小川三郎・象とY字路 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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小川三郎・象とY字路

 
 
理路が矛盾律など意外性をともなう屈折をくりかえし、それで「内域」ができる。とうぜん内域はひろさとして現れるが、このひろさをつくった元をさぐると、元は平明なことばでしかない。通常の詩なら圧縮と、それに反する語間距離のひろさとによって、空間をつくるのに、そういう手さばきをせずに、語がそのまま「在って」、在ってながれることでそのまま変容している――これが小川三郎の詩法だろう。

たとえばこんなフレーズ――《〔…〕この町では顔さえあれば/みんな寄ってきて幸せになれた/はなから双子であったならば/顔など必要なかったのだが。》。ここでは格言性を分泌するようにみえて、内容がヘンであることで、ありうべき格言性をみずから離脱させている。こうした離脱が、縮減や脱色といったダウナー作用とも響きあっている点にも、留意すべきだろう。

何ごとも謳歌しない。陶酔もしない。それでも煙の「折れ」がいつしか「真っ直ぐ」へと変容しているのは、見ること、感じることがそれ自体に内包している時差をフレーズが境目を隠して吐き出すためだ。そうかんがえるのなら、小川の空間は時間でもある。この時間に脱色がかけ合わさると、「夏休みは/まだ終わらない」といった無変化まで生ずる。

いずれにせよ、理路の屈折体を行分け詩形に変えてゆく小川の詩は、屈折体である以上、ことばの最も峻厳な意味での退化を、詩集ごとに昂進させざるを得ない。詩集間に変化のない作者は論外だが、では退化が無慈悲に現れている作者を、どのように遇すればいいのか。畏怖、ということでしかないだろう。今回の『象とY字路』では、『永遠へと続く午後の直中』時点なら鮮やかに書かれていただろうフレーズが、発現不能性=膠着を生きているような、不穏な寸止め感をおぼえる。これが「うまく書くだけ」の詩の多い現状にあって、異彩というにとどまらない精神的吐血の匂いを発散させている。だから同一語の整理といった問題も、小川三郎の問題ではない。

屈折は、通常なら抒情と叙事の分野に集中する。唖然としたのは、今度は叙景の分野にも屈折が現れた点だった。それで集中の「夕焼け島」が、全体のなかでうつくしい陥没点になっている。ただしこの「ほかとはちがうこと」は、やはり「感覚の屈折」で割ると共約数的に脆くも縮小化してしまう。むろん詩集のながれに、こういう崩壊の逆転を仕込める才能はそうザラにいない。以上、簡単な詩集紹介だったが、最後にその「夕焼け島」を引用して、この稿を閉じよう。



【夕焼け島】
小川三郎


夕焼け島が地球の上で
夜の来るのを待っている。
小船を漕いで島に向かう。

近づいてみると夕焼け島は
とても高くまで膨れている。
手を伸ばして島に触れると
だいぶあたたかくなっている。

島の裾野をよじ登り
頂上の穴を探りあて
中にすっぽり入ってみる。
足を伸ばして
探ってみると
指の先が地球に届いて
そこは恥知らずに振動している。

力を込めて夕焼け島を
一気に底から引き剥がす。
途端に膜があふれだし
海はすぐさま熱くなり
目の裏側に星が降る。

〔…〕

夕焼け島を空に掲げて
金星に手渡すと
夕焼け島は地球にないのに
海はまたまだ熱くなって
波の奥に乳歯が生えた。
切り離された遠い未来に
様々な顔が浮かんで消えた。

星がぜんぶ落ちてしまうと
地球はひとつ暗くなる。
夕焼け島があったところに
深く目玉が刻まれている。
長いまつ毛が美しく
最初の瞬きが弾かれると
朝が遠くでうろつきはじめ
金星の行方が知れなくなった。



風景は叙述されている(行為も)。それでもついに「夕焼け島」は対象可能性とは外れた位置で謎を生産するままだ。いろいろな隠喩解読も、結局は無駄になるだろう。ただたとえば「金星」や「乳歯」の語用に動悸したことが読後にあやしく沈殿されるだけだ。小川の詩の正体がそれでわかる――メトニミーだ。
 
 

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2012年10月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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