フリッツ・ラング 死滅の谷(死神の谷)
フリッツ・ラングの、テア・フォン・ハルボウとの共同脚本第三作(21)は長らく『死滅の谷』と呼びならわされてきたが、DVDタイトルが『死神の谷』と変更された。「疲れ切った死神」という原題に、より近づけるための措置だ。
夫人でもあった脚本家テア・フォン・ハルボウとのコラボレーションによるラングの無声映画は、展開力がいつでも幻惑的だ。ハルボウの童心にみちた想像力が、撮影を統括するラングの図像形成力と相俟って、文学性を超えた映画性の「展開」が生ずる、ということだ。本作では物語全体に内挿される三つの「灯の物語」が、臓腑状の房をなして、それが「変更不能性として」展開する。
近世ドイツを舞台に、ゴシックロマンスと静謐を折衷した魅惑的な雰囲気で作品がはじまる。説明字幕に「美しい村に相思相愛の若い男女がいて、彼らが死神に出会う」と前置され、その後、「絵解き」が起こるのは、ラング映画のいつもどおりの流儀だ。むろん言語性に前提されている絵解きは、展開によって言語的規定性からの飛躍を遂げる。ともあれ、酒場に向かう男女(接吻を繰り返している)のいる乗り合い馬車に死神が同乗し、行き着いた酒場では相席になってしまう。
その死神を演じるベルンハルト・ゲッケが素晴らしい。峻厳な顔の物質性、絶望に炎える碧眼、秀でた額が強調される後退した蓬髪……いわば貴族性が、思慮と倦怠とで理想的に混合されているのだ。むろん黒マントに杖という、姿の定式も守られている。
若い女(『カリガリ博士』のリル・ダゴファー)は、相席になった見知らぬ男(=死神)に不気味さを感じる。男女は酒場の女将から振舞われた婚約者用のカップ(上下双方に向けられ盃がしつらえられていて、カップ全体を上下させながら相互に呑みあうつくりになっている)で葡萄酒を飲んでいたが、女は見知らぬ男の飲むカップが砂時計を「内包」していると気づく。それで恋人(ワルター・ヤンセン)を置き去りにしていったん店の奥へ入り、ひとしきり子猫たちと戯れたあと酒場に戻る。恋人がいない。周囲の客に訊けば、相席になった男と消えた、という。女は恋人の居所をむなしく探しまわる仕儀となる。
ここで本作の図像展開性のすべてが予告されている。婚約者同士の飲むカップは外側に飲み口が開かれるかたちで上下軸にたいし相似形をかたどっているのにたいし、砂時計は内側が通じ合うかたちで上下軸にたいし相似形をしるしている。つまりこの二つは、位相反転をえがきながらも相似なのだった。やがて明らかになるがこの作品では「相似なものは二重化する」という鉄則が貫かれる。それで特撮技術(トリック撮影)としてディゾルヴ(オーバーラップ)も駆使されることになるが、問題は展開初期に現れた、婚約者同士のカップと砂時計が、ディゾルヴのないままにディゾルヴの関係を喚起しているということだろう。
酒場の場面となる前に、死神にかかわる説明的物語が挿入されている。長旅に疲れた「よそ者」が豊富な財力に物をいわせ、不気味なことに墓場のひろい隣接地を購入したいと村に申し出る。その土地は墓地の拡張用にストックされていたが、拒む余地なくそのよそ者のもとへと99年の借地権で渡った。よそ者は土地全体を高い(高すぎる)塀で囲った。不思議なことにすべてが塀で扉が見当たらない。誰も入れず、なかを探ることもできない。やがてその塀のうちには、この世のものでない者しか入れないと、観客に理解されてゆく。
謎の男とともに消えた恋人を探すべく若い女は村中を奔走する。いつしか夜になっている(ただし当時は夜景撮影での夜の描写が部分的だ)。謎の男=死神の張り巡らせた高い塀のまえで女は異様な光景に遭遇する。半透明化した死者たちが次々と塀を「通過」してゆくのだ(ディゾルヴの最初の駆使)。なかには自分の恋人もいた。その衝撃でついに気絶する。
