街地図はラングの次作『怪人マブゼ博士』でも頻出する)では、遺体発見現場からローラー作戦の目安のためコンパスで2キロごとの同心円が描かれる。これも真俯瞰による。円の作成は範囲化だ。懐中電灯の光の投射も暗闇にたいしての闇の捕縛と範囲化であって、その円のなかにやがて、眼玉を飛びださせそうになるほど不安をかたどった犯人の汗だらけの顔を、観客は見ることになる。そこでは画面の奥行がその光に画定された部分だけ平面化するという魔術が起こる。

魔術、としるした。「犯人」を基軸にすれば、「音声」が「錯誤」「盲目性」→「自己弁護」→「破局的独白」という道筋を辿るように、画も、構図と対象選択のなかで自動的な変貌をかたどってゆく。その自動性を不全性とも別称できる。たとえば――犯人から新聞社に送られた声明文から筆跡鑑定がおこなわれる。曰く、赤鉛筆で書かれた角ばったアルファベット字体は犯人の隠された攻撃性を指標しているが、同時に怠惰と浮遊性も認められる云々と。

この談義の最中に、ある男の姿が挿入的に画面召喚される。犯人の資質談義の直後での召喚だから機能としては「指呼」だ。そこでペーター・ローレの顔がしるく現れる。だがそれは本当に犯人の実像なのだろうか。犯人は「いままで一度も画面内に明示・同定されてこなかった」。ということは、この挿入は悪くいえば映像の自動展開の勇み足、踏み外しであり、せいぜいよくとって、作品のその後を規定する「フラッシュ・フォワード」ということになる。いずれにせよ挿入の過誤にも似た印象を編集に負わせることで、画そのものへ同定不能性が滲みだしたことになる。むろん意図的な陰謀だ。

映し出されたペーター・ローレは鏡の前にいて、その鏡像と実像を一画面内に分断されている。動作の奇怪な連続性がしるされる。まずは笑いの表情を作為する。次いで二本の指で口の両端が下に引っ張られる。への字口。そこで彼は眼を剥く。妙に顔の筋肉が柔らかい。可塑的だ。つまり彼は「表情の練習」をおこなっている。観客は不安になるだろう。それほどまでにこの男は内心と表情が乖離する離人状態にあるのではないかと。笑った経験が一生になく、笑いの表情を無理やりかたどるために鏡を前に唇の両端をナイフで切ってみた、ロートレアモンの「マルドロール」まで想起される。

刻印はもともとたとえば、内心と表情の関係のように内部接触的であるべきなのだ。それが遊離しているときには、像は意味として形成されないか、遊離が意味となるだけだ。ところが作品は接触型の刻印を代置する。まずは性的犯罪をおこした前歴者リストがつくりだされ、犯行にのこされた「指紋」との照合が図られてゆくだろう。

ところが指紋よりも前提的な接触型の刻印があった。犯人は木目が均されないまま細かく浮き上がった板のうえで声明文を書いたらしく、その赤鉛筆の筆跡は細かい縞模様をかたどっている。犯人の書いたものはその下にあった板目によって「現像」されているのだ。となるとネガの位置にあたるその「板目」を、前歴者リストの居宅から見つけることができるのではないか。像の表の意味が、裏から別の意味によって刻印された二重化の状態は、もともと陰謀のなかにある像が別地点に移行する展開力を示唆している。つまり声明文=像は、それ自体の確定力を超えて、すでに「揺れている」のだ。ラングはそのようにして像の根源的な不安を抉りだす。

警察のローラー作戦で、日常的犯行の機会を封印されてしまった犯罪組織は、この不如意の根源=「幼女殺害を繰り返す変質者」を捕獲しようとかんがえ、そのために今度は街路図を同心円ではなくゾーンに配分して、浮浪者による監視体制をつくりあげる。もともと自警団的な発想が怖いのだが、おなじ犯罪者に括られることがあろうとも、性的変質者は強盗やスリと同列化されない、という選別意識も怖い。後者は悪を単純に生きているのにたいし、たぶん前者は悪の内部的ヒエラルキーそのものを無意味性に脱色してしまう先行的な攪乱者なのだ。彼は悪を生きているのではなく、悪に生かされているだけの反存在で、自立性崩壊の陰惨な疎ましさのなかにある。

