大島弓子・七月七日に ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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大島弓子・七月七日に

 
本日からはじまる学部生向け演習「少女マンガを読む」(ただし初日はオリエンテーション)のため、昨日の夜、導入のひとつとなる大島弓子の短篇「七月七日に」を読み直していた。それでティーンズのころおぼえたのと同等の感動にひたってしまった。

70年代後半当時、少女マンガには「プラトニック礼賛」というイデオロギー上の歯止めがかけられていて、「性の深淵」は「垣間みえる傷口」として作品の深部に装填されている。それは表現上の限界だったはずだが、逆手にとられた。そのなかで多くはトランスジェンダーをつかって「少女原理主義」「ためいき原理主義」の王国を怪物的につくったのが大島弓子だ。思考的閉塞性のなかに「突破」「転覆」が縦横し自立している点で、ティーンズ時代のぼくは、たとえば大島弓子を、ロートレアモンやジュネと同列にとらえてきた。共通している特徴を、「表現の人工楽園性」と換言してもいい。

その大島マンガを虚心坦懐にながめなおすと、コマ線の消滅、斜め化、画柄のタチキリによる膨張化という「逸脱」があって、そこに生ずるべき空隙を代補的に「植物性」が填めつくしているとわかる。樹木、草、花の基底があって、その植物性は髪や睫毛をもつ人物画へも反射し、人間と植物にあるべき境界線が溶融してゆく。くわえて、細密的な植物性の蔓延と同等の位置にあるのがネームだ。ナレーションでもフキダシでも、ここでは「文字の繊かさ」までもが植物性の擬制を得ている。こんな「詩」があった、ということだ。

植物、人物、文字(ときに波頭を中心にした水の描写も)――それらは、場面によっては花火をスローモーションでとらえたような、動勢の爆発へと移行してゆく。ところが「線」はすべて相互に結索されていて実際は孤立しない。「傷をつける」以外の「線」の機能性、それがたぶん大島弓子の「幸福なフェミニズム」の正体だ。女性器的なものはすべて盲目か瞑目のうちにまどろんでいる。それでも「植物」という孤独の分布に女性性をみる感覚は、詩歌分野もふくめ崇敬するしかない。

ヒロインが「母」として接してきた者にかかわり、あまりに中間的な立ち位置と溜息によってつづられる正体暴露は、ヒロインと幼馴染の恋のゆくえ、その幼馴染の兄と「母」の隠された性愛の帰趨と対位法な(つまり音楽的な)、「物語生成」を組織される。(怪物的な)思想、空間上の植物性=線の湧出とともに、ここから感知させる大島弓子の創造の質は、むろん独自的で圧倒的だ。

「父」であるべき者の「母」としての現前は、その後、初期吉本ばななの小説発想の祖型をもつくった。父母間のトランスジェンダーはよくかんがえると、中間性に向けての、家庭運営上の叡智ともいえる。「七月七日に」には大島弓子にしては珍しい太平洋戦争勃発時の時制設定もほどこされているが、この時代性も最終的には回顧のための無時間性へと昇華されてゆく。

全体を回顧(フラッシュバック)で括弧入れされた時間進展の無重力性のなかでは、回顧の充実のため、芯を形成する重力ももとめられるだろう(ところがそれは「重力」でありながら「浮力」なのだ)。物質変容が起こる。解かれた「母」の黒い蓬髪は、夜の川の波と溶融して、性愛に伏在する真の「漆黒」を、周囲の暗闇の森とともに奔流させるのだ。「線」が短冊へと拡張してゆく恐怖。「わたしの着替えをみてはならぬ」「わたしは時限付で彼方へと帰還する」と宣言する「母」は、いわば『夕鶴』と『竹取物語』の想像力を混入された接近不能の人物だが、その接近不能性の極点で、オフィリア・コンプレックスのすさまじい黒化(ニグレト)が起こった恰好になる。

沈思者の思考体系では、ベンヤミンの事例のようにニグレトが枢要となる。それは歴史省察の内側から滲みあがってくるのが通例だが、大島弓子のすごいのは、ニグレトに力動性があたえられ、しかもそれが現実か幻かわからない点だろう。そこではニグレトは、思考の輪郭線をかすめ、感覚にざわめきをあたえる、逆転性の何かだった。

おもいだす、「フェミニンなもの」をティーンズのぼくはまず大島弓子から学んだと。もうひとりの「ユーミン」、荒井由実からではなかった。このフェミニンの類型に足りないものは、葛原妙子あるいは幸田文的な「残酷」だけだろう。知られるように、大島弓子はのち、「線」分布を疎(鬆)にすることで、その残酷も笑いのうちに獲得してゆく。
 

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2012年10月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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