薬草採取に長けた薬屋の老人が女を見つけ、自分の店に連れ帰り、滋養あふれる薬草茶で、彼女を賦活させようとする。薬屋が薬草茶を淹れる合間に、若い女はソロモン書の一節を夢うつつで読む。《愛は死と同等に強い》。「同等に」とあるこの一節を、《愛は死「よりも」強い》と女が読み違えたことがのちにわかる。「相似するもの同士の二重化」という運命論的な主題が、物語上、惹起されはじめたのだ。
死神が張り巡らせた塀の、「高すぎること」は、何を意味するか。「高すぎること」は閉域特有の拒絶であり、規定されている運命論に改変のための人為が介入できないことを表している。ところが万物が変容相に置かれるラング映画では、「高すぎること」が減殺される。薬屋の調合場で薬屋が薬草茶を淹れるあいだに毒を発見した女は、「愛は死よりも強い」を曲解して自殺のためそれを煽ろうとするが、刹那、自分が倒れていた高すぎる塀の前へと差し戻される。塀が女陰状に口をひらき、なかに階段がみえる(この女陰状の傷口のなかに階段があるというイメージはシュルレアリスティックだ)。のぼると、死神がいる。いわく、「お前の恋人は運命により、死んだ」。受け入れない女に死神は条件を出す。運命によって死すべき三人の者がいる。うちひとりでもお前の機転で死から遁れさせたなら、お前の恋人を復活させよう――と。
そのまえに、画面の上下軸いっぱいに聳える高い塀のまえに人物が立つロングショットが印象に残る。ロングであることで、人物の背丈の卑小さが高い塀に峻厳に対比されている。そのショットの当事者はふたりいた。最初が死神、次が若い女だ。だから深層では死神と若い女は作中で隠れた相似形を組織されている。高すぎることは、謎の男が女に、自分が死神だと説明する段では、人の運命=余命と直結される蝋燭の、丈の高すぎる林立へとさらに展開される。そこでは高さの減殺がそのまま死への漸近を意味する。死の決定が炎の消滅なのだった。
死神はそこで初めていう、運命の従うままにとはいえ、自分は人を死に導くのに疲れきっている、と。ここで疲弊こそが貴族性を練り上げる、というサンボリスム的主題が露頭する。童心横溢のハルボウだが、彼女はいつも文学的真実を、事故のように掘り当ててしまうといえる。
ともあれ死神の「課題」によって、前置→絵解き、というかたちでまたもや「展開」が開始され、展開がことばの前提的規定性すら凌駕してしまう事態が起こる。予想されるように、死の試練にかけられる美男子は、もともとの恋人役ワルター・ヤンセンによってすべて演じられ、恋人を死から救うべき女も、これまたリル・ダゴファーによってすべて演じられる。これら役柄の重複はむろん、「相似なものは二重化する」という本作の鉄則によっている。
「第一の灯の物語」の舞台はバクダッドとおぼしい中世のアラブの都市。首長の妹という高貴な身分の女が異教徒のフランク人と隠れて愛し合っている。断食月に入りイスラム教徒の結集がつよくなると、二人は会えない。しびれを切らしたフランク人の恋人が女に会いにイスラム教徒に変装して宮殿に入ると、異教徒だと露見してしまう。逃げる男。一旦は宮殿内に隠れるがやがて捕まる。そして真夜中に首だけ出された状態で、埋められてしまう。
「物語」の要約としては如上だが、ラングはここではのちの『メトロポリス』につながるアクション連鎖を実現している。隠れる者/探す者、走る者/追う者。ラング世界特有の階段と扉が駆使される。「扉」とはここから向こうへの「展開」を導く媒質だから、それは現実上の二重化と接しているものともいえる。ところがフランク人に外在されていた背丈は「地面から露出しただけの」首として減殺/縮小されてしまう。それが彼の運命の蝋燭の短小化、炎の消滅とリンクする。結果、首長の妹が埋められた場所に駆けつけたときには、フランク人の恋人はむごたらしくも絶命していた。