気づくべきは警察によるローラー作戦がそれ自体もっている代行性にたいし、犯罪組織が警察そのものへの代行性をもって、対抗的な自己組織化をおこなう、という点だろう。犯罪組織あるいは民衆と、警察あるいは法廷とは、この作品では相同化されている。相同性をしるしづけるため、議論の渦中といった同じ展開の局面で、相同性の編集つなぎがそれで繰り返される。

これはむろんナチス論に転化できる。作品のクライマックスでしるされるペーター・ローレへの糾弾、その民衆による死刑宣告の狂信性がナチス下のドイツ国民性を予行的に暗喩したという言い方もできるが、肝心なのは民衆そのものがナチスの暴力を自発的に「代行」する量的実体だったということだ。

前言のように新たな幼女を毒牙にかけようとしていたローレは、「ペール・ギュント」の口笛、その「音声」だけで盲目の風船売りに「同定」される。ローレは尾行される。尾行者は自分の掌にチョークで「M」の字を大書し、理不尽な難癖を装って、ローレの黒っぽいコートの肩下あたりに、さりげなく「M」の字を「刻印」する。ローレは被現像体となった。やがて連れている童女にその「捺印」を指摘され、彼は自分を取り囲む危機を認識する。それで童女から離れ、包囲網(そのものが「円」の予感を湛える)から決死の脱出を図ろうとする。

ラングはこのときも像そのものの不安定さをつづることを忘れてはいない。ローレの尾行者が街柱の裏側に入ったとき、(本来は尾行継承がなされているのだが)片足の浮浪者が不意に健常な尾行者にすり変わる、トリック撮影のような展開がある。あるいは切羽詰まってローレがある建物に入る瞬間は、画面手前に素早くクルマが擦過し、その背後に一瞬入った奥行のローレが、忍術使いのように忽然と姿を消滅させたような、速度の異調もある。いずれにせよ、裏側から場所の唯一性を現像された声明文を書いてしまったローレは、「M」(「殺人者」の頭文字)の烙印を身体表層に現像された被現像体の繊細さをもってしまっている。だから「開かない扉」「音のサスペンス」「倉庫と檻との相似」「自動的にうごくようにみえるドアノブ」といった付帯テーマののち、倉庫に隠れる彼の顔は、懐中電灯の円形投射の中央に、破局的に「現像」されることになるだろう。犯罪組織はローレの捕縛に成功した。

たったひとり、ローレ拉致の成功に与れなかった犯罪組織の一員がいた。彼はローレの潜伏可能性のある一室に辿りつこうと、階上の床にドリルで「穴」を穿ち、そこから階下に到着した男だ。警察介入は時限化され、ローレ確保に成功した仲間たちは逃走する。男だけが置き去りにされた。犯罪組織がローレ探査のためにおこなった狼藉のあとを画面展開はフラッシュ編集的に「列挙」する。「穴」も映る。このとき階下の男は物音を聴きつけ、階上に向かい縄梯子を下ろすよう依頼する。それは下ろされ、男は上り始める。懐中電灯の点灯。上っている最中の「手を上げろ」という原型的にして秀逸なギャグ。「無理ですぜ」という男に、事態が一挙に察知されたとわかる。このとき俯瞰画面がより引くと、穴と、穴の周りに円陣を組む警官たちの、二重同心円構図が現れる。なにしろ警察は「同心円」をつくる権力なのだった。

これらののち、語り草となった名場面となる。ローレは犯罪組織の先導する裁判にかけられるため、廃墟となったウィスキー醸造所の「がらんどう」空間に、犯罪組織によってたたきこまれるのだ。自分の入った鎖された空間の、内部的広さを気配で察知するローレ。振り返る。すると犯罪組織構成員、浮浪者の枠組を超えた「民衆」がその場に大勢結集しているのがわかる。このときの「数」の迫力は、ローレの「見た目」の画が移ること、つまりパンニングでしるされる。それまでなるべくパンの使用を禁欲されていたので、数を次々に呑みこんでゆくこのパンニングは運動展開の点で異様な迫力を帯びる。

彼らは円陣を組んでいるわけではない。ところがローレの立ち位置を架空の中心点にしてカメラのパン運動そのものがその先端で連続的に円弧を描いているのだ。つまりローレは、円に囲まれるのではなく、円そのものに変換する。あるいは円のなかに自らを消失させることへと接続されたのだ。事態は残酷だ。

