詩集の紙面について ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

詩集の紙面についてのページです。

詩集の紙面について

 
 
思潮社からの初のオンデマンド詩集として、高塚謙太郎くんの詩集とともに出る、ぼくの『みんなを、屋根に。』、そのPDFによるゲラが昨日、添付メールで届いた。まあ自分のリズムと特有の発想飛躍によってすべての詩行がなっているわけだから、久しぶりに読み返しても気持ちのわるいわけがなく、ともあれ、突っ張った言語実験的な詩篇とか、長篇詩を排除して、全体にやわらかい(おとなしい)統一性が出ているのもいい、とおもった。当初は500頁くらいの怪物的な本もかんがえていたのだが、最終的にはその三分の一にまで割愛・圧縮したのだった。よりちいさくなろう、野心を封じよう、というのが、ここ二、三年の自分の気分だ。

さてゲラ画面をみていて湧き起こった、一般論をこれからひとつ。詩集の組みについてだ。

当初の予定では詩集は右頁から開始する「見開き起こし」と、左頁から開始する「片起こし」、その双方をふくむ「両起こし」だった。編集者として予算と睨みあった経験があるからか、ぼくは紙面については吝嗇なほうで、「見開き起こし」貫徹によって生ずる、詩篇終了後の、左の白頁を歓迎しない。あるいは詩集は最初に文庫で接しているので、一頁内に、数行アキを挟んで「オクリ」で詩篇が連続してくる形式もべつだん厭ではない(二段組みは余白のきれいさを失わせるし、長い詩行が次行にオクリになってしまうことも多いので嫌いだが)。

ところがPDFをみると、デザイナーは、当初予定していた詩篇タイトルまわりの五行ドリから行数をふやした。結果、頁内に収まるべき行が、次頁に数行のこる事例がまずふえる。つぎに、「両起こし」主義をやめて、「見開き起こし」主義を貫徹している。結果、ぼくの詩集には例外的なほど、左の白頁もふえてしまった。もともとは見開きを基準に、対句的に詩篇を左右の頁で並べたりしながら、それでもなるたけ左頁で一詩篇の詩行が完了するよう、展開に留意したものだった。

なぜそうなったのかは、すぐわかる。オンデマンド出版だからあまり頁増が気にならなかったのだ。つまり、頁単位で機械的に累算されてゆく製作費そのものは版元が負担するが、一頁あたりの単価は、通常の印刷/製本/取次流通の詩集の一頁単価にたいし比較にならないほど安価だということだ。ならばデザイナーは理想の組みで版面をつくれる。そのデザイナーの思想が、「見開き起こし」貫徹、左の白頁も問題なし、というものだったはずだ。

最初はPDF画面を見て面食らったが、紙面展開に風穴があいて、一篇一篇の読後に形成される「余韻」が目立つようになってきたな、とおもう。デザイナーはたぶん、ぼくの詩篇の質を捉えて、余韻を殺すような「展開の目詰まり」があってはいけない、とかんがえたみたいなのだ。崇敬と尊重の念が払われたということだし、結果的にはぼく自身もこの組みがいいな、とおもったのだから、作者としても感謝するほかない。

詩集は基本的には造本技術、用紙・用字、組み技術の粋をあつめたものだ。街なかの印刷製本所でつくられた私家本は、おおくはその出来の拙劣さが明白になってしまう。それらはデザインによって内容に損傷を受けている。むろん今度の詩集はオンデマンド出版だから、データ提供を簡易書籍のかたちでする、ていどにぼくは当初かんがえていたが、思潮社ではデザイナーをつけ版面作成(コンピュータのデータだが)を自己責任化し、オンデマンド業者(じつはアマゾン)の通例製本・デザインが介入できないよう安全バリアをつくってくれた。表紙回りがどうなるかわからないが、たぶん見栄えの良い詩集が、オンデマンドながらそれで提供されることになるとおもう。

詩集はもともと頁単価がたかい。通例の400部印刷なら、著者負担が一頁1万円、価格設定が一頁20円というのが相場だろう。その頁単価の高さ、つまり丁寧さは、手にとった読者に「再読誘惑」をかけるためだ。文庫型の詩集に較べ、書籍型の詩集は、用字の大きさ、見渡しの透明性も相まって、頁を繰りながら読了へむかってゆく「時間」が濃厚になる。それで詩篇個々の「入り」も、詩篇ごとの加算感覚も、繊細になる。扉をめくったあとの、最初の詩篇の発端のときめき。残り頁が少なくなってきて、頁をめくる指が「大団円=祝言」を自然に期待してしまう、密着感のある身体性。

そのなかで散文詩篇ではなく行分け詩篇がこのまれるのは、散文詩篇での作者からの一方的な圧倒感供与を読者が嫌い、行分けに向かって入り込んでいる余白から、たとえば気散じや休息の余地があたえられ、読者が自由な読解速度をつくれるよう配慮されているためだ。詩篇成立与件に行分けが入るか否かは微妙な問題だが、荒川洋治さんなどは、詩が詩として認知される理由として、行分け形式の見た目が大きい、としている。

それでいいたいのは、左の白頁が、たぶん「行分け」の発展形ではないか、ということだ。

柴田千晶さんの新詩集『生家へ』とともに、小川三郎さんの新詩集『象とY字路』が昨日届き、小川詩集は読了までの所要時間が30分ていどといつも冷静に計算されているので、出講のための市電電車と地下鉄内で手にとり、実際に読了してしまった。

内容は「素晴らしい」とだけとりあえずいっておくが、小川さんは詩篇タイトルを版組みにたいしどう繰り入れるかで独特のかんがえをもつひとだ。以前の詩集では見開き起こし主義が貫徹されていて、詩篇が始まる際には、右頁に詩篇タイトルだけが印刷され、その頁が余白であふれかえった。ところが今回はいわば詩篇タイトルを「扉」的にしめすため、逆に詩篇開始時の左頁に詩篇タイトルのみが印刷されている。

これは一詩篇をコピーするときタイトルの一頁ぶん余計にコピーをする手間をしいるようにもおもえるが、気に入った詩篇をコピーする時代はもう終わった、必要あればキーボードで転記打ちすればいい、という小川さんの判断なのではないか。実際、小川さんの一詩篇は趨勢のなかでは相対的に文字数が少なく、転記打ちに向いている。

その転記打ちを誘うのが、詩篇ごとの「区切り」の感覚だ。だから扉のようにして詩篇タイトルを左頁に一行印刷することも尊重される。

同時に、小川さんは左頁が白になることを徹底的に嫌っているとも気づく。左頁に数行入ったところで終わる詩篇が多いのだ。結果、その裏(右頁)が白になり、それが次の詩篇タイトルをしるした扉と見開き対置される。つまりその見開きでは、ほとんどの場合、トータルで一行が印刷されるのみなのだ。空白で区切りをつける、という考え方が徹底されている。脱帽した。

詩作者はむろん詩稿を編集者にメールし、あとは自由に組んで、というわけにはゆかない。自分の詩篇の重なりが読者にどう体験されるか、そこまで意を払って、それで当事者性というか作者性がようやく完結する。ぼくの場合は上記のようにデザイナー任せで、それゆえ「発見」にも導かれたが、小川さんの紙面展開にたいしてのコントロール能力は、ただ事ではないと畏れたのだった。
 
 

スポンサーサイト

2012年10月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する