三つの「灯の物語」では、リル・ダゴファーによって演じられる女は、三者ともに積極的、運命にたいし好戦的で、ときに他者の死(犠牲)も厭わない自己中心性を装填されている(それで現在の眼からみると実際には感情移入が起きない)。書いていなかったが、三つの「灯の物語」では、配役重複がじつは死神役のベルンハルト・ゲッケにも起こっていた。たとえば「第一の灯の物語」では、フランク人の男の首から下を地面に埋める庭師がゲッケによって演じられていた。
深読みができる。実際は庭師=死神は、女=首長の妹がフランク人の恋人を機転によって救うことを希みながら、なおも穴を掘ったのだ。とすれば運命論からの解放を希みながら、それに甘んじるしかない、という、のちにユダヤ人の多くに起こる悲劇を、深い位相で体現しているのは、さまざまな姿に分岐するヒロインでは決してなく、死神のほうなのだ。三つの「灯の物語」のうち二つでは異国情緒あふれる舞台設定がなされるため、リル・ダゴファーはいわばコスプレ的に衣裳と化粧を変え、眼も彩なゆたかさで「分岐」するが、死神のほうは「いくら姿が分岐しても本質はおなじ」という絶望だけがあたえられている(いっぽう死の運命が近づく恋人はいわば三つの挿話ではたんなる物語機能の位置にまで存在を貶められている――彼には「能動性」の問題が生じていないのだ)。死神にあたえられた絶望のほうが、課題に挑戦する女の能動性よりも魅惑的に映る。
同一の俳優が次々に別の役柄に扮してゆくことは多重化の印象を呼び出すが、実際は映画の時空が多孔状の不安を呈すことにもつながる。「第二の灯の物語」では舞台が近世終わりのイタリアに移る(運河とゴンドラが配されることから舞台はヴェネツィアと推定される)。「フィアメッタ」という名の金満家の娘は、野卑で自信家、かなり年長の権力者「ジェローラモ」と婚約している身の上でありながら、素姓のたしかでない「フランチェスコ」を密かに愛している。それでカーニヴァルの幻惑を利用して、ジェローラモを亡き者にしようと奸計を練る。自らジェローラモと剣の果し合いをするあいだに、隙をついて毒を塗った剣で刺殺しようと企むのだ。
彼女はジェローラモには自分の館に来るよう誘いの手紙を書き、フランチェスコには蟄居ののち果報があると確約する手紙を書く。二重化は(それは不用意な二重化だ)、その二通の手紙を彼女が一人のメッセンジャーに託すことで生じる。ジェローラモが使者から手紙を渡されたあと陰謀を予感し、部下に使者を襲わせてフランチェスコ宛ての手紙を奪い文面を知るのだ。ジェローラモはフィアメッタを装った文面でフランチェスコに館への招待を綴る手紙を渡す。有頂天になるフランチェスコ。やがて意味性はジェローラモ、内実はフランチェスコという剣士(眼にはナポレオン・ソロとおなじ黒い目無し眼帯があって正体を同定できない)がフィアメッタの前に現れる。
ラング映画特有、表面上の視覚性が意味の裏切りを内包しているという主題がここで生じる。はじまる剣戟。事前の策どおり、物陰に隠れていた「ムーア人」がフィアメッタの相手の背中を毒剣で刺す。初めて出された男の声(悲鳴と呻きだった)に不安を感じ、倒れた男の眼帯を取ると、現れたのは恋するフランチェスコの顔だった。では死神はこの第二挿話ではどこにいたのか。フランチェスコを刺した黒い肌のムーア人こそが彼だった。彼は、第一挿話の終わり同様、結末でふたたび「絶望的に」死神の姿に戻る。
三つの「灯の物語」のうち最高傑作ともいえる「第三」がはじまる。エキゾチックにも舞台は古代中国。前話で重要な小道具だった手紙は、冒頭、長い巻紙に変じる。天子から魔術師への文面――《自分の誕生日の宴で魔法を披露せよ。ただしその魔法に満足ゆかなければ手打ちに処す》。手紙はディゾルヴにより画面の中空を蛇のようにうごめく。