円は中央への求心を想像力にしいると前言した。死刑宣告を叫んでローレに雪崩れ打つまで、ローレと民衆との距離は保たれている。とうぜん縦構図が連続するわけだが、そのなかでローレの声を聴き、ローレ当人だと同定証言をする風船売りはローレ側にいる。結果、手前から順に「風船」「ローレ」「群衆」という三重の縦構図ができる。なんという中心性のつよさ。縦構図が俯瞰構図とともに画面の強度を生成するのはいうまでもない。

可視性と同定性の奪取による不気味さから始まったペーター・ローレの演技は、いよいよここから伝説的な「自己展開」に入る。最初は自分ではない、これは誤認逮捕だ、警察を呼べ、とののしるが、その言説の「自己再帰性」は民衆の哄笑に迎えられる。法廷の成立与件は犯罪組織によって綿密に盛り込まれていて、ローレには弁護士も立てられている。ところが弁護士が精神異常者の責任能力の不在を規定する刑法51条に言明するやいなや、ローレは自動展開的、自己破滅的に群衆の圧力をまえに犯行告白に及んでゆく。

「我慢できなかった」「ほかの道はなかった」「自分のなかに悪魔がいた」「ひとりで通りを歩いていると、追ってくる奴がいる」「自分自身だ」「逃げる」「走って」「追ってくるのは自分自身のほかに亡霊もそうだ」「やがてその恐怖から解放される」「ところが自分が何をしたのか記憶していない」「翌日の新聞をみて、自分が何をしたのかわかる」云々。鏡を前にした彼の仕種同様、ローレの犯罪が離人症的な疎隔感をもって、夢のように遂行されていたことがここで完全にわかる。

ローレの表情を描写してこなかった。やがて上からの照明によって表現派的な強度にそれは包まれる。汗。眼の剥き。自嘲。必死。恐怖。狂気。眼圧の高いギョロ眼の、死魚のような生臭さが圧巻だ。あらゆる感情や兆候が、そこでは雄弁というより「自己展開的に」語られる。もともとローレの丸顔は若干の肥満を抜けば、可愛い。優男の範疇だ。目許には女性性も刻まれている。ところが意志の薄弱性、不吉さ、持続力のなさ、性的な露骨さも「同時に」その表情の微細レベルには刻印(=現像)されていて、実際は「要約」できない。むろん理性は要約しようとして、それを変態性の枠に押し込める。ヴァルネラビリティ=攻撃誘発性は、一見その弱さ固定後の意味に宿るように見えながら、実際は固定前の、「表情連鎖の無限の勃発性」「巧緻を印象づける素早さ」のほうから不断に醸成されてくる。

恐ろしいことに、作劇やローレの演技を「超えて」、そうした表情のありかたそのものがヴァルネラビリティを「こちらに」分泌しつづける対立効果、鏡面効果をもっているのだ。それを実現したがゆえのローレの伝説的名演というべきなのではないか。むろんローレはラングに先駆けてナチスから亡命したユダヤ系であり、それもあって、この作品のローレの位置は、そのまま誤ったユダヤ性を湧き出させる泉ともなった。見えないのに怖いもの。一様なのに変化しつづける潜勢。『M』の恐怖はローレにそうしたユダヤ性をおもわず捺印してしまう、自己感覚の暴走恐怖にほかならない。それで『M』はドイツ観客のみならず全世界の観客の鏡像を恐怖裡につくりあげたのだった。

最後に補筆を。この作品でローレはやがて毒牙にかけようとする少女とともに、ベルリン繁華街をさまよう。その際に現れる商業施設のショウウィンドーはすべて幻惑的だ。ガラスの障壁に繊細な感覚を発揮するラングに相応しい事態だが、それはあたかもベンヤミンが19世紀パリのパサージュに見出したものがベルリンに華やかに飛び火したかのようだ。だがそのファンタスマゴリアは「それ自体」では完成されない。少女「とともに」見て、その表層に少女の分身まで漂っていなければならない、というのが、ラングの判定だろう。この判定はよくかんがえると怖い。
 
 

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2012年09月30日 日記 トラックバック(1) コメント(0)












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警察「幼女が頻繁に襲われるようになったのはゲームと漫画が原因。今すぐ規制すべき!」

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/10/04(木) 19:10:20.16 ID:nuYPiabL0 ?2BP(6112)依頼 241

2012年10月04日 【2ch】ニュース速報嫌儲版