魔術師には実娘と弟子がいて、これが相思相愛、やはりダゴファーとヤンセンのコンビによって演じられている。魔術が題材になっているから、ディゾルヴが駆使できる。まずは浮き上がる魔法の絨毯(見事なトリック撮影)にのって魔術師・娘・弟子の三人は中空を飛び(ここもディゾルヴ)、天子のもとにおもむく(ここでは高さが低さへと再定着する「減殺」が反復されている)。魔法の披露は次の順序。まずは天子用の無敵の軍隊を献呈するとして、箱から極小のミニチュア軍隊が現れる。かつて高い壁を死者の群れが通りぬけたのと同等に、ここでは箱から天主へと軍隊があふれでてくる。時間軸のうえで相似=二重化が生起しているのだ。次が魔法の馬の献呈。陶製の馬の小さな玩具とみえたものが次第に仔馬、大人の馬となる様子が、今度は段階カッティングの魔法でしるされる。ところが天子の関心はもう魔術師の娘にあり、それら魔法の献呈品とともにお前の娘もわがもとに納めよと天子はきかない。切羽詰まった娘と弟子はその場から逃げようとして捕縛される。
結局、娘は父親のもつ、翡翠でできた魔法の杖を奪いとって天子の宮殿から父の弟子と逐電した。杖をつかっての変容の魔術がディゾルヴやカット変化をつうじて連続する。父親がサボテンに、門衛が豚に、逃走のための道具が象に変わる(それでも娘を誘惑に行った天子が叶えられずに戻るとき、円形の門が奥行に連続する縦構図のほうが、さらに深いラング的な映像魔術を具現している)。
天子から追っ手に弓遣いが指名され、皮肉なことに天子に献上された魔法の馬も供される。「長さの縮小」という主題は、魔法の使用ごとに父から奪った魔法の杖の丈が減ってゆくディテールに現れる。むろんそれは女が守る恋人=父の弟子の余命の減少とリンクしている。弓遣いが天翔ける(ディゾルヴによる)馬とともに最接近して、娘は自分と恋人を千手の仏像(そのまえに彼らは磨崖仏の前にいた)と虎に姿を変える。それで魔法の杖は使い切った。しかし弓遣いは彼らの正体を見抜き、虎を射抜き死へと導いた。むろんその弓遣いが死神の正体だった。この弓遣いの、死神衣裳への復帰によって、「あるものが別のものへと加算的に変じる」ディゾルヴが終焉を迎える。
ついに女の機智は、三人の死すべき恋人を救えなかった。「それでも」死神は女に恋人救出に結びつく最後の課題をあたえる。一時間のうちに「死ぬべきでないのに死に直面している者」を見つけよ、と。時制は薬屋の調剤室で女が服毒する寸前に戻る。女は薬屋、乞食、老人の入院患者たちに命の提供を乞うが、むろんそんな手前勝手に応じるお人よしはいない。というか、女は探索対象を「死すべきなのに、死にたがらない者」と誤解(=二重化)していた。そのうち病院が発火する。救出された母親が、なかに自分の赤ん坊がいると泣いて訴える。敢然とヒロインは火中の病院に突入、ついに炎に巻かれる寸前の赤子を見つける。それこそが「死すべきでないのに死に直面している者」だった。
ディゾルヴで無の場所に現れる死神。死神が赤子を彼女から受け取ろうとした刹那、女は思い替える。自分の恋人を蘇らせるためにこの無辜の児を犠牲にすることはできないと。それで恋人の死が決定した。(たぶん)彼女自身も炎に巻かれた。むろんそれら炎もディゾルヴで表現された幻影にすぎないが、幻影とはこの世ではまず、二重化の表出なのだ。この画柄上の二重化によって運命の二重化も付帯することが、映画の宿命だということを、フリッツ・ラングは告げている。
女の恋人の遺体が安置されている場所。悲嘆のあまり女がその遺体のうえに打ち伏す。女から意識が消える。その女を抱き起こし、男の遺体から男の幻影をとりだす死神。そのあとに生じる死神の動作が、詳細はこれからこの作品を観るひとのために書かないが、この映画で最も美しい仕種だ。そこでは連続したディゾルヴ=「二重化による像の形成」とは逆の、「消滅」も描かれる。ともあれ、若い恋人同士は、死神によって別天地へと差し向けられた。ただしそれが生地なのか死地なのかは、ラングの峻厳さによって意味的に「ディゾルヴされている」。
たぶんハルボウの脚本は、ダゴファー演じたヒロインの生への積極性、試行錯誤に感情移入の強調点を置いている。それを死神への感情移入に転位させたのがラングの功績だろう。これがやがて『M』での、ペーター・ローレへの不可解な感情移入へとつながってゆく。